ならぬ堪忍するが堪忍ぜよ(坂本龍馬)
藩というものがどういうものか・・・ということをある程度理解しないと薩長同盟といういわば謀反の密約は理解できないと思う。
人と人間がどう違うか・・・というと言葉の上では、人は個体を指すが人間は人と人との関係を含んだ意味合いを持つということになる。
個は人の固まった状態である。固とは古びた状態で、古とは10代を経た口伝・・・つまり、昔話のことである。
日本語では不思議なことに個(こ)は子(こ)に通じていく。母体を離れた個体は子になるのである。
親と子はひとつの人間関係であり、それは古い話で結ばれている。つまり、過去の記憶であり、生前と生後の物語だ。
親子関係の連鎖により、一族が発生する。一族の連鎖により、部族連合が作られる。
部族連合は国家を生む。
国家はさらに国際関係を発生させる。つまり、外交関係とは人間関係の延長上にある。
すでに、日本という国号はあったが、その首長が天皇であることは神話的な出来事で、実際の体制は幕藩体制である。幕府という中央政府があるが、一方で各藩は地方自治を越えた独立採算制度運営された・・・一つの国家だったのである。
そうして運営されてきた地域が西欧列強という外圧によって錯乱していくのが幕末である。
薩摩国の指導者である西郷隆盛と長州国の指導者である桂小五郎の約束は国運を賭けたギャンブルでもある。
その「約束」を脱藩浪士の坂本龍馬が保証することに何か意味があるのだろうか。
すでにある程度確立された法治国家に住むものには甚だしく理解しにくいことだろう。
しかし、結局は個と個の約束事なのである。その約束は命懸けの約束に他ならない。
西郷と桂の約束を坂本が見届けるということは・・・どちらかが違約した場合は坂本龍馬が責任をもって裏切り者を殺すということに他ならない。
西郷も桂も坂本龍馬なら必ず相手を殺害できる・・・と確信して善意の第三者として承認したのである。
つまり、薩長同盟とはそういうことなのである。
一方、龍馬はこの場合、謀反の立会人である。国家などというものがない時点だが、あれば国家反逆罪なのである。
その時点で龍馬は親兄弟を捨て、国家を捨てた存在であったと言える。
そうでありながら・・・龍馬は人間関係を色濃く継続していく。
感謝の謝は謝罪の謝である。
「ありがたい」と人間は感謝しながら「ごめんなさい」と謝罪する。
革命家とはその不可思議な心境を常に抱えたまま・・・生きているものなのである。
で、『龍馬伝』を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。
(例によって仮記事です)
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