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2006年5月31日 (水)

1-1=0が理解できない人の喪失感。

キッドは難聴でテレパシストである。日常生活にまったく不自由はしないのだが、他人に迷惑をかけることがある。それは・・・。

声が大きい。

・・・ということだ。声が大きいことは自己中心的であると理解されることが多い。よって人の心が分からない。空気が読めないという指摘をよく受ける。テレパシストに向かって誤解も甚だしいのだが、ま、一般人の言うことだからあきらめるしかない。

挨拶をしたのに返事もしない。まったく礼儀を知らない人だ。とおばさんが憤慨しているのを目撃したことがある。しかし、その相手は聴覚障害者なのである。不自由さを感じさせない不自由な人たちはどこに潜んでいるか分からないので、本当に優しくありたい人は疑いの心を持って人と接するべきだろう。たとえば『君が代』を否定する教育者や『日の丸』を否定する教育者もただ単に心のビョーキであるだけかもしれない。もちろん、そういう人間に教育をまかせてよいのかどうかという問題もあるな。昔は「キチガイに刃物」という分かりやすいたとえがあったのだが、なぜか最近は使われていないようだし、キッドが「キチガイと天才は紙一重」と言われなくなったことと何か関係があるのかな。しかし、ビョーキの人に教育されたのでは差し障りがあるという表現にはピッタリの比喩だと思うのですがね。ついでに「キチガイは自分のことをキチガイだと思わない」というのも説得力のある言葉だと思う。そういう意味でビョーキと正気の境界線は本当に曖昧模糊としているのです。

で、『ハートをつなごう~発達障害(2)』(NHK教育060530PM8~)キャスター・堀尾正明、その他の名もないスタッフ(プロデューサーくらいクレジットすればいいのに)を見た。ソニンや石田衣良、そして蛭子能収さんがコメンテーター、アドバイザーとして梅永雄二教授(宇都宮大学専攻くらいクレジットすればいいのに)が配置されている。トークゲストは発達障害の皆さんとその家族で「しゃべり場」展開である。

四月から始まった新しい福祉の番組で月末に四日連続というどんなに変則なんだという放送形式である。四月は認知症(痴呆のこと)の特集で五月は発達障害(知恵おくれのこと)がテーマになっている。つまり、昔から存在するが最近呼称が変わったものについての情報番組である。呼称を変えるのはおそらくその筋の専門家や役人、圧力団体などであるのだが、キッドは呼称変更を肯定もするし否定もする。細分化を喜ぶキッドもいれば、意味の拡散を悲しむキッドもいるからだ。たとえぱ、言葉に不自由な人がせっかく、分裂症と言う言葉を覚えたのに今日から統合失調症になりましたと言われたら可哀相だなあと思う。

心理学という流動性の高い学問と大脳生理学などのある程度固定的な学問の衝突がある。脳の機能性という問題に即して具体的な事実があれば昨日までは「性格」の問題だったのが今日からは「病理」になるわけである。しかもまだ学者の合意さえもが道半ばだ。発展途上の社会がハンディキャップのバランスをとるのは困難なことだが、「こんな頭なんて壊れてしまえばいい」と苦しむ人を「なんとかして助けてあげたい」という人々の善意は信じたいと思う。それは時には本人や家族にはどうにもならない困った問題なのだから。発達障害をかかえる子供たちと発達障害とは知らずに育った大人たち。そして理解しようという周囲の人々。その人たちのハートは確かにつながっていくようだ。この人たちが「馬鹿は死ななきゃなおらない」なんて言っちゃダメと言い出さない限り、キッドも暖かく見守っていきたいと考える。

算数が苦手な子供。国語が苦手な子供。理科が苦手な子供。社会が苦手な子供。体育が苦手な子供。音楽が苦手な子供。図画工作が苦手な子供。総合学習が苦手な子供。そして人間が苦手な子供。みんな、面白いぞ。キッドはみんなを大好きでいたいと思うんだ。

木曜日に見る予定のテレビ『ダウンタウンDX』(日本テレビ)

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