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2010年4月 4日 (日)

梁の武帝は皇帝菩薩と呼ばれ粗食が過ぎたので餓死したのです(石原さとみ)

六世紀、日本は継体天皇の時代である。その頃、中国は梁の時代で仏教かぶれの皇帝は菜食主義者だった。仏教の戒律として肉食しないことは重要だったのである。そのために肉食大好きな臣下たちは大いに不満をためた。やがて臣下によって幽閉された梁の武帝は牢獄で餓死して果てたのである。

その梁の武帝の時代に宝誌という怪僧がいて様々な怪しいことをしでかすのだが・・・その中に日本についての予言がある。

まだ聖徳太子の生れる前であり、当時の日本は中国では耶麻人の国として知られていたわけである。

宝誌は「野馬台詩」の中で「卑弥呼の支配する国は王の後に100代で亡び、臣下が互いに争い全ては無に帰する」と予言している。

卑弥呼が誰かは別として神武天皇を初代とすると継体天皇は26代目である。つまり、残り74代は続くと予言したのである。

ある意味、めでたい予言である。ちなみに梁は5代で亡びている。

八世紀の人、吉備真備(きびのまきび)のパトロンとなった聖武天皇は45代目。中国は梁が亡び、陳が亡び、隋が亡んで唐の時代になっている。

この頃、唐ではパズルが流行していて、たとえば「野馬台詩」の場合五言二十五行で漢字125文字で構成されているわけだが、これを一字ずつ分解してパネルとしてシャッフルし、復元するというゲームなのである。

吉備真備は唐に留学中、これを「お題」として与えられ、見事に回答し、唐の宮廷で人気を博したという。

野蛮な和国人(日本人)としては教養があると認められたのだった。

ちなみに100代目は後小松天皇。日本の南北朝時代最後の天皇である。この天皇の死後まもなく、15世紀に日本は戦国時代に突入する。そういう意味では宝誌の予言は当たらずとも遠からずと言える。

ついでに昭和天皇は124代目。今上天皇は125代目におわしまする。

で、『大仏開眼・前編』(NHK総合100403PM0730~)脚本・池端俊策、音楽・千住明、演出・田中健二を見た。「大魔神」の次に「大仏」の話である。神秘の気配があります。まあ、いわゆる一つの奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)の誕生秘話である。天平勝宝四年(752年)に開眼供養会が行われ、奈良の大仏が誕生する。この年、吉備真備(吉岡秀隆)は再び唐へ旅立つのである。

そもそも大仏建造を命じたのは聖武天皇(國村隼)だが、開眼においては孝謙天皇(石原さとみ)の代となっている。その時、孝謙天皇34才、吉備真備57才である。ちなみに退位した聖武天皇は太上天皇として存命で51才だった。つまり、吉備真備は聖武天皇より年上なのである。念のため。

さて・・・八世紀の日本はほぼ奈良時代である。奈良(平城京)に都があったわけだ。六世紀から七世紀の聖徳太子時代に飛鳥に都した日本はようやく国家としての形を整えつつあった。飛鳥時代の天皇家のパトロンである蘇我氏を滅ぼした天智天皇は新たなパトロンとして中臣氏(藤原氏)を生み出す。やがて、壬申の乱で甥の弘文天皇を滅ぼした天武天皇は聖武天皇の曽祖父(天武天皇-草壁皇子-文武天皇-聖武天皇)にあたる。その頃には藤原一族の権力は強大なものとなっていた。聖武天皇の皇后は藤原不比等の娘・光明子(浅野温子)である。

いつの時代にも権力が存在し、権力が存在する以上、権力争いが生じるのである。

この時代には藤原一族とその他が争ったのは言うまでもない。

上にたつのは天皇だが、その下が藤原一族だけでは天皇の実権が危うくなる。そのための対立勢力発生が望まれるのである。その一派が天皇の一族である葛城王こと橘諸兄(草刈正雄)である。

ちなみに聖武天皇の母である藤原宮子(江波京子)は光明子の姉にあたる。藤原不比等は聖武天皇の祖父であり、妻の父にあたるのである。藤原家の執念がそこはかとなく漂うのだった。藤原不比等は鎌足の次男であり、藤原武智麻呂(藤原南家)、藤原房前(北家)、藤原宇合(式家)、藤原麻呂(京家)の父親である。藤原不比等の子である兄弟姉妹恐るべしである。

橘諸兄の妻もまた藤原不比等の娘・多比能なのである。

やがて、藤原武智麻呂の息子・藤原仲麻呂(恵美押勝)と橘諸兄の息子・奈良麻呂は対立を深め、ついに奈良麻呂のクーデター未遂に発展する。

それは大仏開眼からわずか四年後のことであった。

逮捕され、拷問された奈良麻呂はその反乱主旨を「人民が苦しんでのに大仏作りに夢中になっているのはいかがなものか」と述べたという。

その後、奈良麻呂は歴史の闇に消えたのである。

やがて、孝謙天皇が怪僧・道鏡とただならぬ関係となり、一説には孝謙天皇は色情狂だったと言われるわけだ。道鏡との関係に飽き足らず、道鏡よりもスケールアップをした張形をつくったとまで伝えられるのである。・・・とにかく、橘奈良麻呂を弾圧した藤原仲麻呂にも暗雲がたちこめる。大仏開眼から12年後、今度は仲麻呂がクーデター未遂を起こし、仲麻呂の一族はことごとく亡んだのである。

仲麻呂を戦死させたのは叔父・宇合の息子・蔵下麻呂だった。仲麻呂とは従兄弟同士である。

大仏が開眼しようとしまいと・・・天皇家をめぐる血で血を洗う権力闘争は果てしなく続いていくのである。

しかし・・・奈良には観光名所として大仏が今もあり・・・長い目で見ると大仏開眼は無駄ではなかったとも言えるのである。

つまり・・・何が世の中の役に立つかはその時になってみないとわからないのだな。

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ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。

皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。

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