殺っちゃったの?(稲森いずみ)海より容りて(川島海荷)アイシテル(小嶺麗奈)
まあ・・・しでかしたといえばデジテル大使なのだが、アナログ愛護同盟の暗躍や、酒乱で何が悪い党、健全ヌーディスト組などの画策も妄想され・・・面白すぎるのである。ただ一つ言えることは総務省のシークレット部隊、何してた?ということだな。表面化するまえに裸の泥酔アイドルを回収せんかぁぁぁぁぁ。まったく失態だよ。まあ、家宅捜索で何も出さないのは・・・手打ちか。とにかく・・・忍者部隊の皆さん、精進、精進。剣呑、剣呑。
で、今夜の「BOSS」への捨て身の攻撃だったという妄想もあるのだが・・・ないない。
とにかく・・・水曜日は変則ダンスが行われている。
「臨場」(テレビ朝日)・・・・・・・・・・・・・・・14.1%↗14.5%
「アイシテル~海容~」(日本テレビ)・・・13.2%↗13.7%
「夫婦道」(TBSテレビ)・・・・・・・・・・・・・・*9.2%↘*8.9%
・・・なのである。本物の強さがここにあります。
キャバクラ嬢であるゆかり(小嶺)を切り捨てた検視官一ノ瀬(渡辺大)・・・自己保身に走り官としての使命も切り捨てる。その人間として果てしなくグレーな心を飲み込む苦味がここにあります。
倉石(内野聖陽)は「終わりよければすべてよし」でいいのか。・・・まあ、お花を愛する変態だからな。
「臨場」についてもう少し知りたいあなたはコチラへ→まこお嬢様の「臨場」
で、『アイシテル~海容~・第2回』(日本テレビ090422PM10~)原作・伊藤実、脚本・高橋麻紀、演出・国本雅広を見た。「少年が殺された事件」はそれほど珍しくないという世の中だ。「少年が殺した事件」もすごく珍しいわけではないという考え方もある。「少年が少年を殺した事件」となるとそこそこ珍しいと言えるのかもしれない。
「女子高生コンクリート詰め殺人事件」(1988年)から20年である。その年に生れた子供が成人になっている。高校生を複数の少年少女が監禁・虐待・暴行・殺害・・・その残虐さに心が震えた事件を実感しないで成人したものがいる時代だ。
「神戸連続児童殺人事件」(1997年)では自称・酒鬼薔薇聖斗という中学生が小学生を連続して殺害した。犯行後、「殺害」の「興奮」の「記憶」の「記念品」を少年が求めたということに人々はうろたえた。「少年法」についてその実効性が問題となり・・・「少年犯罪」についての報道の在り方が議論された。
そして「佐世保市女子児童(小6)同級生殺害事件」(2004年)が発生する。インターネット上のトラブルから小学校内で児童が児童をカッターナイフで殺害するという事件にすべての人々はどうしていいのかわからなくなったのである。
前代未聞の事件は・・・20年前、10年前、5年前と明らかに発生頻度が加速しているのであって・・・これはドラマにしておかないとやばい・・・ということなのだな。
なにがやばいのかは問わないでください。
この枠は「14才の母」で中学生の妊娠という主題で物議をかもしたわけだが、「小学生による小学生の殺人」に比べたら明るい話題だったことが明瞭になったと考える。
犯行の動機・方法はまだ明らかにされていないが、10才で小学五年生の野口和彦(嘉数一星)が7才で小学二年生の小沢清貴(佐藤詩音)を殺害したことは確定した模様である。これで犯人は別にいた・・・なんてことになったらまったく別のドラマになってしまう。
この「前代未聞の事件」に加害者・被害者の両家の家族は日常生活を奪われてしまう・・・つまり普通ではなくなる・・・のがこのドラマの醍醐味ということであろう。
加害者の家族は・・・人を殺した子供の家族として好奇の目と社会的制裁にさらされる。そして被害者の家族は子供を殺された家族として好奇の目と社会的疎外にさらされるのである。この被害者の疎外が原作の主要点なのだが・・・ドラマでは明らかに加害者側の家族にも焦点があっている。
実は、小学生が小学生が殺すのはある条件を加えると前代未聞ではなくなる。つまり「自殺」や「限りなく他殺に近い事故」である。そこには当然「いじめ」という主題が潜むことになる。「いじめ」も重要な主題であるが・・・この「事件」の遠因を「いじめ」としてしまうと失敗の可能性は高まると思う。お茶の間は「なんだいじめか」と反応する可能性があるからだ。この点は留意するべきだろう。
また・・・「ゲーム」という言葉がさりげなく、挿入されているわけだが・・・ゲームをプレイすることによる心の変容の問題も避けるべきだろう。自分で自分の首をしめることなのである。
事件を担当する家庭裁判所調査官・富田葉子(田中美佐子)が加害者である智也に自分の小学四年生の息子健太(吉川史樹)について「悪い子じゃないんだけど・・・」と口をすべらせると過敏に反応し明瞭に心を閉ざす智也・・・この知性的な善悪の問題に焦点をあてていくことが大切なのである。
知能の発達に格差がある以上、殺意の発生と、発生した殺意の抑制の問題がキーポイントになるからだ。
概ね、人の知性には格差があって当然だからである。
知性はまず、①生きていることに気がつくことで発生する。「生」の自覚である。②次にその「生」が永遠に続くものではないと気がつく。つまり「死の可能性」の自覚である。
それがいつ起きるのかは非常に個人差のある問題である。たとえばキッドの場合は三才くらいで生を自覚し、その直後に死の可能性について考察した記憶がある。
やがて、生死は善悪の概念と結びついていく。「生」を「善」と捉え、「死」を「悪」と捉えるのが一般的である。キッドの場合は四才くらいでこのことを考察した記憶がある。
さらに生死と善悪は苦楽の概念と結びついていく。「生きる苦しみ」と「死ぬ楽しさ」という皮肉が意識される。キッドの場合は五才くらいでこのことを考察した記憶がある。
この時点で人生の選択肢は「生きる喜び」「生きる苦しみ」「死ぬ恐ろしさ」「死ぬ楽しさ」に分岐しているのである。
キッドが最初に死の誘惑を感じ生に留まる選択を感じたのは六歳だったと記憶している。自殺方法は「電車に轢かれて死んじゃう」である。
まあ・・・あくまで個人例だが、小学生になる前に自殺する可能性のある子供はいるという話である。
「自分への殺意」がある以上「他人への殺意」はたやすく発生する。キッドが他人への殺意を感じたのも六歳だった。殺害方法は「車道に突き飛ばす」である。
こうした恐ろしい子供を束縛するための情報体系が「死後の世界」である。
なんだかわからないが、この世とはちがうあの世があって、死後も「自分」が続いていくという情報は・・・非常に優れた虚構の一つであり、その虚実は一切証明できない不可知性を持っている。
「ウソをついたら閻魔様に舌を抜かれる」「自殺者は天国には入れない」「悪いことをしたら鬼に拷問される」「針山地獄はチクチクする」「釜茹でされる」「冷凍される」「血の池で呼吸困難」「永久連続運動」といった想像を絶する恐怖が「安易な死の選択」を拘束するのである。
これらの抑止力は確率の問題に還元されていくために・・・成長とともに効力を薄めていく。「死後の世界は虚構である」という確信が高まるのである。しかし、実証が不可能であるために正解は得られない。キッドの場合は七才でこの問題に遭遇して以来、ずっと検討しているのだが、もうお迎えが近いのに真理に達することはできないのである。ただし、仏陀もイエスもムハマドも立派なウソツキだったことはほぼ確信しています。まあ、そのおかげで殺されずにすんだ人々が多いというのが功徳ですな。
ともかく・・・すでに答えに到達した被害者を除き、加害者も、加害者の母も、その夫も、その夫の勤める企業の人々も、加害者の母の母も、加害者の母の妹も、取調べを担当した刑事も、調査を担当する調査官も、調査官の息子も、被害者の両親も、被害者のクラスメートも、被害者の近所の人々も、報道するマスメディアの人々も、報道を受ける人々も世界の生きとし生けるすべての人間がこの答えの前で正解を出すことはできないのである。
その一人である被害者の姉・美帆子(川島)は半信半疑の「死後の世界」と母親の不公平な愛の分配の「実感」の間で苦悶するのだった。それは「死」が「死」を招く暗い予感に包まれている。BGMは新垣結衣の「うつし絵」である。
思っているよりも愛されている
果てしない海のような愛で
もちろん、海に果てはあります。
関連するキッドのブログ『第1話のレビュー』
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ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。
皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。
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