冬場ならともかく、この季節はちょっとねぇ。(雪女)
雪女は吉井怜さん。ギリギリ判別可能かな。
すごいカットというか、オンエア編集だったけれど、オンエアしたことに意義がある。
やはり三池崇史は日本一アナーキーな監督。尊敬するぜ。
確認① 「お化けは死なない」これ、大前提。
確認② 「妖怪麒麟ビールとキリンビールは別物。後者では妖怪が見えるようにならない」幻覚を見るようになる場合はあります。
確認③ 「東京まっくら祭りは現在開催されていません」都知事が五輪誘致に切り替えたという噂があります。
で、『金曜ロードショー・妖怪大戦争(2005年公開)』(日本テレビ060811PM0903~)脚本プロデュース・荒俣宏、脚本・沢村光彦(他)、監督・三池崇史を見た。猩猩(近藤正臣)が美少年タダシ(神木隆之介)を麒麟送子(怨霊退散のための戦士)に抜擢。特注の衣装に着替えさせるシーンでショタコンが全滅する。
タダシの姉(成海璃子)が風呂上りなのでプチロリマニアが全滅する。なお、彼女はヨモツモノ東京襲撃のファースト・インパクトでプレスされてしまったものと考えられる。
ろくろ首(三輪明日美)にペロペロしてもらいたい人、砂かけ婆(根岸季衣)に砂をかけてもらいたい人、大首(石橋蓮司)にふーっをしてもらいたい人はほぼ同数と考えられる。
ただの人・佐田(宮迫博之)と大天狗(遠藤憲一)は別人です。
川姫(高橋真唯)の太ももは特殊加工されているので魅力倍増しています。ノーローンでの借り入れの際は計画的に。この映画では彼女は平安時代の陰陽師・阿倍晴明(永澤俊矢)のヒトガタ(紙で作った呪術的使い魔)でしたが、加藤保憲(豊川悦司)に倒され妖怪として再生されます。おそらく、再生の霊的原料は人柱の怨霊(橋などを作った際に川の神に捧げられた生贄)であり、生きたまま犠牲とされた怨念と人工的な奉仕の念の混合人格。「永遠に苦しむ怨霊とされたことを憎みつつ、憎しみは人間的なものなので受け入れられず、人工的な善(清いこと)をつらぬく」という哀れな存在です。哀れなものはエロいというのが定番です。対して川太郎(阿部サダヲ)は水子の霊ですから、本来、人格を持たないのですが、妖怪仲間と接するうちに差別されることに敏感な性格になったようです。つまり、大人になって生きながら葬られた川姫の方が水子よりも年上で長幼の序によって姫>太郎という階級が成立するのであります。
アギ(栗山千明)は悪の組織の矛盾のシンボルです。悪の組織にとって組織への忠誠心や指導者への愛さえもが不純物。悪の組織が必ず崩壊する秘中の秘です。これを恐れて愛を導入すると悪ではなくなってしまうという神の仕組んだ壮大な罠です。だから彼女にとって「愛すること」は「剣を挿入されること」になるわけです。教祖が別のものを挿入するような組織は悪の組織としてもダメダメなんだと認識することが大切です。アギも哀れな存在なのでもちろんエロいです。
日本ではタマがどちらかといえば善、モノがどちらかといえば悪という自己中心的な発想があります。タマシイとモノノケといった用例で明らかです。しかし、古来シマビトはタマもモノの神として崇拝してきました。もちろんさわらぬ神にたたりなしということで。半島や南方からの征服民族が来るたびに怨霊はそれなりに加わるのですが、すべてを水に流すのがシマビトの流儀です。そのシンボルである妖怪たちはいかなる悪の勃興も祭りとして楽しむ習性を持っているのです。
最後に妖怪大翁(水木しげる)が「戦争は腹が減るだけだ」と反戦的なことを言うのですが、これをちくしとかオグラとかトリコエとかの平和ボケ青春左翼脳軟化発言と同様に受け止めてはいけません。南方のジャングルで飢餓とマラリヤに苦しんで片腕を切断し、九死に一生を得て帰還した兵隊さんの有難い体験的感想ですから。
初恋の衝動が小豆洗い(岡村隆史)をふっとばし、除霊効果の高い小豆が混入したため、牛蒡(護法童子のシンボル)による天の配剤か、またしても加藤(帝都物語参照)の野望はくじかれるのですが、平将門の名にかけて、復讐心もまた永遠に不滅です。キッドがいくつになってもスナコスリが見えるのと同じように自明の理なのです。
佐田「あの娘、俺のことなんか言ってた?」タダシ「・・・好きだって言ってた」ウソツキは泥棒の始まりだからカットですかぁ。ま、ちょっと蛇足の感じはありましたから別にいいですけどぉ。難しいですよねぇ。想像力のない人(バカ)たちに想像の産物でエンターティメントを提供するのはねぇ。加減がねぇ。
関連するキッドのブログ『怪談新耳袋・劇場版』
日曜日に見る予定のテレビ『ワシントンリポート・B2爆撃機グアムへ』(テレビ東京)&『NHKスペシャル・日中戦争』(NHK総合)
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