浮浪児たちの東京で。
ドライである。乾いた哄笑が鳴り響く。これはわかりやすい狂気なのだが、もちろん、極めて少数の人間にしか響かない。小津安二郎を人情喜劇というジャンルに押し込める人々には届かないであろう小津の狂気の哄笑がかすかに聞こえる。
敗戦から2年目の戦後最初の小津の映画『長屋紳士録』を劇団乾電池が舞台化した作品。
小津の狂気と演出家・柄本明の狂気は時を越えて抱き合う。二人は忍び笑う。「お前、こんなお人よしを見たことあるか。俺は時々、自分がそうであるかもしれないと考えて、ゾッとするんだ」そして、二人はこらえきれず笑い出す。それは乾いた哄笑になる。なるしかないじゃないか。
で、『芸術劇場・劇場中継・劇団東京乾電池公演・長屋紳士録』(NHK教育060611PM1025~)原作・脚本・小津安二郎・池田忠雄、演出・柄本明(2006年4月東京・下北沢・スズナリにて再演を収録)を見た。出演は他に角替和枝(後家)、沖中千英乃(迷子)、ベンガル、綾田俊樹、山地健仁など、これに蛭子能収、藤山直美(動物園の熊)などが客演している。ま、大所帯である。
背景となる東京の長屋には現代からは想像もつかない、貧困が満ち溢れている。いや、今だって貧困な人は貧困だが、この作品世界では貧困が日常的かつ普遍的なのである。老若男女みな食うのが精一杯という時代なのだ。この食うのが精一杯というニュアンスが伝わりにくいというのも困った現代だと思う。当然、人々の心はギスギスしている。そこへ貧乏易者が浮浪児のような汚れた子供を拾ってくる。茅ヶ崎から来て九段で父親とはぐれ迷子になったという。
長屋の人々は貧乏なので子供をたらいまわしにする。ついに貧乏な後家さんが貧乏クジを引いて面倒を見ることになる。はぐれたのか、捨てられたのか。それさえさだかでない子供。後家さんは茅ヶ崎まで親を捜しに行ったり、置き去りにしようとしたり、冷たい言葉をかけたり、濡れ衣で叱ったりするのだが、やがて動物園に連れて行ったり、洋服を買ってやったり、ついには我が子として育てる決意をする。しかし・・・。
という話を軸に貧乏な人々の様々な人間模様が皮肉たっぷりに描かれていく。もう笑うしかないのである。原作のパロディーであるくすぐりのレベルではなく、蛭子さんの素を笑う残酷さではなく、藤山直美の一点豪華主義の笑いでもなく、状況そのものがお笑いなのだな。
それはオチに結実する。生さぬ仲の子供を失った失意の後家さんに易者(映画では笠智衆、舞台では山地)が告げる。「上野に行け」と。そこには空襲で親を失った子供たち。浮浪児がてんこもりだ。このオチが多くの観客にもはや不可解なのだろうなあと想像するだけでも笑うしかないではないか。
東京・上野駅の地下道には今でも独特の臭気がある。もちろん、それは飲食店の匂いなのだが、ある種の人の匂いでもある。それはどうしようもない境遇の子供たちの悲しい汗や血、そして涙の匂い。中継後の松尾スズキとの対談で柄本が語る汗へのこだわりをキッドはそのように読み解く。
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