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2006年6月23日 (金)

さらば愛しき女よと誰も云わないのだが。

スタイリッシュという言葉を初めて知ったのが1976年。今から30年も前だ。この映画を見て知った。

映画館で見て、そのあまりにも耽美的な映像で腰が抜けた。キッドがそう思う時、世の中の反応はそれほどでもないので、キッドはものが分からない? 世の中がものを分からない? ということで若者としては悩むのだが、とにかく、この映画も世間ではあまり話題にならなかった記憶がある。この後で『ブレードランナー』を見てまたまた腰を抜かすのだが、これもまた世の中の反応は鈍く、冷淡で、公開が早々に打ち切られたのを記憶している。

今は悩まない。世の中はおしゃれでもなく、スタイリッシュでもないということがよく分かっているからだ。そしてキッドがおしゃれでスタイリッシュだったというわけでもない。作り手と受け手がスパークしてしまう偶然というものがあるだけだ。もちろん、その衝撃は快感なのである。客だから自分が気持ち良ければいいのさ。「なんでこの良さが分からんの?」という言葉は飲み込んでおくべきなのだ。それがスタイリッシュというものだ。

で、『午後のロードショー・さらば愛しき女よ』(1975年度米映画・テレビ東京60622PM0130~)原作・レイモンド・チャンドラー、脚本・デヴィッド・Z・グッドマン、音楽・デヴィッド・シャイア、撮影・ジョン・A・アロンゾ、監督・ディック・リチャーズを見た。原作者のチャンドラー以外、この作品で燃え尽きたと言っていい。これ以上ない完璧な仕事をして受けなかったら嫌になるという気持ちはよく分かる。みんなこの後も黙々と仕事を続けるのだが、二度と輝かなかったような気がする。

チャンドラーファンはどの映画化作品もけなすのだが、これは映画を映画として見ていないだけで、無視するといい。エリオット・グールドの『ロング・グッドバイ』も酷評されたが傑作だった。もちろん、この映画のようなお耽美ではない。映像美に走るのは後にロッキーのエイドリアンと結婚することになるこの監督がカメラマン出身だということも関係あるだろう。ある意味、宇多田ヒカル夫妻の先行系なのである。ついでに平井和正はアダルト・ウルフガイシリーズでこの作品(原作よりも映画のような気がする)をパクっている。とにかく、ハメットよりもセンチメンタルなハードボイルドであるチャンドラーの作品世界。その湿度は雨に濡れる裏窓の中での回想形式ということで表現される。スタイリッシュだから。

わが祖父に似た草臥れたマーロウはロバート・ミッチャム。愛しい女はシャーロット・ランプリング。チンピラ役でシルヴェスター・スタローンがチョイと出たりする。映画オリジナルの売店のダチがひたすらマーロウに尽くす。その理由は一切説明されないのだが、マーロウを知っていれば、そういうダチが一人くらいいても不思議ではないと思う。アル中の老婦人が「相手はラジオだけ」といえば「ケンカにならなくていいじゃないか」と言い、「ペット探しにはチップをもらうことにしている。犬猫は5ドル。象なら10ドルだ」と言う。そんなことばっかり言ってるから痛い目に遭い続ける。そして、女を愛する男の気持ちを「三発撃たれても生きていれば恨みもせずに愛しただろう」と察する男。それはやっぱり古いタイプで。だからこそスタイリッシュなのである。

大鹿マロイが愛しくて愛しくてならなくなる。さらば愛しき女よと誰もいわないのだが。あなたが若くて失恋したばかりで、男なら。ラストシーンでは必ず泣けるだろう。泣けない場合は、あなたはスタイリッシュとは縁がないのだと思う。

土曜日に見る予定のテレビ『ギャルサー・最終回』(日本テレビ)

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