松尾芭蕉でテッテケテー!(高橋愛)ローアングルでQ.E.D.(中村蒼)
木曜日は日テレのよくわからないゴールデン・スペシャル→深夜レギュラーの連動企画第二弾である。
小栗旬→水川あさみの「夢をかなえるゾウ」は*8.1%→*7.1%だったのだが
津川雅彦オムニバス→ココリコ田中の「RESET」は9.6%→*7.0%である。
深夜は浜ちゃんがらみで前夜祭もやっているのだが・・・ココリコ田中の実力は認めるが主役のキャラではないのだと思う。アンカー役としても役不足。あくまでコメディーリリーフに徹すればいいのではないか。
「奇妙なお話し」としては「やりなおし」一本でどれだけヴァリエーションを出せるかどうかだな。突き詰めると成功か失敗かしかないわけだし・・・まあ「スカイハイ」より緊縛度は低いわけだが。ま・・・細々とやる分にはいいか。ゲストでいろいろお試しできるわけだし。
その他のドラマは「Q.E.D.」↘*6.0%、「特命係長」↘10.9%、「ありふれた奇跡」↘10.9%である。
まあ・・・しかし、一応「RESET」が裏番組にそこそこダメージを与えたのだった。いやがらせかっ。
もちろん・・・番外地である「Q.E.D.」にはほとんど影響ないのだった。
で、『Q.E.D.証明終了・第2話』(NHK総合090115PM8~)原作・加藤元治、脚本・藤本有紀、演出・伊勢田雅也を見た。前回を受けて、燈馬(中村)の登場時に笹塚刑事(富岡晃一郎)が「あっ、あの時のスカイダイヴィング少年!」と言うのだが、このセリフだけのために原作12話「青の密室」→原作4話「銀の瞳」という構成にしたのかもしれないと妄想するのである。作家というのは思い込みの激しいものだがこの脚本家は特にそういう傾向があり・・・今回やや裏目に出ている気がしないでもない。
それは主演・水原可奈(高橋)の演技の拙さで増幅傾向である。四年前だったら問題ないのだが・・・とにかく22才がなんちゃって女子高校生を演じるのだから結構大変だ。まだ素でできそうな亀井絵里でももう20才である。モ娘。大変だな。その上、未だに福井訛りが抜けていないというハンデが高橋にある。どうせならこれも「ちりとてちん」的に舞台設定福井でやって周囲が福井弁にあわせればよかったのに・・・全部福井県警の話にするのかよっ・・・それは無理すぎるだろうっ!
ま・・・与えられた素材でスタッフは全力を尽くす・・・そしてキャストは精進する。これしかないのであり、テッテケテーことラブリー高橋は一期一会の精神で取り組んでもらいたいと思うのだった。ピンチはチャンスなのである。
ミステリとしては燈馬が知力担当、可奈が体力担当の分業ものである。つまり、「相棒」で言うと右京が燈馬で、亀山が可奈だ。
で、可奈がミニスカ女子高校生である以上、そこはかとなくお色気も担当するのである。
それは当然見せ場である。今回で言うと①嫌な奴である被害者の生存中、可奈が激情にかられてキック(空振り)するシーン。ハイアングルで撮ってどうするっ。②壁を登り、窓から侵入のシーン。スカートをあと5センチ短くしておけば・・・。③はしごから落下するシーン。万有引力と風圧でスカートがふわっとしなければダメだ。例・上戸彩の学びたガール。
変態に対するサービス不足なのである。・・・おいっ。
まあ・・・そんなサービスが必要ないくらい・・・数字がとれていれば文句ないのですが。
たとえば・・・ボケとツッコミのくりかえしのギャグでも・・・セリフ的にはきちんと作られている。
いわゆるお約束のパターンで、通俗として「娘の男の同級生にそれとなく嫉妬を感じる父親」という典型があり、可奈の父の水原警部(石黒賢)がボケて「まったく嫌な顔をしない」場合、「少しは父親らしく心配してほしい」という可奈のツッコミがあるという手である。第1回でも作られているし、ここは笑わせどころなのである。しかし、まったく笑えない。これはもう・・・間が悪いのである。ここを流す演出をしていると役者の成長は望めないのだな。ラブリー高橋がくやしくてノイローゼになるくらいNG出さないと。
しかし、演出のセンスそのものにも問題がある。
冒頭、授業で芭蕉の句、「石の香や夏草赤く露あつし」について質問され、可奈が苦し紛れに、演歌調で「い~しぃのかゃぁぁぁ、なぁつぅくさあかく~」と歌い、歌った歌手の名乗りとして「・・・つゆ・あつしです」と落とすというギャグがある。
この場合、演歌調はメジャーな曲の替え歌であるべきだ。どの歌がはまるかを相当に悩んで設定しないと演出とは言えない。ひょっとして知る人ぞ知る演歌という小ネタだったのかもしれないが、キッドはピンとこなかった。ここでは可奈がボケなのであり・・・ボケきっていないと「演歌歌手じゃないよ~」という教師のツッコミが効かないのである。その後でクラスのみんながどっと笑って受けるまで・・・脚本上はきれいな流れが作られており、その場面を作れていな場合は演出家が未熟を感じなければいけない。さらに言えば脚本家は演出家の技量に応じて演出のアイディアを書き込むべきなのである。
今回は・・・被疑者死亡で迷宮入りという事件。犯人は人間国宝の人形作家(江波杏子)である。探偵の燈馬はすべてお見通しだが、真相を秘して死者の名誉を守り、事件は事故扱いにするという倫理的には際どい作品なのである。はたしてお茶の間にそれがきちんと伝わっていたか疑問だ。
被害者の資産家と人形作家の間には葛藤がある。人形作家は資産家にだけは自作の人形を渡したくない。そこで自分の死後は人形館を作り、そこに寄贈するという方法を考える。
しかし、資産家はダミー会社を作って・・・人形館の出資者となっていたのである。
「ふふふ・・・人形館のスポンサーは私だ」と嘲笑する資産家。しかし、可奈は状況が把握できず、燈馬に解説を求める。ここも笑いどころだが甘い。
「つまり・・・人形館の実質的権利はスポンサーであるあの人にあり、人形をあの人が自由にできるということだ・・・」という説明を受けて・・・驚くのは可奈だけでなく・・・その部屋にいる一同くらいの方が面白いのである。基本的には資産家にそれを許すほど全員がうかつなのだから。そして・・・資産家が・・・自分のイヤミな決めセリフがストレートに決まらずがっかりするくらいでいいのである。
さて・・・結局、人形を使ったトリックで被害者を感電死させる人形師なのだが・・・そこまで資産家が嫌われた理由がもう一つ明瞭ではない。
それは変態としての資産家の描写が甘いからである。
資産家は人形愛者なのだな。つまり、倒錯して人形にしか欲望を感じない男なのである。つまり、男性として女性にするいろいろなことを人形に対してする変態なのである。もちろん、抱くだろうし、フィニッシュもするだろうし、縛ったり叩いたり、ロウソクをたらしたりするのかもしれない。そして「ひひひ」と笑うのである。おそらく、人形師は資産家のそういう変態的な状況を目撃したことがあるのだろう。
だから・・・自分のかわいい人形を男の欲望で汚されるのは断じて許せなかったのである。もちろん、そのために殺人も辞さないのであるから・・・人形師自身もちょっと変態なのである。
そのあたりもきちんと説明するべきだったな・・・できるかっ!
さて、冒頭の俳句を読んだ芭蕉こと、松尾忠右衛門宗房が公儀隠密であることは有名である。伊賀・甲賀の忍者を支配した徳川幕府にあって藤堂采女家の采配する伊賀忍びである。忍びには陽忍と陰忍があるが、芭蕉は典型的な陽忍であって有名人として世渡りをしながら隠密としての勤めを果たすのである。奥の細道の旅が陸奥の大名たちの動静を探る偵察行動であったことは言うまでもない。時は元禄2年、第五代将軍綱吉の時代だ。句に読まれた殺生石は那須衆の支配する那須温泉郷にあった。この土地は天和元年(芭蕉の旅のおよそ8年前)に那須藩が廃され、天領(幕府直轄地)となった土地である。その後那須家当主は烏山藩主となるが前年の貞享4年に烏山騒動と呼ばれる相続争いを起こし改易になっている。当然、政治的な動揺が予測されるため、隠密としてはその後の動静をそれとなく探る任務が求められるわけである。「石の香や夏草赤く露あつし」の句は別にそれが報告書として有効とは思わないが・・・殺生石のある那須地域は夏草が赤く枯れ、冷であるべき露が熱である・・・つまり今も変わらず伝承通りの装いであることを描写し・・・世情が平静で特に特筆することがないと言外に語っていると推測することもできる。ちなみに那須家は芭蕉の旅からおよそ10年後に旗本として取り立てられ那須郡内に1000石を与えられ家名を残すことになる。余談だが芭蕉はこの旅の途中、一日に150キロ(フルマラソンの3.5倍ほどの距離である)移動したことがあり・・・なかなかの忍び足であったことが知られている。
可奈の少女時代(桑島真里乃)登場である。これで上戸彩(下北サンデーズ)、貫地谷しほり(ちりとてちん)に続き三人目の主人公の少女時代である。結構、渋いところをついてくるな。
関連するキッドのブログ『第1話のレビュー』
土曜日に見る予定のテレビ『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』『赤い糸』(フジテレビ)『松ケンの銭ゲバ』『妄想姉妹・文學という名のもとに』(日本テレビ)
ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。
皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。
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