人殺しだって愛してる・・・だけど硝煙の残り香は悲しい香り。(松山ケンイチ)
あなたの隣にスパイがいるのだが・・・人はそれをどこか信じない。実際に知り合った大陸なまりの怪しい日本語を話す女が重要機密を盗むように指示して中国大使館に出入りしたりしても、そんなまさかなあ。・・・と思うのが日本人の悲しい性なのである。
もちろん、日常とはいい加減なものだ。キッドの頭の中にも死後の世界を信じるキッドと死後の世界を信じないキッドが同居していて、前者によれば、神だとか、幽霊だとか、自殺のタブーとかは超越的なものだ。「どんな理由があっても人が人を殺していいわけないんだ」と言うロボ(松ケン)はその一派なのである。ところが後者にとっては神も幽霊も自殺のタブーもフィクションだし、人が死ぬと周りの人には迷惑だが、死者にとっては全世界が消滅しているのでまさに関係ないだろうと思うぱかりだ。「死なないで」とニコ(大後寿々花)が願っても人はいずれ死ぬし、人が一人死ぬたびに一つの世界が消滅するだけで世界は星の数ほどもあり、どうということはないと思う。
でも・・・大切な人には長生きしてもらいたいよね。ずっとずっと生きててもらいたいよね。
ニコ「なんで部屋に帰らないの・・・」ロボ「浮気して帰るみたいで・・・気がひけるっていうか」ニコ「・・・誰に?」ニコ「・・・だから、ロボットたちに」ニコ「・・・ああ・・・」ロボ「ニコのことを忘れて大人恋に走ってごめん」ニコ「・・・もう、いいよ」ロボ「やっぱり、おばさんより、中学生の方がいいにきまっているよね」ニコ「・・・どうしてあの人のこと・・・好きになったの?」ロボ「・・・あの人は・・・ニコに似ていた・・・」ニコ「・・・そっか・・・エクササイズだったんだ・・・ねえ・・・ロボ」ロボ「・・・ん?」ニコ「私がおばさんになっても・・・愛してくれるの?」ロボ「・・・・・・・・・・・・・・・」
で、『セクシーボイス アンド ロボ・第9話』(日本テレビ・070605PM10~)脚本・木皿泉、演出・佐藤東弥を見た。視聴率6.4%である。完成度の高さからいってももう少し視聴率があってもいいような気がするが、この程度の水準になると好き嫌いも半端じゃなくなるのでまあ、仕方ないのかもしれない。たとえばこの脚本家は男女ペアの共作家という建前であるのだが、実際は女性かもしれないし、男性かもしれない。そういう想像を抜きにして女性だと考えている人もいるだろう。
今、キッドは別ブログで出版社が倒産したために絶版になってしまった小説を投稿スタイルで公開しているが90年代と今では明らかに違うことは多い。たとえば携帯電話などは恐ろしいほどの普及でもはや中世と近代くらいの落差がある。
携帯電話のない時代ならロボの「緊急通信」は「地獄耳」というシチュエーションはこれほどには輝かなかっただろう。
40女と20男の恋愛と20男と10女の恋愛とをからめておくる今回の趣向。それも世代によって受け取り方は別々だ。女の殺し屋が「洗濯機に拳銃を隠す」のが大胆かどうかは「家事をしない男」の時代では繊細だったようにも見え、「家事もする男」の時代には迂闊のようでもある。それが40女の悲しさという表現であるかもしれない。
マキ(浅丘ルリ子)が中学生女優だった頃や、夜霧よ今夜はありがとうだった頃、2丁目3番地だった頃を知っているものと知らないものとではその神がかった永遠の美の受け取り方が違うのである。
番組が商品である以上、「買い手」に届かなければ意味がない。しかし、現在は放送だけでなく、二次使用による利益というものも意識される。オンエア作品としての価値が低くても熱狂的な支持者を得ればいいという考え方もある。
おおまかな図式でいえば、大衆=買わない、マニア=買うというものとなる。
視聴率を1%=100万人と単純計算すると、6.8%は680万人である。およそ、DVDなどは1万本売れればペイはできるので、680人のうち、1人が買ってくれればいいのである。もし、10人が買うようなことになれば万歳なのだ。
金持ち=利口者、貧乏人=おばかさんという図式にすると、利口者にシフトした番組作りという狙いも考えられる。
キッドはこういう図式に禍々しいものを感じないではないが、そういう身過ぎ世過ぎはあってもいいと思う。
そういういやらしいものを排除しながら、完成度の高い、この番組を純粋に楽しむというのはかなり困難なのだよなぁ。
たとえば、今夜は「生きる」ことを過剰に肯定した筋立てである。かって「仲間を裏切ったマキ」はそれを「なかったことにできず悩む」・・・悩むのには様々な理由があるが、この場合は宗教的なものであるといえよう。つまり、後生大事なのである。
死後の世界を信じるものと信じないものの葛藤は普遍的なものだが、死後の世界がないと証明されていない以上、「もしや」という気持ちは誰にもある。もちろん、「ウソをついた」から「閻魔様に舌を抜かれる」とは限らないが、その可能性がないわけではないという「恐怖」なのである。
キリスト教は自殺を禁じている。プッチーニにはそういう宗教的タブーを犯したものの葛藤をテーマにした作品が多い。たとえば神に対する罪を犯したものがいるが、情状を酌量して許され天国に受け入れられる・・・といったものだ。これを冒涜的と考えることもでき、そこにユーモアを見出すこともできるし、神への賛歌と捕らえることもできるのだ。
原作をレイプし、独特なニコを作り続けた作者はここにきてついに原作に回帰する。マキが指導してきたニコにマキが指導される構造はまさにそれだろう。「犯した罪」はなかったことにならないというニコは「罪なんていうものがこの世にあるだろうか」という雰囲気の懐疑的でクールな原作ニコを逸脱するのであるが、マキがニコの言葉に惑わされ、危地に追いやられる構造はまさに作者の懺悔なのである。「勝手にニコ像を書き換えてごめん」という土下座が伝わってくるようだ。しかし、そうでありながら「生」を肯定するのは悪いことじゃないでしょうという命根性の汚い往生際の悪さもあるのであるが・・・。
「正義」という信仰を持つロボ。彼は愛欲に溺れ、一度は信仰を捨てる。しかし、「愛欲」という幻想は破れ、彼は信仰に戻ってきた。ニコはロボの宗教などどうでもいいのだが、家出したペットが戻ってきたのはうれしいのである。ロボを迎える「正義の神々」・・・彼は自分の写真は捨てない。なぜなら、彼もまたロボだからだ。ニコはペットにお気に入りの骨(マックスロボ)を返してあげるのである。
ロボと昭子が別れる必然性は皆無だがゲストだからな。
宗教に奇跡はつきものだから、一郎(マイク真木)は許しを与えるために階段を降りてくる。バラが咲いた。そして帰るのだ。ゲストだからな。
もたいまさこもともさかりえも出番少なめだがゲスト多めだからな。
一人ハードボイルドの名梨秀吉(岡田義徳)、名なしとはコンチネンタル社のオプ(探偵)というハードボイルドの原型の一つである「名前のない探偵=名無し」である。知らない人はいないと思うが時代の恐ろしさを考えて付け加えておこう。彼らのモットーは「暴力で解決するのは最低だが、暴力を禁じて解決しないよりずっとマシ」というものだ。
それがプロフェッショナルというものなのである。彼こそが偽善的なこの作品世界の良心なのだと思う。
関連するキッドのブログ『第八話(プッチーニ・前編)のレビュー』
木曜日に見る予定のテレビ『私たちの教科書』(日本テレビ)
ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。
皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。
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コメント
今回は「生」というよりも
自分から「生」を投げ出す事はよくないという
とこに重きをおいておりました。
もし、あなたが死にたいと思う時
もし、あなたが死んだ時
あなたを思ってくれる人がどんな風になるのか
もう少し思いをよせてほしい。
誰だって自分が自分で許せない時はある。
己が犯した罪に気付き
懺悔したくても
償いたくても
どうにもなるものではない。
だから、人は神に約束する。
そして、人は神に許しを請う。
「許す」とは死に向かう人に
生きる希望を与えてくれるのみならず
人を救うものかもしれません。
でもって、ロボと昭子との恋。
物事には終わりがある。
いつか必ず終わる日が来る。
生まれいでた人に既にいつか「死」が与えられるように。
今という時間はいつか終わる。
だから写真を残す。
自分を好きでいる人との記録。
忘れないから。
ロボは違う。
彼にとって大切なのは今だから。
この今という時間を常に大切にしていきたい。
写真はいい。
自分が好きな人との記憶。
忘れる事はないから。
まぁ昭子さんの場合、
看護師という仕事でたくさんの「死」を見ていたから
そのように思ってしまうのかもしれないですけどね。
投稿: ikasama4 | 2007年6月 8日 (金) 08時03分
✥✥✥ピーポ✥✥✥ikasama4様、いらっしゃいませ✥✥✥ピーポ✥✥✥
「ニコロボ」のレビューは
結構、複雑です。
まず、ニコロボと原作の両方が好きということ。
しかも温度差がほとんどないにもかかわらず
内容の落差は大きい。
次に低視聴率です。
低視聴率=悪ではないけれど
商品としてどこに問題があるかを
考察したくなります。
そして作者特に木皿泉との
思想的な対立。
もちろん、思想というのは通過点ですから
まるっきり敵対ではないのですけれど
作品の主張が高次元になるほど
対立する主張も高次元になり
ある意味過激になりますからね。
キッドは両論併記を基本としますから
生を肯定されればされるほど
生を否定せざるを得なくなるわけです。
客観的に見ると根性曲がりの
可能性大ですからね。
しかも、一応「お笑い」ですから
些少は対応しなければなりません。
その上に放送自粛という
表現者としては一番危険な領域に
触れてしまった作品。
・・・大変だなあ。
キッドはどちらかといえば
人付き合いは苦手です。
たとえば限度があるというのが
面倒くさいのです。
いつだったのかは忘れたのですが
冠婚葬祭に出かけられなくなってしまいました。
ある意味、交際範囲が
拡大し続けて、
毎日、誰かの冠婚葬祭があるように
なってしまったからです。
そうなると不義理な場面が出てきます。
「あの人の結婚式には出た」のに
「この人の葬式には出ない」
という場面です。
「でもそれはなぜ?」
ここでキッドはおりあいがつけられなくなって
しまったのです。
もちろん、若さゆえのあやまちの部分もあります。
もう少しいい加減でもよかった。
それにそんなにたくさんの人間と
付き合っているというのが間違いだ
という考え方もあります。
ともかく、キッドにとって
『愛』とか『生死』の
問題は結構、その時の気分で
左右される問題でもあります。
悲しい事件が起こると
その悲しみの原因を含む全世界が
いっそ滅んだ方がいい
と思ったり
うれしいことがあると
連続幼女誘拐強姦殺人も幸せになる権利はあるよね
と思ったり
ちょっと考えると危険な領域は
そこかしこにあるわけです。
時々、この作者は飛躍します。
人々の「死」を忘れさせないために殺す。
とか、
世界平和のために家族を犠牲にする。
とか、
まあ、かなり、独善的な部分を
主張してくるわけです。
もちろん、
それは「ビョーキ」の一種ですが
なかなかおしゃれな言葉で
武装してきます。
キッドとしてはその言葉に溺れながら
「ま、立とうと思えば立てる浅さですよ」
と言ってみたいのです。
まあ、ある意味「許す」という行為は
「裏切り」だったりするわけですから。
そして人は「もういない人」を裏切り
「今いる人」を許すことが
楽な場合もありますからね。
そういう時、キッドはなぜか
「死者」の味方をしたい気分に
満ち満ちてくるのです。
不思議だなぁ。
投稿: キッド | 2007年6月10日 (日) 01時09分