喫茶店で話すような話かよっ(川島海荷)タダ券あったんで(稲森いずみ)アイシテル(折山みゆ)
ゴールデンウィーク途中ですが・・・水曜日のダンスは。
「臨場」(テレビ朝日)・・・・・・・・・・・・・・・14.1%↗14.5%↘12.8%
「アイシテル~海容~」(日本テレビ)・・・13.2%↗13.7%↗14.2%
「夫婦道」(TBSテレビ)・・・・・・・・・・・・・・*9.2%↘*8.9%↘8.6%
と分りやすい推移である。どうせなら、「夫婦道」と「ハンチョウ」入れ替えて「臨場」「ハンチョウ」対決になれば面白かったのにな。
「臨場」は「血液型O型の母と血液型B型の父から血液型A型の子供は生れない」という常識は「間違い」という話である。何事にも例外はある。まあ・・・こういう間違った知識でどれだけの無実の母が嫉妬に狂った夫に撲られたかと思うと心が痛みます。まあ・・・身に覚えがある人はしょうがないけど。
まあ・・・昔から父親は「これがあなたの子供」と言われたら素直に信じるのが一番という話です。
「臨場」についてもう少し知りたいあなたはコチラへ→まこお嬢様の臨場
で、『アイシテル~海容~・第3回』(日本テレビ090429PM10~)原作・伊東実、脚本・吉本昌弘、演出・吉野洋を見た。「世の中に酒場は星の数ほどあるってのになぜよりにもよってこの店に来たんだ」と別れた女と再会した男は映画「カサブランカ」で嘆くのであるが映画だからである。同様に弟キヨタンを殺された姉・美帆子(川島)が犯人の母親・さつき(稲森いずみ)と同じ喫茶店に入るのはドラマだからである。
なにしろすでに小学生が小学生を殺すというドラマなんですから。
ついでに、美帆子に優しくしてくれる良い友達は麻衣子(志村玲那・・・キグルミのレナ)と宏美(折山みゆ・・・『週刊ヤングジャンプ』2008セイコレ★ジャパンGirlsグランプリ)である。宏美、ナイスボディーです。
さて・・・劣等感というものが心理的コンプレックスの一種であるように罪悪感も心理的コンプレックスの一種だと考えることができる。
たとえば「犯した罪の意識に苛まれる」という言葉がある。これは一般的に考えれば、「罪」の認識、「罪に対しての罰」の認識、「自分が罰せられることの可能性」の認識、それに伴う「不快感」や「不安感」という心理的コンプレックスのさらなるコンプレックス(複合体)と考えることができる。複雑な心理なので、ある意味、高度な知性の証とも言える心理である。つまり・・・バカは罪悪感を持たないのである。
しかし、その複雑さは個人差の大きなものと考えることもできる。
たとえば、14才の女優をナイスボディーなどと評価してしまうことにも罪の意識を感じる場合があり、バカは罪悪感を持たないなどと規定してしまうことにも罪の意識を感じる場合があるわけである。
それはセクハラとか障害者差別とか社会という制度が新たなる規範で個人を包み込むからである。
罪悪感はそういう流動的で曖昧なものである。
劣等感を克服するという言葉があるように、発生した罪悪感を克服することもできる。
たとえば「殺してはいけない」という「制度」に対する「罪悪感」について考えてみよう。そうなると「焼肉」が食べられなくなってしまう。克服できないとベジタリアン・・・あるいは植物も生命と考えれば餓死である。
しかし、人は「食欲」とか「殺害現場を目視していない・・・つまり実行犯ではない」という自己弁護でこれを克服するのである。
「実行犯」ということでは「ゴキブリの駆除」が想定される。「虫も殺さないような顔」といえばイノセントの代名詞なのであるが・・・これからの季節、ゴキブリとの対峙はさけて通れないのである。
「生き物を殺してはいけない」という気持ちと「こいつと同衾するくらいなら死んだ方がマシだ」という葛藤の末、殺虫剤の使用を決意した人は「罪悪感」とも対峙しなければならない。
その時に多くの人が言い聞かせるのは「こいつは人間じゃない・・・ゴキブリなんだ」ということである。だからゴキブリのような人間は案外殺害対象になりやすいのだ。
わが子が「人を殺した」という事実を受け入れる親の心理は当然、複雑である。
そこに「罪」がある以上、罪悪感は当然あると考えるべきだろう。
もちろん・・・世界には「共通の罪悪感」などというものはない。
それを面白おかしく見せていくのがドラマの一つの役割である。
たとえば犯罪者に対する第三者の嫌がらせ・・・自宅に落書きや悪戯電話など・・・はその典型である。お前には罪悪感がないのかっと思わせる人間は意外に多い。なにしろ、バカには罪悪感はないのである。
一つの罪は罪の連鎖を露呈させていく。
加害者の両親は「罪」そのものから逃避しようとする。「罪」の否定である。しかし、本人の口から「罪を犯しました」と言われるとかなり逃げ場がなくなるのである。それでも「それは強要された自白」だとか司法側に罪を転嫁することもある。さらには「両親」なのでお互いに「お前が母親としてダメだったから」「あなたが父親としてダメだったから」と罪をなすりつけ、責任逃れをすることもある。ドロドロだ。
しかし・・・このドラマはある意味、非常に「優しい世界の偏り」を見せていく。なにしろ「海のように容れる」許容力の神が支配しているのである。
仕事熱心で家族サービスが不足だった夫(山本太郎)も教育ママで愚痴っぽい妻も心を入れ替えて・・・息子の犯した罪に向き合おうとするのである。
それに応じて・・・この世界の人々は加害者の両親に優しい。私学の担当者は「処分を保留にする」意向を示す。即刻、退学という結論は出さない。また、担任の教師は「彼はカブトムシが好きだった」と母親に伝える。もちろん・・・教育者として「責任」の一端を担っている以上・・・当然の対応と考えることもできるが、ここにも「罪悪感」は発動しているのである。
母親が加害者の友人を訪ねる場面では友人やその家族の対応は柔軟である。
「ゴキブリの母親」を見る目で見ることはしないのである。そこに違和感を感じる方もいるかもしれないが、世間というものは一筋縄ではいかないのである。
世間というものは「空間」であるが・・・なにもないようにみえて空気がある・・・ということだ。
たとえば加害者の友人の母である花屋のエリ(猫背椿)は加害者の母を見て、一瞬うろたえて・・・それから思い切って好意を示す。ここはなかなかの見せ場だった。
あの一瞬が海容の世界と普通の世界の関門だったのである。
だが・・・いかに寛容を示す世界にも限界がある。母親としてもう一度加害者に向き合おうとするさつきの心はどこかまだ現実から遊離しているようである。
被害者の母親・聖子(板谷由夏)もまた現実から遊離している。保護者としてうかつな勘違いでその場にいなかった罪の意識で自虐を繰り返しながら、もう一人の子供である加害者の姉・美帆子に対する配慮を欠く。つまり・・・どこまでいってもうかつな人間として描かれる聖子なのであるが・・・それはかなり高度な客観性に基づくものである。
大人が子供に対する責任と子をなくした母親に対する子供の責任。この葛藤は着地点がかなりスリリングである。どこにも着地点はないという考え方があるからだ。
加害者にあくまで優しい海容の世界は・・・被害者に同様に優しくできるか・・・。
ここが・・・罪と罰の世界の複雑さなのである。
一人の死んだ子供と二人の生きている子供。その両親の葛藤はまだ始まったばかり。
ここまで被害者の父親(佐野史郎)はもっとも海容な態度を示しているのであるが・・・最後までそうなのか・・・それとも・・・「キヨタンはもういないのに犯人はまだいる・・・許せない」と狂気の世界に足を踏み入れるのか。そこも楽しみです。
だから・・・そんなことを楽しんでしまうという罪悪感がな・・・。
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金曜日に見る予定のテレビ『桜井幸子のコンカツ・リカツ』(NHK総合)『新垣結衣のスマイル』(TBSテレビ)『エンケンの湯けむりスナイパー』(テレビ東京)『香椎由宇の名探偵の掟』(テレビ朝日)
ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。
皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。
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