ドラえもんの店とのび太の街。
エンターティメントの基本は現実逃避である。キッド流に言うならば現実というフィクションからその他のフィクションへ意識を切り替えることだ。この切り替えがうまくいかないとあらゆる意味で危機に陥る。あぶないのである。しかし、それにもレベルはある。同じ耽溺でも小説や映画のそれと覚醒剤のそれは安全性に差異があるはずだ。・・・と思う。いや、そうであればいいと思う。できれば、そう願いたい。
さて、昨日は皇紀2666年、西暦2006年6月6日だったわけだが、この日のイベントとしてこの作品が放置されたことは間違いないだろう。小説をかなりダイジェストした映画のさらにダイジェスト版である。悪魔の所業も悪魔に魅入られる人々の仕業も禍々しくカットされており悪魔サイドから見るとしょぼーんと肩を落とす出来であるがないよりましだ。
悪魔は現実逃避のためのお宝をリーズナブルに人々に提供し、人々はつかのまの快楽や自己憐憫にひたり、そして地獄へまっしぐら。というお話。もちろん、ホラーだが、ここでこわいのはそんな悪魔の常套手段への警告とこんなお店があったらいいのになあという憧憬の強弱の問題である。キッドはあきらかに「お店」が勝っていると思うのだな。もちろん、クリスチャンではない人々には当然の感覚である。今、日本は夏祭りのシーズンであるが、それらが祭る神々は敬虔なクリスチャンにとって悪魔の眷属に他ならないのだから。
で、『ニードフル・シングス』(1993年度アメリカ映画・テレビ東京060606PM0130~)原作・スティーブン・キング、監督・フレーザー・C・ヘストン(チャールトンの息子)、脚本・W・D・リクター、翻訳・桜井裕子を見た。制作総指揮は『ブリット』のピーター・イェーツである。北欧映画、ベルイマン研究家にはおなじみマックス・フォン・シドーが悪魔リーランド・ゴーントをしみじみ演じている。ついでにアラン保安官はエド・ハリス(薄毛)で恋人ポリーはボニー・ベデリア(ダイ・ハードの薄毛刑事の妻)である。
舞台はおなじみのキャッスルロック。映画『スタンド・バイ・ミー』の舞台になったあの町である。原作ではいじめっ子エース・メリルが不良少年のなれの果てとして再登場するのだが、映画では省略されている。もちろん、省略は多岐にわたるので、原作に特定の思い入れのある人は痛い目を見るのである。それはガンダムのゲームにガンペリーが登場しないので感じるような些細なことだが。
エースが登場しないので、エースの夢の車も登場しない。・・・というように登場人物とお宝というペアが丸ごと、なかったことにされてしまうのは、まさに悪魔の仕業である。お宝では『エルヴィスの肖像画』が、おそらく版権やそっくりさんのギャラの問題(想像)で消失している。ああ、見たかったなあ。エルヴィスとファンのおばさんたちの夢の世界。キッドの想像では●●●●●さんのような人がエルヴィスとのラブに溺れていく生々しい世界が展開していたのだが。
二つの宗派が近親憎悪に追い込まれる悪魔にとっては至福の展開も経過が省略されている。「きつねのシッポ」も「例の女優兼モデルのヌード写真」も見せてもらえない。こういう点は小説というものの利点を再認識できるポイントだ。・・・しかし、日本製の競馬シミュレーションゲーム「ウイニングチケット」は再現されている。これはほぼキッドの想像した通りの品物であり、これを視認できただけでこの映画は合格なのであった。欲しい。欲しいぞ。ゴーントさん。近所で開店お待ちしています。
もちろん、『ドラえもん』と本作品はまったく関連していないが、もしもあの人がベレー帽をかぶったゴーントさんなら、ニート増加について新たな解釈が可能になるのである。もっとも我が国では街を崩壊させたりせずにみんな引きこもるわけなのだが。
木曜日に見る予定のテレビ『うたばん』(TBSテレビ)
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