こうして私は産む機会を天の恵と考えるに至った(北乃きい)
さて・・・頭の悪い人類の頭の悪い人生が頭が悪いなら悪いで100万年続いてきた秘密が語られるこのドラマ。
ある意味、すごく気持ちの悪いドラマだが・・・そこがいいと思うしかないのである。
こういうドラマであることを譲れない人々がいて・・・それもまた人間なのだと認めることが大切だからだ。
で、『八日目の蝉・最終回』(NHK総合1000504)原作・角田光代、脚本・浅野妙子、演出・佐々木章光を見た。男女が同権であり、一夫一婦制度を持つ国家では不倫によって生じる人間関係は悲劇を生みやすい。夫が他の女性と不倫関係になった場合、妻は権利を侵害されたと言える。夫が結婚の事実を隠して妻以外の女性と交際すれば詐欺罪が成立する。すべてが裁くことで解決すれば問題はない。しかし、現実には様々な灰色領域が存在する。自分を裏切った夫を愛する妻。不倫と知りつつ男に溺れる愛人。その三角関係は実に面妖だ。しかし、肉体関係あるところに妊娠があり、生まれ出ずる命は最初から残酷な運命を背負わされる可能性が高い。
だから・・・不倫なんてする奴は人間じゃない・・・と断言することができる。
しかし、なかなかどうして、それをしてしまうのが人間なのである。
もちろん、それぞれのケースで善悪を論じることは可能である。
他人の子供を奪う。その罪の重さははかりしれない。
たとえば・・・子供のあるものがわが子を殺されたとすればその嘆きは想像を絶するだろう。
しかし、時に人間はわが子を自ら殺したりもするのである。
心ある人々はその罪の深さを誰に訴えればいいのか・・・呆然とするかもしれない。
他国によってわが子を奪われた拉致被害者の家族たちの嘆きを日本人ならほとんどが知っている。
このドラマの主人公はある意味、それに似た行為をするのである。
それを肯定的に捕らえることはとてもできないだろう。
しかし・・・このドラマの作り手はギリギリまでその罪深さを問わない。
それはこのドラマの最大の被害者である恵理菜(北乃きい)が最悪の加害者である誘拐犯希和子(檀れい)に薫(小林星蘭)として育てられ・・・犯罪者を母として慕うというトリックでお茶の間を惑わしていくからである。
希和子が産みの母である恵津子(板谷由夏)から嬰児を強奪し、わが子として育てる間、地獄の苦しみを味わったはずの恵津子の描写を全くしないことも異常な描写と言える。
それはある意味、実母に対する憎悪をスタッフが追求しているかのようである。
もちろん・・・少数者の苛立ちとしては・・・それはありうる心情だろう。肉体的、精神的、経済的・・・様々な理由で生むことのできない女性が・・・それを理由に女性として迫害される悲劇。その屈折した吐露がこのような形に結晶することはありうるだろう。
さらに・・・救出された薫=恵理菜にうまく対応できない無能な母として恵津子はさらに手酷く描かれていく。
これに対して・・・誘拐犯である希和子はわが子の幸せだけを願う賢母の如く描かれているのである。
母親から引き離され、小豆島から東京まで輸送された薫は実の母親に抱かれた瞬間に失禁してしまう。その時、実の母である恵津子は実の子である薫を生理的に拒絶してしまうという展開はありえることだと思うが・・・一般的だとは言えないだろう。五年の間・・・思いに思った長女なのである。さらに言えば次女が生れているために恵津子は子供の下の世話を知らぬわけでもない。幼女が失禁したことに対し憐れとは思えど嫌悪するというのはかなり意図的な演出だと言える。さらに、関西弁に染まった薫を拒絶し、暴力をふるう恵津子の行動はまるで極悪人を描くかのようで・・・何かスタッフの執念のようなものを感じるのだ。
もちろん・・・あくまで希和子は異常者なのである。
逮捕され裁判にかけられた希和子は裁判官から被害者家族に発言される機会を与えられ「私に子育てをさせてくれてありがとうございました」と感謝する。そこには「罪の意識」が欠如しているのである。まして、子供を奪われた母親に対する思いやりは微塵もない。ところがその悪鬼のような言葉を浴びせられ・・・憤怒に駆られる実の母親の方がまるで醜いものであるように描写されたりもするのである。
愛人に言われるままに堕胎した女が敗者のように扱われ、そのことを非難しつつ、妻としてわが子を出産する女が勝者であるように扱われることへの拒否反応が異次元世界の演出を生み出したと言えるのだなあ。ものすごい変態的演出なのである。
結果として・・・薫=恵理菜は心をどこかに置き忘れたような鬱屈した大人になっていく。
なんという無惨なことだろう。
もちろん・・・ここで諸悪の根源である浮気な夫・秋山(津田寛治)を責めさいなむことは可能であるが・・・このドラマはそれもしない。夫はまるで第三者の傍観者であるかのように物語の外にあるのだ。
愛すべき人(実母)を愛せず、愛してはいけない人(犯罪者)を愛してしまう。その無惨な人生を過ごす薫=恵理菜は育ての母と同じように不倫の子を宿し、それを堕胎しようと考えている。それほどの苦しみが心にあるからである。
それを救いにやってくる天使がマロン(高橋真唯)だった。薫の幼馴染であったマロンは薫の唯一の故郷である小豆島への旅へと薫を誘う。薫はその旅の中でたとえ偽りの母娘だったとしても幸福だった記憶を蘇生させる。
やがて・・・それは新しく芽生えた命に対して・・・ある思いを生じさせるのだ。
もちろん・・・薫=恵理菜はここで恵理菜として再生するのである。
それはわが子への執着に始まり、それを奪われた恵津子の悲しみに帰着するだろう。
しかし、このドラマはそれをはっきりとは描かない。
それよりもあくまで妄想に生きる前科者の希和子の妄執へとなぜか回帰していくのだ。
生みの親より育ての親と言う言葉があるが・・・それを希和子にあてはめるのは実に盗人猛々しいのである。それでもなお・・・このスタッフは希和子に何か聖なるものを見出させようと意図するのだ。
もちろん・・・それは寸止めである。
心を破壊された子供と自分の罪の重さを認めない女とが再会して涙の抱擁で幕となるのではあまりにも狂気の沙汰になるからである。
そういう意味では無難でそれなりに優しいラストシーンだったと考えます。
まあ・・・とにかく、元ネタでは狂乱した愛人が正妻の子供を虐殺しているわけで・・・そういう事実にくらべれば穏やかなお話しだった・・・とも言えるのです。
ああ、すべての不幸なおいたちの子供たちに救いがありますように。
そして、超現実的な物語にそれなりに深みを与えた女優たちには心から拍手を奉げたい。
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ところでSPAMコメントが一日50件を越えたのでしばらく、承認制度に移行します。皆様には不自由とご迷惑をおかけして本当に申し訳アリマセン。
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