「本当のことを教えて・・・赤ちゃん、生きてるの?」と志田未来は言った。
予定日より1ヶ月早い陣痛の到来。胎盤剥離による母子ともの危機に。とまどう母の母、母の父。ここは専門家が「大丈夫だよ」とプロフェッシナルな言葉をかける。専門家だってそんな気休めを言うのにも勇気がいる時代。脚本家はこらえにこらえてきた主題の展開を怒涛のごとくに行う。「生きている」「みんな生きている」「それを否定したら自分を否定するのも同じ」「それでもあなたは14才の母を否定しますか」「自分の生命を否定しますか」さあ、世間の反応はどうでしょう?
「だからぁ、妊娠と出産には適切なタイミングがあると思うのね」「子供も見ているんだからあおるようなことはやめてよね」「家の子に限ってこんなこととは無関係ですから」「14才なんて経済力ないし問題外でしょう」・・・なのでしょうか?
それにしても、もう一人の未希としか、思えない柳沢(谷村美月)、この期におよんでも正体を明かさないとは妊娠堕胎に自殺未遂つきとしか思えない。さあ、どうなんだーっ。
で、『14才の母・愛するために生まれてきた・第九話』(日本テレビ・061206PM10~)脚本・井上由美子、演出・佐藤東弥を見た。主題歌『しるし』の使い方に注目しているads(あず)様などがお書きになるだろうが、今回は番組タイトルによるエンディング。ほぼ、ダーリン、ダーリンまでである。残り2回を残して、あたかもここからが本番ですという終り方になっている。構成としては非常に上手というしかないのだな。
さて、狂人・北村(一輝)を正気に戻す幼い妊婦・未希(志田)の陣痛の到来。正気の狂人の救援を断り「来ちゃったみたい」と母に電話する未希。男であるキッドは分かるのか~、そういうものなのか~と納得するしかないところ。しかし、あまりの苦しみぶりに狂人はタクシーを止め、病院に向かう。狂人はいつでも必要な時にタクシーを呼び寄せることができる超能力者なのだった。ま、タクシーの空車が多いのは構造的な問題ですが。
ここで今日の小道具、未希の日記が狂人の手に。狂人は報道人としての特権意識で日記を検閲する。そこには幼い妊婦の心の経緯が短い言葉で記され、15才の父(三浦春馬)とのツーショットプリクラ写真を発見。狂人は正義のコレクターとして幼い妊婦を戦争の犠牲者と認定。内なる教条主義に従い、プリクラ写真を失敬し、戦場取材・思い出のアルバムに加えるのだった。
一方、病院には母の母(田中美佐子)、母の父(生瀬勝久)、母の弟(小清水一揮)が順次集合してくる。母は「最期のわがまま聞いてあげる」と言うのだが、未希は本心を隠し「生まれるときには連絡するといったから先生(山口紗弥加)に・・・」と言う。父は珍しく心配性が功を奏し、未希の病状変化を見抜く。やったーっ。父だってたまにはお役に立ちたいのですーっ。弟は「苦しいことをするなんでバカだ。もちろん、それをバカだっていうことがバカだっていうことぐらいわかってるさ」と暗に出産反対派に同意しながら批判するませたセリフ展開である。ふふふ、やりますな。彼がそれほど美少年でないことも的を射ている。
学校では「起きてしまったことは仕方ない派」と「起きてしまってもかくすことは出来る派」が対立。危機管理に対し組織が必ず直面する問題に肉薄。これに失敗すると雪印がこの世から消えるというとんでもないことが起きるのが現代社会である。ここはお約束の生徒乱入で問題の次元を即時解決の方向に進ませる。とにかく、反対派には「私は反対しましたから」という約束手形が必要だし、問題解決派には解決の糸口への突破口を与えてもらう安堵感があるからな。しかし、状況はたえず変化、「出産のための入院」が「母子ともに危険」という事態になっていても、遅れた情報を伝えるしかない場合もあるのだを暗示する。
転院して緊急手術(胎盤剥離による胎児の酸欠死を回避するための帝王切開)へ。意識の混濁した未希はついに愛しい人の名前を呼ぶ。
一方、情報を整理した狂人は彼女に彼の居場所を教える必要に迫られる。この辺は複数の選択肢から必ず必要な選択をすることができる正しいパラノイア機能が発動している。さすが狂人である。15才の父の家で手がかりを得た狂人は超能力でタクシーを呼び寄せると情報狩人として追跡を開始する。そして情報を「何もしてやることができない」父親の元へ。「訪ねるのはあまり薦められないが・・・」狂人の中にまたしても正気が芽生える一瞬。しかし、できることはなんでもやるどうせ左遷されたこの身どうなろうとも。
小岩、新小岩市民が暴動を起こしかねない、格差社会の底辺として描かれる魔都コイワの香港でいえば旧クーロン街のような魔窟アパートの一室。たちこめる阿片の煙の向こうに15才の父と「とりあえず中絶しとけば」派の希望の光・父の母はうらぶれた姿をさらしていた。
妊娠編のクライマックス。「コッヘル」「コッヘル」「母体の血圧低下」「輸血」「胎児は生きている」「母体は意識が・・・」「最初からこうなることが・・・・ダーリン、ダーリン」つづくである。
生きていることが楽しいことなのか、苦しいことなのか。人は日々迷いながら生きていく。より楽しくなるために苦しさに耐える場合もあるし、なるべく苦しくないように苦楽を忘れる場合もある。どんな苦しさも楽しさに変換する強さも求められるし、あらゆる苦しみから逃れるために死を選ぶこともある。人はみな孤独だ。その孤独から逃れる方法はただ一つ。みんなが孤独だと知ることである。「淋しいのはお前だけじゃない」(西田敏行の持ち歌のタイトル)の変奏曲として「14才の母」は秀逸であると考える。
関連するキッドのブログ『第8話』
金曜日に見る予定のテレビ『家族・最終回』(テレビ朝日)そして金曜深夜『羊たちの沈黙』(フジテレビ)も見るのさ。何度目でも見るの。明日、忙しいのに・・・。
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