「元気にしてるか・・・元気かぁ」と志田未来は言った。
「俺、ちゃんとするから、すぐには無理だから、いつか、ちゃんとするから」と志田未来は言われた。というキリちゃん(三浦春馬)のセリフと迷ったけれど、ドラマは明らかに転調し、もはや、志田未来の背中を指す指の持ち主たちはとるにたらない愚かな人々と位置づけられたので、キッドは安心して未希(志田)の主観に軸足を移すことにした。
このドラマに対する賛否両論は非常に興味深かったが、多くのブロガーたちの共通認識は「14才の妊娠はやはり早すぎる」というものであろう。
しかし、そこから「しかし、出来てしまったものは仕方ない」という意見と「出来てしまったらなかったことにしなければならない」という意見の対立軸が生じた。前者は「それですむ問題か」と叱られ、後者は「人でなし」とレッテルを貼られる。まさに不毛の争いである。だって正解なんてないんだもーん。しかし、この世に不毛の争いほど面白いものがあるだろうか。キッドはないと思う。
で、『14才の母・愛するために生まれてきた・第8話』脚本・井上由美子、演出・佐藤東弥を見た。全世界を敵に回した14才の母だが、あれよあれよと味方を拡大し、もはや見渡せば周囲は味方ばかりである。もちろん、人々が心からそうしているわけではない。
前回、流産流産詐欺で、入院したけれど、母子ともに安全が確認される。ここで14才の妊娠なんて即中絶に決まっているだろ委員会のメンバーをなだめるかのように主治医(高畑淳子)が「成長期なので心身ともに負担が大きい」と説明、ここで母は「もしも、娘か孫かを選ばなければならないとしたら娘を助けてください」と心の底のできれば中絶願望が顔をのぞかせるが、主治医は「娘さんの出産を認めたのでしょう。私は母子ともに無事に出産できるよう努力します」とクギを刺す。・・・う、うまい。
人間の割り切れなさの表現としては「キリちゃん一家の夜逃げを未希に伝えていいものか」問題が浮上する。間違いをしても仕方ない母の母の弟が口をすべらせて、未希に「何か隠し事がある」と悟らせてしまう。ストレスを避けさせたい相手に「隠してもストレス」「隠さなくてもストレス」という状況が生じるのである。割り切れないが、決断を迫られるのである。そういうことを人はいつしか、学ぶのだが、学ばない人も中にはいる。これがまた割り切れなさなのである。
泣かない約束をしたのに、もう泣いたとか、言う人は、逢わない約束したのに、電話したと絶対ツッコミを入れるのだが、約束は破られるためにあるということを学ばなかったのだなぁ。それはそれで幸せな人生だと考える。
さて、今回、最大の裏切り者は狂人・北村なのだが、まず、母の父の来襲を受ける。母の父は単細胞生物なのだが、娘ゆずりの頑固さは持っている。ま、流れとしては逆ですが。この父に「世界の現状を知らずに過保護で子供を甘やかし、中学生なのにセックスして妊娠して中絶させる親たちに正義の鉄槌をくだし、神の放ったメギドの火に炎上させるもくろみ」が「こうなったら無事に出産させたいんだ」の一言で瓦解してしまったのである。
この後はまさに狂人・北村、いつも狂ってはいられない状態。捜索中のキリちゃんからのコンタクトに呼び出され「居場所を教えるから報道してほしい。母を止めてほしいんだ」というキリちゃんに「それは家族の問題だから、君が母親を説得しなけれぱならない」とナイスアドバイスをする始末である。
話は前後するが、ラストシーンでは産気づいた未希に遭遇、狂人・北村でなければ似合わないセリフ「怪しいものではない」・・・クククククク・・・「救急車呼ぼうか」なのである。しかも未希に「ありがとうございます、でも、自分でできますから」と言われお年寄りに席を譲りことわられた態でおろおろ。狂人・北村、かわいいーっ。
さて、次々に繰り出される「中絶賛成派粛清アイテム」、まずは胎児の映像。ここが、口よ、ここがアソコよと、おらおら、奪えるんかい、この無力な命を、えー、この人でなしさんよー。である。次に胎児の胎動。タイトルになったセリフをはじめ、家庭訪問の担任(山口紗弥加)と出戻り親友(北乃きい)にもお腹にタッチ、きゃー動いたーっでダメ押し。ちなみにそっと伺う裏・未希(谷村美月)つきである。さらに出産間際の妊婦(戸田菜穂)を配置。反対派の神経逆撫での「若くていいなー」発言、そして生みの苦しみと産声の協奏曲である。どうだーっ。もはや大沢逸美もイヤミが好意的なのだーっ。
さらにダメを押すわが子の散髪する母。そして「どちらかなんて選べない。だってこの子はもう人だもの」わははは、勝利じゃ勝利の美酒じゃ。母の最期の託宣は「覚悟を決めたからには運を天に任せるだけ」・・・そうですよ。妊婦であろうがなかろうがここもまた戦場なのですからね。
記念撮影は陰口をたたくしか能のない、とるにたりない人々をクローズアップするだけのもの。ちょっとあざといか。勝って兜の緒を締めよですからーっ。
そして出陣の時を迎えたか。苦悶にゆがむ未希に主題歌が「ダーリンダーリン」と二度出しのカットイン。「しるし」これが最終兵器なのだな。
たとえば、「セックス」についてどうしても子供と語れない親がいる。このドラマを子供と見れない親もいるのである。そういう人たちはある意味、一種の障害者である。そういう人たちの救済処置をどうするか。ここが一番問題なのだなぁ。かといって子供の前で親が正々堂々とセックスをし親の前で子供が正々堂々とオナニーしているような家庭は・・・もはやギャグだしなぁ。おりあいをつけるのって本当に難しい。
関連するキッドのブログ『第七話』
金曜日に見る予定のテレビ『金曜ロードショー・ALWAYS 三丁目の夕日』(日本テレビ)
| 固定リンク
コメント
キッドさん、こんにちは。
正しいこたえは出せませぬが、実際に考えていくと、
中学生に子供を一人前に育てられるか?という事に
尽きると思います。
脚本家がどう話のすり替えをしても、子供が子供を
育てられません。設定がおかしいです。
命が粗末に扱われることに、警鐘を鳴らしたいのでしょう
が、それなら子供を、家族をどう愛するか?とういう課題で
ドラマを作って欲しいですね。生んでから虐待なんて、タマリマセンよ。
投稿: mari | 2006年11月30日 (木) 17時35分
こんばんは!
私もねあざとい演出をするな~と思ってました。
そうそうあのお腹の画像を出したシーンです。参りますね。生きてるのよ!これをどうしたいの?って感じで迫ってきます。でも実は違う、根本的に「命」を宿したことに対しての糾弾が何もなかったことが一般的に反感を買っているんだと思うの。その出発点をおざなりにして、「産む」に固執したのが2度目の反感。本当なら命の誕生は美しいはずなのに、ほとんどの家庭は未希の家庭のように甘くはないことも要因の一つでしょう。そして産んだあとのことを描かれない可能性なのが現在の苦情でしょうか。
これはたったの物語なので自由に産んでもいいのですが、なんせ中高生がかなり必死にみているらしいので、間違ったメッセージに受け取られるのが世間的にはまずいみたいですね。未希の家ほど金がなくて親にも育てる力がない時、それでも産むと言い張ったらどうするんでしょう。最低限、文化的な生活ができなくても産むって怖くないですか?その成れの果てが見えるのがさらに怖い。そちらのほうが「命」を粗末にしてるように思えるのですが。
投稿: かりん | 2006年11月30日 (木) 20時49分
台詞回しに関しては
今期のドラマではまず一番の出来ですかね。
このドラマは「命の問題」に取り扱っている感じに
受けるのですが、では何故「14才」という年齢に
したのかちょっと気になっていたのですが
波多野の言葉を借りれば
「視聴者がよだれを垂らして舌なめずりして飛びつきそうな話題」
という考えすら浮かんでしまう今日この頃です(笑)
波多野と言えば狂人の役柄がよく似合います。
ただ、今回演じる波多野って性格は変わっているし
彼の視点もちょっと変わっているのかもしれませんが
彼の人間性は真っ直ぐなんですよね。
>しかも未希に「ありがとうございます、でも、自分でできますから」と言われお年寄りに席を譲りことわられた態でおろおろ。狂人・北村、かわいいーっ。
これこそ、波多野の本来もつ人間性なんでしょうね。
こういう登場人物に対して誰も悪人っていう人がいないですね。
それと対称に演出があざといのが、残念な限りで(苦笑)
もうひとつ、考えさせられるのは
何をもって幸せとするかという点が気になりますね。
人並みの幸せ。人並みの人生。
何をもって人並みとするのか。
親の言う通りに生きる事が子供の幸せになるのか。
このドラマからそんな皮肉めいたものもちょっとヒシヒシと感じられます。
親の願いが良薬であっても
その量が過ぎれば毒になるという事でしょうかね。
投稿: ikasama4 | 2006年11月30日 (木) 23時27分
❁~✾~❁~~✾mari様、いらっしゃいませ✾~~❁~✾~❁
キッドはごく親しい人に
捨て子がいるので
親と子供の問題については
ある程度、感傷的になるところがあります。
でも、その人は本当にいい人なので
本人自身の内なる苦しみはさておき
ああ、この人が生まれてきてよかったなぁと思うのです。
捨て子は両親そろっている子供にくらべたら
中絶された胎児に近いのと思うので。
そういう運命だったかもしれないと思うと
切ない気持ちになります。
本当に両親がどこの誰だか分からない捨て子だと
自分がどのように老いていくかという
見本さえないわけですから。
どんなに不安だろうかと考えます。
それでも生まれてきてよかった。
個人主義の浸透する社会では
ますます、子供に対する親の責任は高まります。
しかし、本当に問題となるような子供に対して
どれだけの親が対応能力があるのだろうかと
キッドは思います。
少女を監禁しちゃうような子供、
クラスメートを刺しちゃうような子供、
自殺しちゃうような子供。
そういう子供を授かった親はその責任を負う。
周囲の人々も自分の生活に精一杯で
なす術がない。
キッドはそれはどうだろうと思うのです。
子供に子供は育てられない。
そうだとしてもそんな子供の子供は
この世にいるべきではないということなのでしょうか。
キッドはこの点だけは
それは違うと思うのです。
このドラマは少なくともキッドには
そのあたりが静かに伝わってくるドラマなのですが。
投稿: キッド | 2006年12月 1日 (金) 03時17分
☽✿❀✿❀✿かりん様、いらっしゃいませ✿❀✿❀✿
キッドがアナログテレビにこだわるのは
ま、結構長く現場にいたこともありますが
キッドにとっての最低限の文化的生活とは
アナログテレビ(以下テレビ)を視聴できることだからなのです。
テレビはワンウェイ(一方通行)のマスメディア(大量受け手媒体)ですから、欠点も多いですが、そこには相当に有益な情報が含まれています。
いくら、機会が均等の社会を目指しても
東大生の子供が東大生になりやすいのは
統計上の事実です。
それはそうなるための情報が蓄積されているから。
そうでない人はそういう情報があることさえ知らない場合がある。
たとえばドラマ『ドラゴン桜』はそういう人々に少なからずの情報を与えます。
中学生が妊娠しちゃまずいだろうと
多くの大人たちがそれが「常識」と考えるわけです。
ところがそれを知らない人もいる。
それを知らない人がいるのを知らないのも「常識」ですから。
たとえば一ノ瀬家では娘が「妊娠」はおろか「性行為」を
することさえ認識外だったわけです。
ここで多くの人が
「そういうことがあるのを子供は知らない方がいい」
と考えます。
「そうすればそういうことをしないのだ」
ということです。
キッドはそれは甘いと思いますね。
それが一ノ瀬家では起こったのです。
次にそういう常識外のことが起こったからには
「無理をしないのが当然だ」
と多くの人々が考えます。
そして一ノ瀬家が無理なことを始めると
「現実的でない」
と批判するわけです。
キッドが考えると
次の子供は経済的に無理という家庭で
中学生以下の子供のいる親が困ったことになるわけです。
「あなたがもし妊娠しても家では中絶するしかないのよ」
とクギを刺さなければなりません。
当然、それは一ノ瀬家のようにかっこよくないので
かっこ悪いのです。
でも、それが現実なら受け入れなければいけません。
「避妊したって100%じゃないから、あなたは経済的自立をするまではセックスしてはいけません」
と言わず、子供が妊娠した場合は100%親の責任ですから。
キッドは「アラブの大富豪となら許す」ことにしています。
投稿: キッド | 2006年12月 1日 (金) 03時47分
✥✥✥ピーポ✥✥✥ikasama4様、いらっしゃいませ✥✥✥ピーポ✥✥✥
そうなんですよね。
井上さんの脚本は本当に緻密だと思います。
よくこのドラマの脚本に対して
批判を目にするのですが
そういう方はどれほど緻密な頭脳をお持ちなのかと
眩暈を感じるほどです。
知能指数でいうと180~195ぐらいでしょうか。
そうでない場合は単なるおバカさんなんですけど。
キッドもこのドラマのタイトルを聞いたときには
枠の前番組がアレだったこともあって
血迷ったかと思ったのですが
井上脚本で志田未来主演なので
本気を感じました。
おそらく、個人主義の一面性に対する批判というか
アンチテーゼが根本的な目的だと読んでいます。
14才で妊娠してしまう。それが愚かな行為だとすると
殺せばすむの?
親は娘の不始末を責めればいいの?
周囲は不運な家庭を嘲笑すればいいの?
マスコミはそれをネタに広告収入を得ればいいの?
ま、最後はワイドショーが取材に来ないことから
考えて自己批判だけはしないと決めているようですけど。
前々回くらいに小僧が来て
狂人・北村というフレーズに噛み付いてきたので
甘噛みしてあげたのですが、
愛する人を好きな呼び方で呼ぶ自由だけは
キッドは守る覚悟です。
俳優・北村さんには迷惑かもしれないけれど。
ああ、どこでどんな役をやっていても
怪しく、狂おしく、可愛い役者。
そうはいないですからね。
キッドは悪の基本は二つあると思うのです。
一つは無知です。これは諸悪の根源です。
愛を知らないから犯す罪。
当然、もう一つは悪いと知りつつ犯す罪。
たとえば死刑です。キッドはこれは後者だと思う。
それは時に必要悪と呼ばれたりもします。
で、中絶手術はこれの仲間。
さらに、いじめを見て見ぬフリをすることも。
このジャンル分けには異論噴出するかとも考えますが
キッドの独覚としてはそうなります。
独覚ついでに、生きるという動詞は全てという名詞とまったく同じ言葉なのだという信念があります。
これには死後の世界を信じる方のキッド(キッドは多重人格です)はかなり批判的なのですが、死後の世界を信じないキッドにとっては譲れない一線です。
どのような形であれ、幸福も不幸も生きるの中にしか存在しません。死の中には何もないのです。生きるの中には死さえも含まれているのですから。
キッドはそう考えています。
これは良薬としてかなり苦いのです。
死ぬんじゃないかと思うほどです。
投稿: キッド | 2006年12月 1日 (金) 04時37分