あなたの子供にとって他のすべての子供は敵なのです。(成海璃子)
それはなんだか違うような気がする・・・と宏(長島弘宜)のパパ(山口達也)は言うのだが、どこがどう違うかは説明できないのであった。もちろん、バカだからである。
子供が三人溺れている。そのうちの一人は我が子である。一人しか助けられないとしたらあなたはどの子供を助けますか。溺れるもののたとえはいつだってシビアなものだ。究極の選択は曖昧さを許さない。
そういう状況に人が遭遇する確率が高いと考えるかどうかも認識力の問題だと思う。受験が戦争の一種であると認識するものには自明の理がそうでないものには断言さえできなくなる。それだけの話である。世界が一握りの勝者と大多数の敗者で構成されていると敗者は考えたくないものなのだから。
で、『受験の神様・第三話』脚本・福間正浩、演出・大谷太郎を見た。たとえば、東京大学の入試問題の解答力が20才の人間の基本力とするとほとんどの20才の人間が知能指数100以下になってしまう・・・という怜悧な断面図なのである。もちろん、知能指数が人間の価値を決めるものではないという考え方もあります。
さて、今回問題となるのは視線の問題である。菅原道子(成海)がそのおそるべき演技力でビシバシと眼力を発揮する。
この視線に耐えられない人も多いのではないだろうか。もちろん、キッドはあまりにも魅力的なこの視線ゆえにドラマの内容などはほとんど頭に入ってこない。もうひたすら、もっと睨んでくださぁぁぁぁぁぁいとお願いするばかりなのである。
もちろん、カメラ目線だけでなく、脇役たちが睨まれている場面でも、しっかりと感情移入をし、たとえば広のパパの上司の天木(西村雅彦)が土下座して見上げる先の道子の冷たい視線もしっかりと受け止めなければならない。
もちろん、目が不自由な人には想像するしかない、この美を堪能できる我が身の幸せをしっかりとかみしめなければならない。今日、目日曜ではダメなのである。場合によっては、本日、未熟者という気持ちも忘れてはいけない。
さて、冗談はさておき、視線というものは言葉よりものを言うのだが・・・つまり、目は口ほどにものを言いということである・・・たとえば「ウソを語るときには視線が一定の方向に流れ、真実を述べるときは逆の方向に流れる」・・・といった大脳生理学的問題や、「話をするときは相手の目を見て話せ」とか「オレの目を見ろ、何にも言うな」などといった情緒的な問題まで様々な「生きるにあたってなにか大切なもの」を含んでいるのだな。
しかし、実際は睨むということは「相手に殺意を感じさせる行為」で本来は慎むべき行為であるという考え方もある。
たとえば、「礼」というものがある。お辞儀といってもいい。土下座もその一種である。頭を下げる行為である。これは要するに礼をする相手から視線をはずす行為なのである。つまり、敵意がないことを示す行為なのである。握手が「武器をもっていないことを相手に示す行為」であることと本質的には同じということだ。だから、スナイパーであるゴルゴ13はけして握手しないのである。
つまり、頭を下げる行為とは「殺されても文句は言わない」という意志表示なのだ。逆に隙を見せないということを優先する武道では頭を下げる場合でもけして相手から目をはなさいという上目使いを訓練する。つまり、防衛力は行使するのである。
お分かりだろうか、人の目を見る行為は実は無礼な行為なのである。
もちろん、人間に上下関係を認めない世界ではお互いを見ることを「無礼」とは言わない。しかし、格差社会ともなれば当然、目上の者を目下のものが見ることは礼を逸する行為になるのだな。格差社会が進行していけば、「見たな~」ということで無礼討ちされてしまう場合もあるので底辺のものは他人を見るのにも覚悟が必要となる。
さあ、不良の世界は殺伐としているので「ガンのくれあい、とばしあい」は日常茶飯事である。目と目があったら「てめぇ、なぁに、ガンつけてんだよぉ」と修羅場の発生は必然なのだな。
もちろん、「目と目で通じ合う」そーゆー仲になりたいわ・・・という別次元の視線の交差もあるわけだが、問題をこれ以上複雑にしないために今回は割愛させていただく。
さあ、お分かりですね。「受験の神様」の視線は絶対なのである。それに逆らうなどということは許されないのである。そういう意味で道子の視線はある種の特殊な能力を秘めているのだと理解しなければならない。
冒頭でおそらくわが子の家庭教師を道子に依頼しているであろう広域暴力団の実力者が道子に「わが子の宿題を手伝ったこと」を咎められ平身低頭する場面がある。本来、彼らは女子中学生などは手篭めにして輪姦し、シャブ漬けにして客をとらせる対象であるはずなのにあんな態度はありえないなどと思ってはいけない。道子の眼力に逆らえる人間などいないのであり、まして手伝った宿題が誤答であるなど問題外なので目を象徴する道具であるメガネを潰されることは当然の報いと理解しなければならない。
さて、物事の根本というものはこのように至極簡単なことなのだ。
たとえば、全てのテストの基本は国語である。問題はほとんどが国語によって出題されるのである。国語力がなければあらゆる問題に挑戦さえできない。学力が不足しているものに漢字の書き取りをさせることは基本中の基本だ。そして、意外なことにそんなことさえ理解できないものは多いのであり、このドラマの作者は少なくともコレで意外性が維持できると考えていることは明白であろう。
受験生を自分以外、全員抹殺すれば合格率は限りなく高くなるのであり、そうさせないために警察があるのと同じくらい当然のことも意外だと思う人も多いと考える。
そのため、今回は回りくどく、「受験がおだやかな殺し合い」であることを理解しようとしない広とそのパパに道子が立案した計画が進行していくのである。
相変わらず、広のパパの無能さを示すための会社コントが必要とは思えない展開だし、広のパパが「道子への家庭教師依頼を安請け合い」する友人の子供たちと道子が選択する広の補助ロケットとしての人材が一致するご都合主義など・・・もちろん、合理的な説明・・・道子の情報収集能力が人知を越えたパフォーマンスであることを含める・・・があるのかもしれないが・・・目にあまる部分の多いドラマではあるが、少なくともキッドは道子が常に見下ろす視線を投げかけてくれる限り、もう、今季最高のドラマであると認めざるを得ないのだった。
もちろん、土曜ドラマにつきものの「牛」が唐突に登場しすぎだろうっとかツッコンでもいいのだが、やめておく。
「クズね」と言われたハゲた鈴木一真ではなくて西村雅彦が「ちくしょー、おぼえてやがれ」と退場する際も、Mとしてちょっとしびれたような表情を浮かべていたような気がするのは・・・まあ、キッドの妄想でございます。
ああ、来週も見下ろしてもらえるなんてたまらないのさっ。
関連するキッドのブログ『第二話のレビュー』
『おじいさん先生』も見たのだがレビューは別の機会にいたします。
月曜日に見る予定のテレビ『ファースト・キス』(フジテレビ)
ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。
皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。
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