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2010年9月24日 (金)

一人一人の考え方だから難しい所(松本人志)

「細もの」ももちろん見たのだが、仮記事体制なので「キングオブコント」の話である。

2008年から始まり今年で三回目なのだな。

ちなみにキッドは「お笑い」の「お」には神が宿っていると信じています。

ついでにいわゆる漫才やコントのネタをテレビ番組の素材と考える時、キッドはそれをパッケージ・ショーと読んでいます。

すでにひとつの完成されたショーがパッケージであり、それを詰め合わせた番組がまたパッケージなのである。

企画者の一人であるダウンタウン松本は「審査員」はしないで司会をしているわけだが・・・それは基本的に「お笑い」か審査するものではないからだろう。神聖な「お笑い」を人間が審査するなんて畏れを知らぬ行為だからである。

しかし、番組としては面白おかしく構成する必要があり、勝敗を決めたり、審査したりするわけである。

タイトルにあるように個人差の話なのだが・・・そういう矛盾がまた人生の醍醐味なのである。

そのために「お笑い」なのに「勝者」がいて「敗者」がいる・・・まことに喜ばしいのである・・・悪魔としては。

今回の主役は「キングオブコメディー」(2ネタの合計点1836点で優勝)、それ以外はそれなりに脇役を務めたわけである。

たとえば、総合8位(番組的には最下位)のエレキコミックはコント一筋の芸人なのであるが・・・積み上げてきたものが実力差によって一瞬で葬られるという悲哀を演じている。

最初のネタみせ(1stステージ)で「子供だからこそおかしい子供」で「お年玉への過剰な情熱」を謳いあげたエレキコミックだったが、先発したキングオブコメデイが「困った子供を誘拐してしまった」でいわばパーフェクトな「変な子供」をやってしまったのである。

もちろん先手必勝の法則があるものの・・・それを割り引いて考えても・・・キングオブコメディ今野の演じる「変な子供」は圧倒的な存在感で一同大爆笑の出来映えなのである。その「流れ」の中で運がいいとか悪いとか人は時々口にするけどそういうことって確かにあるとそう思う。

もちろん・・・運以前に実力差があったなあ・・・とキッドは考えるが・・・それが個人差なのである。

お笑いの核心についての認識の仕方にも個人差があるが・・・キングオブコメディの2本のネタは「変な男と常識人とのすれちがい」という古典なのだが・・・日常と異常の加減が実に見事なのである。つまり王道なのでまさに王者に相応しい芸なのである。

それに対して、非日常の要素が強いネタで準優勝したのがピース(176点で2位)である。最近は使われない言葉にシュールな笑いというものがあるが、そのひとつは文字通り超現実主義(シュールレアリズム)の流れを組む幻想的なネタを指すことがある。「山姥もどき」や「サイクロプスもどき」の妖怪や怪物をキャラクターとするピースのネタは・・・非日常から入って日常というパターンである。つまり「あえて逆」なのだな。

山姥と人間の色恋沙汰だったり、怪物同士に生じる「幼いものをかわいがるというやさしい心」というペーソスまでつなげていくわけである・・・つまり、キングオブコメデイとピースは入り口と出口が逆なのである。もちろん、力量によって個人差は生じるが・・・どちらが笑えるかにも個人差はある。

個人的には日常から非日常に進んでいく方がノーマルなのである。

実は競技としては最終ステージで冒頭でキンコメ高橋がいきなり「カミカミ」だった・・・のだが・・・日常から非日常へそして最後は無免許運転の常習者の妙に二枚目ぶった日常の回帰へとキンコメ今野には明らかに神様が舞い降りていたいたのである。

1位人力舎、2位よしもと、3位松竹芸能というパランスなのだが・・・TKOに関しては・・・ま、いいかという感じである。

4位となったジャルジャルは「シュールな笑い」の中でも「ナンセンス系」と言えるパフォーマンスである。つまり、無意味なお笑いを狙っているので虚無的なのである。

ひたすら「奇妙な身体的な癖を見せ合う二人」だったり、ひたすら「バスを待つおばさんを呼ぶ生徒」だったり、日常を拒絶し続けるので非日常さえも存在しない異世界へ旅立っている。個人差もあるが常に自己満足の漂う方向性だと思う。

もちろん、そこにはアイディアもあるのだが・・・霊感と表現力のバランスがネタを生かしたり殺したりする神秘の世界なのである。

キンコメと同じ方向性にしずるがあったのだが・・・そういうバランスでもキンコメはかなり上回っていた。

もちろん・・・個人差はあると思うが・・・笑わせたものが勝つ非情の世界なのである。

で、『キングオブコント』を見た。

関連するキッドのブログ

(個人差もありますが仮記事です)

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2010年9月23日 (木)

火の魚でもう行けと言われて行く女(尾野真千子)

さて、いつもならシーズン・オフで書き損ねていたことを書く季節である。

しかし、仮記事体制なのでたいしたことは書かないし・・・何よりお彼岸なのである。

そして、何よりも万に一つ、中国が侵略戦争を開始したときのあれこれを妄想していると時を忘れるのである。一般的心情とはかけ離れていると思うがキッドの多重人格の中には心の底から戦争が好きな人が疑いようもなく存在するわけである。

そういうわけで・・・何度も放送されてるが再放送とタイトルされない「火の魚」(今回はNHK総合20100920PM10~)をまたもや見てしまったわけである。

もちろん村田(原田芳雄)もいい味出しているわけだが・・・何といっても折見(尾野真千子)なのである。

脚本は珠玉の名作映画「ジョゼと虎と魚たち」がデビュー作の渡辺あやで・・・かなり技巧的なのだが、特に慇懃無礼とも言える折見のセリフまわしは最高である。そして・・・それが尾野真千子の独特の魅力を引き出している。

「それほどおっしゃるなら絶頂を迎えさせていただきますと申しましょう」みたいな感じです・・・ちょっと違うかもねえ。

とにかく・・・萌の朱雀から気特対の万里まで・・・いつでも無表情であることが魅力的な女を演じ続ける尾野の「それ」が炸裂しているのだ。

いわば「気持ちを抑える人の美学」のようなものを感じるわけである。

もちろん・・・芸術や衝動や成り行きで魚拓を取られる金魚はたまったものではないが・・・生死の境目にある残酷というものは無表情に見つめるのが一番素敵なのである。

これもまた一種の年の差カップルものなのであるが・・・ここまで淫靡であれば・・・十分に許容できるのである。

さんまさみとか、織田樹里とか、上戸聖陽とか・・・数々の失敗作は・・・要するに年の差カップルの持つ「はみ出した感じ」が描けていなくて・・・どうしても若作りや背伸びが痛々しい感じになるのである。

まあ・・・そう思うかどうかは・・・個人差というか・・・好みの問題かもしれません。

で、『火の魚』を見た。

関連するキッドのブログ

(仮記事と申す他にはございません)

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2010年9月22日 (水)

誰かと誰かがキスをしているときそこにいない誰か(森山未來)

「ハムレット」では兄を弟が殺すわけだが「カインとアベル」では兄が弟を殺す。海彦山彦もサンダとガイラも喧嘩します。

戦略的互恵関係にあるはずの親友同士もたちまち憎しみ合うわけである。

すべての物事は明確でないのが前提である。

キッドは「きちっとする」という言葉を言う人間も「きちっと」と言う言葉も非常に怪しく感じるわけである。

世の中というものは「きちっとしない」ものだからである。

昔は「公認のカップル」という言葉があって・・・ま、今もあるかもしれませんが・・・そのカップルに割り込む何者かは背徳的であるという前提があったわけである。

「俺の女に手をだすな」とか「この泥棒猫」とかはそういう前提から発生する悪態なのである。

しかし、国に婚姻届を提出した後で「私はあなたの所有物じゃない」と妻が宣言する場合もあり、男女雇用機会均等法の世界は実にきちっとしていないわけである。

その初歩の初歩に「あの人が好きだ宣言」がある。

好きな相手本人に告白していないのに・・・周囲に「自分が好きな女なので・・・そのことをなんとなくわかってください・・・できれば手をだしたりしないで・・・」と臆病な男が張る消極的防衛線である。

しかし、そんなせつないとはいえみすぼらしい願いは聞き遂げられないのが普通である。

お年頃のいい女がいればお年頃のいい男がいてあはんなのである。

そして・・・そういうことについてシークレットな友人とオープンな友人がいたりして個人差があります。

やりまくる男とまったくやれない男がいるのはそのためです。

そんなことをきちっと説明する必要はありませんが・・・念のため。

「尖閣諸島は・・・日本固有の領土なので・・・領土問題は存在しない・・・」などと言っている間に「海洋資源は誰のものでもないし基本的に世界は中国のものだ」というやりまくる国家はどんどんやるわけである。

小さなブタは大きなブタに逆らわず与えられた出の悪い乳首を縄張りとするのはブタの戦略である。

乳首を争って得るメリットと争って失うデメリットをブタでさえ考える。

だから・・・争うことに利はない・・・と賢者は考える。

しかし、時には賢者の胸に剣がささり、利どころかすべてを失うことがあるのがこの世というものなのである。

疑心暗鬼はけして悪徳ではないのである。備えあれば憂いなしの前提なのだ。

漁船に化けた中国工作船が自爆テロを始める前に憲法九条を改正しいつでも臨戦態勢というカードを入手することはきちっとしていようがしてまいが絶対に選択肢のひとつなのである。

ま、「ひーっ」って言いたいなら平和を祈り続けるのも生き方だけどな。

で、『モテキ』を見た。

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(憲法だって実は仮憲法だと思うのでこの記事も仮記事です)

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2010年9月21日 (火)

ハムレットを知っているのか知らないのかどうでもいいのかそれが問題だ(松本潤)

「生きるべきか死ぬべきか・・・それが問題だ」という日本語訳がシェイクスピアの戯曲「ハムレット」のセリフであることは常識と言える。

常識とは誰もが知っていることだが・・・非常識の人もいるので「ハムレット」を知らない人がいるから常識とは言えないのではないかという疑問はあまり問題ではないのである。

しかし・・・幼い子供とか、芝居なんかみたら目が腐ると考えている現実主義者とか・・・そういう人は常識人より多いかも知れない。

このドラマのなんとなく不親切なことは「ハムレット」について知らない人にはやさしく案内しないという点からもあきらかだろう。

そういう不親切さは作品全体を覆いつくし・・・漠然とつまらない感じをかもし出すものだ。

たとえばキッドは中学生の時に図書館にあったシェイクスピアはすべて読んだが、それはクラスではキッドだけだったと思う。

もちろん・・・小学生の時に読んだ人もいれば、高校生で読んだ人、大学生で読んだ人、社会人になってから読んだ人もいるだろう。そうなると40人のクラスの中でそうしたかもしれない人は多くて五人くらい思い浮かぶ。

そうすると世の中の1/8くらいの人がシェイクスピアを全部読んでいることになり・・・それはちょっと大目な感じがする。「ハムレット」だけを読んでいる人や、「ハムレット」だけを読んでいない人のことなどを考える。

さらには松本潤と竹内結子の恋愛ドラマを見ようと思う人と「ハムレット」の相性を考える。

ハム太郎の方が相性がいい気がするわけである。

もちろん、このドラマは松本潤をアイドルとして楽しみたい、小学生やその母親世代のためのドラマでもあるわけである。

そういうことを考えて「ハムレット」についてどこまでドラマの中で説明するかはまあ・・・「説明するべきかしないべきか・・・どうしよう?」的問題です。

その点をじっくり書きたいけど仮記事なのでそれはかなわないのである。

だから、ハムレット王子の人生の顛末を改行なしでダイジェストしておく。

ハムレットは父親の王様を王様の弟によって毒殺されるがあろうことかその叔父はハムレットの母親と再婚して新しい王様になってしまうので真相を知ったハムレットは復讐を誓うのだが間違って大臣を殺してしまいその娘のオフィーリアは発狂して溺れ死ぬのでオフィーリアの兄の大臣の息子はハムレットに復讐を誓い新しい王様と結託してハムレットを暗殺しようとして毒薬と毒剣を用意するがハムレットの母親が毒を誤飲して死んでしまいハムレットはオフィーリアの兄と新しい王様を殺すが自らも毒剣による死を迎えるのである。

つまり・・・みんな死んじゃう話だ。

そんなもの・・・小学生の女の子が見て面白いかどうかには・・・もちろん個人差があるわけである。

「為すべきか為さざるべきか」・・・決断に迷う人々はすべてハムレットと言えます。

で、『夏の恋は虹色に輝く』を見た。

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(仮であろうがなかろうが語りたいのは伝えたいことがあるからでございましょうと申し上げつつ仮記事です)

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2010年9月20日 (月)

天のさかほこを見たり斬る斬らないは芸者の時に言う言葉(坂本龍馬)

ゲイシャガールと言えば世界的に有名な日本の美しい遊女の代名詞なのであるが、芸者といえばガールというのは近代の話である。

たとえば坂本龍馬は撃剣家であったので武芸者のはしくれである。武術を芸とする者だから、龍馬もまた芸者だったのである。

むしろ、芸者と言えば武芸者のことだったのである。

芸者ガールは京の都では芸妓と呼ばれていた。もちろん、遊興のための舞踊、音曲など芸を極めるから芸者のはしくれである。

もちろん、遊女でもあったわけだが、「芸は売っても身は売らぬ人」もあったり、「身は売っても心は売らぬ人」もあったわけだ。

制度として売春の禁じられた現世ではそのころの人々の心情を推測することは個人差はあっても妄想の域を出ない。

生みの親に売春婦として売られたお元(蒼井優)が「この世を地獄」と感じることは想像できるし、現世の日本でもニュースを丹念に見ていれば同じ苦しみを味わう子供たちがいまだにいたりするわけである。

そのお元に「今、金はないから身請け(売春婦としての奴隷代金の借金返済)はできない」が「将来、夫婦になる契りを交わしたい」という池(桐谷健太)の言葉をお元がどう感じたかはもはや虚構の領域である。

もちろん、客と売春婦の間の社交辞令として受け取るのが普通であるが・・・「地獄にいるものほど救われたい」と思っていることは間違いないのである。おぼれるものはわらもつかむのである。

しかし、救うはずの池が溺死なのである。

そして・・・地獄からの救いを求めたものが・・・その信仰ゆえに他者の魂の救いを祈る・・・そこが人の心の神秘なのである。地獄からの死者への鎮魂・・・それは悲しく美しく・・・そして祈りという行為のひとつの典型なのだな。

同じように平和のために戦争をする・・・このどうしようもない矛盾は現世にいつでも存在する。

かって大日本帝国と中華民国では日華事変という武力衝突があったわけで・・・それを今では日中戦争と呼ぶ人も多い。今は当時の二つの国家は消失している。半島や大陸領土を失った日本国と、中華民国を駆逐した中華人民共和国がその「流れ」をくむ国家である。

今、二つの国家が戦端を開けばネーミングしては日中戦争になるわけで、そうなると第二次日中戦争ということになるだろう。

列島国家と大陸国家が戦うことはこれまでに何度もあったことである。しかし、多くは半島を巡る戦いであった。

尖閣半島利権抗争は珍しい発端と言える。しかし、そこにも資源があり、境界争いとしては普通である。

かって唐と戦った白村江の戦いは半島を二分する戦いである。元の場合は大侵略国家の大侵略戦。もちろん、この場合は漢民族や半島民族には責任はなくモンゴルが悪いと言い訳が入ることもある。半島では悪名高い豊臣秀吉の明との戦い。そして近代戦の幕を開ける日清戦争。

たとえ、どんなに事態が緊迫していても・・・今の日本と、今の中国が武力衝突することなんてない・・・と多くの日本人は思っていることだろう。

しかし・・・歴史はそうでもないことを物語る。国家がいかに名前を変えようと・・・大陸国家と列島国家には宿命の対決があるのである。

まあ・・・そんなことをしても得をするのは一部の関係者だけなので・・・人民も国民も冷静に対処するべきなのである。

「単なる意図的な犯罪」を「単なる偶発的な事故」とコメントする外務大臣もそれなりに冷静に落としどころをさぐっているわけである。

まあ・・・お互い金持ちだからケンカしないほうがいいのだが・・・あまりにも理不尽だとあってはならないことがある可能性もあるのだなあ・・・なにしろ・・・宿命的にはあるのが自然なんだから・・・。

でもやるときは必勝でお願いしたいと思います。なにしろ勝てばいつでもどこでも官軍なのだから。

で、『龍馬伝』を見た。シナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。

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(あまのさかほこも勇者の剣も御免の仮記事でございます)

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2010年9月19日 (日)

大体一線を越えたドラマでしたね、熱海の捜査官(オダギリジョー)

地球温暖化の影響があるかどうかは別として、今年は日本近海の海水温が高温化して、日本全国(北海道など一部地域を除く)熱海だったのである。

その熱海に囲まれた史上最高の猛暑の中で・・・春頃にロケしたこのドラマの登場人物たちは大体、春先の装いである。話も永遠の森学園の入学式にまつわる話なので大体、春休み前の話である。

つまり・・・季節に合わせたドラマ作りを基本とすれば・・・最初から一線を画しています。

そして・・・ドラマを大体、現実的に考えるとなると「死後の世界はある!」という前提のドラマは薄々不真面目なものなのである。

もちろん、死後の世界をまじめに考えて何が悪い?という考え方もあるが、永遠に答えのわからないものをまじめに考えるのは時間の無駄という考え方もあるからである。

唯一、死後の世界をまじめに考えないと危ない感じになるのは「宗教の世界」だけなのである。

たとえば、某宗教で・・・「あの方は復活なさったのです」と言うことに「フッ」と笑ったりしてはいけないわけである。

「一度死んで生き返った」ことが奇跡の大前提なのである。

そういう意味でも「ちょっとおかしな人々」が「この世とあの世を行ったりきたりする話」というのはそれだけですでに大体、冒涜的で「お笑い」が醸し出されるわけである。

もうニヤニヤして見守るしかないわけである。

すでに東雲麻衣(三吉彩花)は臨死体験をしている前提なのだが・・・それが死後の世界からの回帰なのか、死に損ないなのかも曖昧にしているのがまた怪しいのである。

最後は完全に死体となった運転手の新宮寺(山中聡)が「この世とあの世の境界線を越えるようなスクールバスの運転手」として復活するわけである。

しかし、すべては広域捜査官・星崎(オダジョー)の幻想の世界かもしれないという姑息なお茶の濁し方も含んでいるのです。

なにしろ、どうやら死者であるらしい謎の女モトコとずっと電話で対話を重ねていた・・・つまり独り言をしていた・・・星崎捜査官なのである。

一方、星崎と親密な交際をしながら、容疑者である平坂(萩原聖人)にも傾斜していく北島捜査官(栗山千明)はある意味生臭いのである。星崎に対しても教え子に対してもなんとなく性的誘惑を醸し出す敷島先生(藤谷文子)もまたなんとなく生臭い。生徒の中ではうそ臭いほど活動的な市長の娘レミー(二階堂ふみ)もまた生臭いのである。大人でも子供でも生臭いものは生臭いのである。

ちなみに「鉄人28号」へのオマージュとして敷島博士のことを指摘しておく。

ともかく、星崎が惹かれるのは・・・生臭い女よりも・・・死者の匂いのする女子生徒であることは大体断定していいだろう。断定は大体でするものなのかどうかは別として。

ひょっとすると死霊の町だったかもしれない南熱海。

そこは生と死の交差点であったようだ。ドラマの冒頭で星崎と北島という二人の捜査官は「ライン」を越え、中間領域とも言うべき南熱海に入る。そしてドラマの末尾はその先の世界へと潜入していく容疑者の東雲と刑事の星崎なのである。

それは椹木みこ(山田彩)たち三人の美少女たちが半分死にながら夢見る世界であり・・・見てはいけないめくるめく世界なのである。

もちろん、これは一種の耽美主義なのですが・・・それを説明することはできないのが仮記事の宿命なのです。

で、『熱海の捜査官』を見た。

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(仮記事としてのラインは越えられないのです)

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2010年9月18日 (土)

すべての犯罪者の生みの親は母親であると言ううぬぼれ刑事(長瀬智也)

いつものように終わるとなるとそこはかとなく寂しいクドカンドラマの最終回である。

しかし、今回は一種の同窓会的な性質があったので・・・なんとなく、散会して普通の日常に戻っていく様がなんとなく微笑ましいのである。そしてクドカンは「熱海の捜査官」を見ていたので大体おしまいだったのだ。

ゲスト犯人という「犯罪者」に必ず惚れてしまううぬぼれ刑事(長瀬)が最初(第一話)に惚れたのが恵理子(加藤あい)だったわけで、もちろん、「池袋ウエストゲートパーク」のこけしことヒカルを思い出した人は多かったことと思う。ヒカルといえばマコト(長瀬)の彼女なのである。

もちろん、そのことを思い出せなくてもクドカンドラマは十分に面白いわけだが、最終回、レギュラー犯人の里恵(中島美嘉)と永遠の愛を誓う逮捕劇を演じた後で、本庁に転じた里恵の内縁の夫・冴木刑事(荒川良々)の後任が高峰刑事(酒井若菜)であるところはやはり「池袋ウエストゲートパーク」を思い出した方がニヤリとできるのだ。

酒井若菜と言えばヒカルの親友でいきなり惨殺されてしまうリカなのである。

その殺される理由はあえて秘すがそのことを思い出すとさらにニヤニヤできるのである。

ドラマを見ながらニヤリとしたりニヤニヤしたからといって何がどうなるわけでもないがその方が楽しいし、わかる人にはわかってもらえてちょっと共感して和めたりもします。

ところで・・・影の黒幕は神でウチのカミさん・・・というだじゃれは最後の最後で妄想となっていく。

3~4億円を強奪したのは里恵だったわけだが、逮捕後・・・その金の行方は曖昧な感じで処理される。

その金らしい大金を田舎の田圃の近くで発見するのはうぬぼれの父(西田敏行)である。

もちろん・・・犯人がそこに隠したわけだが・・・その犯人は誰かという話なのである。

うぬぼれとうぬぼれの父は似たもの親子なのである。

うぬぼれが「愛」で「再犯防止」を呼びかけるように・・・うぬぼれの父もまた・・・という妄想なのである。

つまり、真の真犯人はうぬぼれの母・・・千鶴子(竹下景子)なのである。それなのに登場しないのが暗に含めたのか・・・予算の都合なのかは定かではないのである。

で、「うぬぼれ刑事」を見た。

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(最終回ですが真の真仮記事で申し訳ありません)

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2010年9月17日 (金)

世界にはGOLD的に救いようのない人はいないというそんなあ(長澤まさみ)

絵にかいたような大団円である。

まあ一種のヒロイックファンタジーなのである。

言葉についての感じ方には個人差があるわけだが、キッドのプログではヒロインはどちらかと言えばヒーロー(英雄)の女性形ではないニュアンスで使用している。

つまり、主人公の本命的恋愛対象としてのヒロイン(お相手)なのである。

男女の性差の問題とか、男女雇用機会均等法とか、そういう問題がややこしいのだか、あえて男性的な主人公に対する女性的なヒロインという設定の問題としてご容赦ください。

で、社長(天海祐希)は戦う美女型ヒーローの主人公で秘書(長澤)は「リカちゃん」として主人公に愛玩されるヒロインというのがこのドラマの基本設定です。

ヒーローなので言うことがいちいち芝居がかっていてエキセントリックなのはそのためです。

基本的にはその場その場の思いつきなので整合性を求めたりしてはいけません。

すべてお見通しの主人公が時々見て見ぬふりをするのが気になるのは単にドラマのお膳立ての問題でございます。

つまり、主人公はどんなに無茶をしてもヒロインに愛され続けるという宿命さえ変更しなければOKということです。

人間ドラマとしてはある意味、甘口にも見えますが、主人公が絶対的正義という設定のヒーローものとしてはこれがトラディッショナルというものですね。

もちろん・・・悪魔としては明らかに魔界に堕落した悪役である丹羽聖子がかなり先鋭的な演技をしていたので・・・主人公が彼女の心までも「子宝」によって救ってしまうのはやりすぎかもなとは思いますね。

あの「流れ」なら当然、狂気の聖子は「子殺し」の後で確信犯(アンチ・ヒーローの宗教的情熱によって)的に無理心中か偶像破壊にやってくるべき。

そしてヒーローが自分にも「救えないものがある」と知ることの方がキッドの趣味には合っています。

まあ・・・「救いようのない人が目に付く世界」だからこそ、あえて「全員救済ドラマ」のアクロバットを作者は技巧的に楽しんだとも言えるわけです。

そう考えればある程度濃いし、そうでなければ薄いと感じる野島ドラマでございましたねえ。

で、『GOLD』を見た。

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(刺青と刺青シールの区別もつかないこんなドラマじゃ毒も仮記事で十分なのかもってそんなあ)

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2010年9月16日 (木)

やればできる女にぶちょおがブチュウでやがて孫を見守る愛の夢のホタルノヒカリ(綾瀬はるか)

シモーヌじゃなかったシーモネータかよっ。

ついにお茶の間向けであり、この夏一番の哲学的恋愛ドラマの最終回なのだが仮記事です。

ああ・・・なんだかずーっとこのまま仮記事なのかも知れない気がするこの頃。

なにしろ・・・根がグータラだからな。

そもそもホタルノヒカリはこの間、電話で話した旧友も言っていたが「基本はマイ・フェア・レディ」なのである。そして天使テンメイ様的には「じゃじゃ馬ならし」でもあるわけである。

しかし、ネジを巻く相手はあえて言えば相手は野暮天でも御転婆でもなくグータラなのである。

そこで・・・キッドは第2シーズンでは「サルトルとボーヴォワール」についておちょくろうと考えていたわけだが、結構計画倒れに終わっているわけである。まあ、二十世紀の偉大な哲学者とその内縁の妻を嘲笑するという趣向はかなり圧力を感じることなので・・・国際的陰謀で愛機Priusは負傷したかと妄想するほどである。

基本的に部長(藤木直人)とサルトルが違うのは部長は美男子、サルトルは「自ら醜いと自覚するほど醜い」ことだが、愛する女がアホなのも含めて世界で起こるすべての出来事の責任は自分にある」という実存主義的には一致しているのである。劇中で部長は実際にそういうセリフを口にしているのでこれは単なるキッドの妄想とは言いがたい。

前にも書いたが、ボーヴォワールは「女性的なもの」とは「本質ではなく社会的な制度的虚構にすぎない」と主張し、「素敵女子に憧れる干物女のくせに女であることを拒絶する」主人公の蛍(綾瀬)と表裏一体の関係なのである。

サルトルやボーヴォワールを愛する人には気障りかもしれないが・・・実にお坊ちゃま的な底の浅さを感じるサルトルと理屈っぽい生意気な女であるボーヴォワールというカップルを洗練すると部長と蛍のペアになるということである。

そこがこのドラマを傑作にしているのである。

ちなみに実際のサルトルの醜さは実際の年齢差およそ三歳をかなりの年の差カップルに設定することで補完しているわけである。

そして、「女や親子関係を否定し続けたためについに子供を持たなかった」ボーヴォワールに対して・・・蛍は「愛に包まれていたから愛で包みたい」と縁側で野獣の成れの果てと孫を見守る夢を見るのである。

「ツツム(名詞)」は美しい日本の言葉だからである。

で、『ホタルノヒカリ2』を見た。

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(パンツがかわいくないとだめだこりゃとはいえ仮記事なのです)

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2010年9月15日 (水)

なぜやれるときにやっておかないのだと誰もが過去をふりかえるかもしれないモテキ(森山未來)

やるやつはいつもやってるしやらないやつはいつまでもやらないとは限らないわけである。

いつもやりそうな人がやれなかった苦い過去がないとはいえないし、ずっとやっていない人がやれる未来がないとも言えない。

そういう話をお茶の間向けかどうかは別としてテレビドラマとしては最高といえる水準で描くこの夏一番の恋愛ドラマである。

人間が駆け引きをしていないつもりで駆け引きをしていたり、自分では欺いているつもりで欺かれたり、他人の気持ちがわかっているつもりで勘違いだったり、正解を疑ったり、自分自身に対して疑心暗鬼になったり・・・そういう人間の心のややこしさ・・・そして様々な心身の条件で発生する個人差のある喜怒哀楽。あますところなく描いています。

男と女の心が限りなくひとつに近づいた現代日本でもどうしようもなく生じる個人差の悩ましさがあります。

だから、できるときにやれよ~と何度画面に叫んだことか。

まあ、ドラマだったから実際にはやるべきことはやってるわけですが~。

基本的に大切なのは「できる」と感じたときに「いい?」と聞いてはいけないというセオリーです。

やっちゃえばいいんだ、やっちゃえば。

その後で生じる様々なことに責任を負う覚悟をするかどうかは個人差があるとしても・・・。

中国船長「ぶつけちゃった」

日本艦長「逮捕しちゃった」

中国政府「荒唐無稽だ」

日本政府「冷静に粛々と遺憾の意をそえて」

まあ、「武力行使嘆願書は却下するが、自分の主張にそって譲らない」のは中国政府筋の常套手段。

そして、多くの日本人にとってもどうでもいい話なのである。

日本の顔がガマ親分にならずにすんで本当によかったと思う。

選択するものたちはやるべきことをやったのだ。

それに応えてやるかどうかは総理大臣の問題なのである。

ものすごい解決策などはないわけだが・・・無数の策の中からいくつもの選択を複合してなし・・・いつのまにか状況を好転させることが人間の神秘なのである。

どうか・・・総理大臣の超モテキがやってくることを祈るばかりなのです。

で、『モテキ』を見た。

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(国民が長期安定政権を望んでいるトレンドに総選挙をキーワードにする自民党総裁の空気の読めなさにガックシであるが仮記事です)

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2010年9月14日 (火)

個性と個人差と夏と虹と恋とクレヨン(松本潤)

最近、個性と個人差についてうだうだと妄想しているわけだが・・・今回は個性とは何かというドラマである。

二世俳優というひとつの役割を与えられた主人公(松本)は人生の中でそれを上手に演じられない。

もちろん、設定上では偉大な父親が主人公を手厚く保護していたために主人公は自分が不器用であることさえも意識していない状態である。

このドラマは夏の月9の恋愛ドラマとしては非常に地味で、パンチもほとんどなく、メリハリも薄く、ときめきもほとんどないわけだが・・・主人公のその・・・人としての「つたなさ」だけは実に丁寧に描かれている。

つまり、個人というものが何かということを切々と語りかけているわけである。

主人公は父親の死によって初めて・・・自分に対する世間のありのままの風を受ける。つまり、風除けを失って風当たりのつらさを感じるわけである。

もちろん、主人公は自分では「二世俳優」であることを自分で知っていると思っているわけである。

しかし、世間が二世俳優をどう思っているかについて深くは考えないために、結局は「本当の自分を見出せない」状態だったわけである。

結局、個性というものは自分に対する世界の評価を自分が受諾することだからである。

個性というものは自由との相性がいい。

逆に個人差は平等との相性がいいとも言えるが・・・そう思うことにはきっと個性による個人差があると思う。

父親の死によって感じた風に主人公はうろたえるが・・・その気持ちにさらに漣を立てるのがヒロイン(竹内結子)である。そのあたりの筋立てがやや・・・のほほんとしているので恋愛ドラマとしては盛り上がりに欠けた感じがするが・・・とにかく・・主人公が自分の個性に気がついていくというドラマとしては正攻法なのだと思う。

男であることも個性だし、女であることも個性である。熱中症で倒れるのも個性だし、倒れないのも個性である。

強い自分も弱い自分もそういう個性のひとつである。そして、個性とは自分がどう思うかだけではなく、他人(世界)が自分についてどう思うかということを知って初めて「本当の自分」に到達する。

つまり、自己とは他者との関係の中にしか存在しないからである。

社会は常に「熱中症で倒れる子供のために行事を中止するべきか、それとも熱中症で倒れる子供を排除すべきか」で揺れている。同じように個性もまた「自分を変えるか、世界を変えるか」で揺れるのである。

主人公は「二世俳優」という自分の個性とどう向き合えば生きやすいかを・・・他者との関わりあいの中で見出していく。

時には・・・ライバルの声の中に、時には仲間の姿の中に主人公は「自分」を発見していくのである。

「自分探し」などという言葉があり・・・それはいかにも内面に顔を向けるようなムードがあるわけだが・・・本当の自分は他人の中に半分隠れているということをこのドラマは静かに語っているのである。

まあ・・・そう思うためにはある程度の個性とか個人差があるわけですけど。

で、『夏の恋は虹色に輝く』を見た。

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(自分でもそう思うしきっと誰かもそう思うように本当の仮記事です)

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2010年9月13日 (月)

お龍と同伴にて京都を出立し馬関海峡を渡り薩摩に下らんとす(坂本龍馬)

龍馬とお龍の結婚がいつなのかは諸説あるわけだが、乙女あての手紙などから妄想を膨らませれば元治元年(1864年)には祝言をあげていたという説もあるが、慶応三年(1867年)の龍馬暗殺まで現代的な意味での婚姻関係はなかったと考えることもできる。

だから、長州と江戸幕府との戦争の前に幕府公儀隠密からの指名手配を逃れて九州に逃れた龍馬が寄り道した長崎でお龍を亀山社中の同士に内縁の妻としてお披露目したという今回の設定には何の問題もないのである。念のため・・・。

港々に女ありの龍馬であるが・・・いつも現地で調達できるとは限らないので・・・愛人同伴にしました・・・ということが真相だと妄想できます。

もちろん・・・お龍が類まれな美人であったことは相当に感じられるのである。

そもそも、土佐の国の郷士の次男坊なので山城の国の町人(医師)の娘と結婚することは当時の意味合いでの縁組とは程遠い色恋沙汰なのである。

なにしろ・・・坂本龍馬は幕藩体制においては明日をも知れぬやさぐれたテロリストなのである。

そんな人間にともに白髪が生えるまでの結婚生活を期待するのは無理なのである。

「一緒に死んでくれ」と情死を約した心中結婚のようなものだとキッドは妄想するのです。

で、『龍馬伝』を見た。

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(かりそめの結婚は仮祝言、そしてこれは仮記事です)

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2010年9月12日 (日)

スーパー・ナチュラル・ホラー・マッド・サイエンティストは大体新味ということになるのかもしれませんね(オダギリジョー)

プライドという言葉を「誇り」と訳すか「思い上がり」と訳すかでニュアンスは変わったり変わらなかったりするがそれもいわゆるひとつの個人差である。

とにかく、「他人には説明ができないけれどわかっていること」が誰かの「心を傷つけること」はありますね。

まあ、ある意味、このドラマがそうなので・・・超手法で犯罪捜査を行う星崎(オダジョー)がその手の捜査方法に疎い拾坂署長(松重豊)に「プライドを損ねて申し訳ない」と謝罪するのは置き去りにされているお茶の間への謝罪というか、おちょくりです。大体わかります。

・・・このような出だしは本格記事風ですが・・・仮記事ですのであらかじめご了承ください。

思いつきは基本的には「連想」があり、つまり、竹とんぼプラスヘリコプターで竹コプターである。

だから、この場合はスーパーナチュラルホラー(死後の世界あるいは心霊現象がらみの恐怖もの)にマッドサイエンティスト(常軌を逸した科学者)をからめているわけである。

もちろん、萩原聖人が演じる平坂歩の話である。

もちろん黄泉平坂といえば日本ではこの世とあの世の境界線(ライン)ということである。

もちろん、スーパーナチュラルホラー(死後の世界はある)はパラサイコロジー(超心理学)を通じてマッドサイエンティスト(家庭原爆製造はじめました)に一直線は昔ながらのことであるが・・・今ではそれもちょっと懐かしい話ということだ。

イエスノーランプが鉄人の操縦機である以上、星崎のライバルが死者を蘇生させる不乱拳博士であることはわかる人には自明の理なのです。

まあ、温故知新を無知な人は「そんな昔のことは知らないね」で済ませるのも織り込み済みなのである。

で、『熱海の捜査官』を見た。

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(もうダメかもしれないが仮記事です)

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2010年9月11日 (土)

姉妹のような母娘を抱きたいか母娘のような姉妹を抱きたいかという話ではありません(岡本杏理)

姉妹のような母親と娘と言う場合は「母親の容姿についてのお世辞」が基本であって、娘が「おばさんくさい」という意味ではないのが普通である。

ニュアンスとしては娘をないがしろにしている母親というイメージがある。

最近、なげっぱなしの仮記事を連打しているのでかなり、誤解している人も多いと思うがキッドは天使と悪魔の同居する多重人格者なので、意味不明の方はスルーしてください。

一方で、母娘の姉妹と言うのはけなげな匂いがする。本当の母親が病弱や死没したために、姉が母親代わりになり、妹を育てる展開は泣きの定番設定である。

しかし、どちらにしても不自然な関係が時には過剰な癒着を生んだりするのもお約束なのである。

どちらにしろ、~のような~と言う場合はなんらかの異常や皮肉がある・・・ということなのである。

「友達のような母娘・・・けっ」と言うのが「お笑いのポイント」です。

「ホタルノヒカリ2」では結構、ジェンダーの問題について「役割の強制理論に対するソフトな反駁」が行われているわけだが、結局、~のような~というのはプラスアルファの場合のみ有効ということだ。

まず、十分に母娘として機能している母娘がそのうえ友達のように仲がいいならほほえましいのだが、母親(石田ゆり子)が娘(岡本)の友人(相楽樹)に嫉妬して殺害してしまうのは一同大爆笑というわけです。

しかし、現世に巣食う心の病はすぐそこにある危機なのである。

「牙狼<GARO>」の三神官ベル以来、地味にかわいい路線を歩いてきた岡本杏理はまもなく「ケータイ刑事 銭形結」になります。

まあ、「モテキ」の裏には「モテナイキ」があるわけだが、振られ続ける男は「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」を信じているわけである。一途だとストーカー化する場合があるので戦略としてはありだが、客観的に見ると「不実な男」であるようにもみえる。まあ・・・うぬぼれ刑事は誰もが肩を抱いてあげたいいじましさがあるのです。

幼い母親に大人びた娘の組み合わせもまた悲しい気配を醸しますしね。

で、『うぬぼれ刑事』を見た。

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(再度更新する気もないのに仮記事なのは法的に問題ないと確信しています)

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2010年9月10日 (金)

戦いたくはないが強くなりたいなんて無理というそんなあ(長澤まさみ)

最近、キッドは個人差という言葉が好きだ。あらゆる人間に生じる問題がこの一言で片付くからである。

二枚目の菅と悪人顔の小沢とどちらが日本国の首相に相応しいかと問われても個人差がありますからねと答えればすむのである。

押尾被告はバカなのかドジなのかも個人差があるわけだし、尖閣諸島がわが国固有の領土なのか、中国共産党や台湾が所有権を主張することに根拠があるのかも個人差があるのである。

なにしろ、聖なる書を書く自由と聖なる書を燃やす自由は同じ自由なのか、それとも自由にも優先順位があるのかも個人差があるわけである。

自分と他人の区別がつく人には個人差が悩ましく感じる人も多いかもしれないがそれも個人差なのである。

しかし、尖閣諸島は日本の領土だし、日本の総理大臣が一万人いる海兵隊を二千人しかいないと数も数えられないガマ親分になるかもしれないと思うと鬱になるし、押尾被告はバカでドジだし、コーランを燃やしたい人は燃やし、暗殺者と徹底抗戦した方が面白いと思う人もいるわけである。

それをキッドの本心だと思う人にも個人差があります。

わが子を虐待する親と、わが子を厳しくしつける親との個人差は非常に個人差を感じさせる問題である。

キッドは昔から「誰もがあなたのように強くないのだ」と他人から言われることが多いのだが・・・その度に一体、自分の何が強さを感じさせるのだろうと不思議な気持ちになる。おそらく、眠っている間に機関銃で連射されれば死ぬし、好きな人に嫌いって言われたら泣いちゃうし、小学生の時からこの年までずっと胃潰瘍である。どう考えてもそれほど強くないと思うのである。

「自分の子供の命よりも大切なものがあるなんてそんなあ」とリカちゃん(長澤まさみ)は主人公(天海祐希)を責めるわけだが、「自分の子供よりも自分が大切」も基本である。そこで生じる個人差は「自分とわが子との一身同体感」の違いが一因となるだろう。

何と自分を一体化させるかにも個人差がある。個人が国家と一体化するのは不気味だと感じる人もいるだろうが、国家と一体化していない総理大臣はある意味、売国奴である。

現地で他国の人々に迷惑をかけては面倒なので、戦闘の可能性のある外国に丸腰で送り込まれるわが国の自衛隊員はまことに勇者であり、個人的には尊敬するが、送り出す為政者たちは「敵艦に爆弾抱えて突撃させる特攻精神の要求」をある意味、伝統的に続けているわけである。

まあ・・・現代戦とはテロリストとハイテク企業との知恵比べという側面があるわけだが、そこに「裸」で勝負をかける大和魂は滑稽で天晴れでさえあると感じるのも個人差があります。

まあ、「本当の私を見て」とプールサイドで中年男性に全裸を見せてくれる女子高校生がいたらいいなあと作家が考えていることを高く評価するかどうかは個人差があるでしょう。

で、『GOLD』を見た。

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(いつまでも仮記事を続けるのは危険な賭けだと思いつつ仮記事です)

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2010年9月 9日 (木)

あなたのためであり私のためである結婚というホタルノヒカリ(綾瀬はるか)

独身はお気楽である。何度もいうことだが、幼くして親のないことを孤と言い、年老いて子のないことを独と言う。あわせて一人身のことを孤独と言うのである。

で、独身という場合は子のないことを強調した一人身である。

このドラマの根底には怪しいシモーヌのジェンダー理論が見え隠れするわけだが、その屈折した不自然さは・・・たとえば「結婚とはそもそも子作りのための制度である」から「子のないものを独身貴族」と言ったりするなどと論理を展開すると目くじらを立てる人がいるわけである。

しかし、高野部長(藤木直人)のさびしい老後を心配をする蛍(綾瀬はるか)は「高野や自身の老後を養う子作り」は面倒くさいので赤の他人ではあるが、頼りになりそうな小夏に後の事を託す手紙を書いたりして、小夏に叱責されたり顰蹙を買ったりするのである。

実にアクロバットな展開であるが・・・結局、現世の日本はそういう傾向にあるわけである。

だから、良識ある人々は苦笑するほかはないのである。

世界には過剰な食料があるが、餓死する人々は絶えることがない。

世界には平和が満ちているが、中国の漁民は日本の警察艇に特攻かけてくるのである。

そして、年頃の男女がいるのに子作りに励まないのである。

「この世に生を受けて幸せになる保証はない」というのは悪魔の言葉である。

基本的に人間は「そんなこと知ったことか」で無責任に子作りするのが自然だと思う。

そうして生まれた子供は運がよければ100回くらい夏に出会うのである。

大体、60回から70回の夏に出会えばそこそこだと言えるだろう。

30回の夏を知っている人は残り半分くらいが目安である。

もちろん、海のそばで生まれるか山中で生まれるかでも差があるが、子供を海に連れて行くには30回目の夏はある意味お手ごろである。

子供のいない30才は親のいない子供を養子にしてでも30才の夏は子供を海に連れて行くといいと思う。

まあ、あくまで個人差の問題であるが、夏に親に海に連れて行ってもらったことのある子供は連れて行ってもらえない子供よりも老後の面倒を見たい気持ちが強くなると思う。

とにかく・・・あらゆる責任を負う強い男はわがままな女のすべてを受け止めてさびしい老後を送る覚悟を求められるという話なのである。

そ、それはどうかな。

で、『ホタルノヒカリ』を見た。

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(最終回目前ですが仮記事です)

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2010年9月 8日 (水)

浮気されたくなくてもてない奴を選んだとしても首尾よく生きられない罠だったりしてさ(満島ひかり)

亜紀(野波麻帆)といつか(満島ひかり)なら迷わずいつか・・・というタイプには一瞬、幸世(森山未來 )の心を見失うわけだが、あくまで好みの話である。

まあ、これ以上ない「二兎追うものは一兎も得ず」の話である。

若いときは途中経過だが、モテ期をもってしてもここからの逆転は困難だ。

久しぶりに小文字で前フリをしているのだが・・・ついに愛機せPriusが沈黙してしまったのでキッチンのバリスタくんで書いているのである・・・従って仮記事の呪いは解けていません。

それにしても、老若男女的にはそうでもないだろうが・・・男性視聴者にとってはこのドラマは大森美香の二本に比べるとどストライクだよな。

モテ期というのはおそらく75%くらいの確率で誰しも経験する可能性(キッドのデータより妄想)のあるものであるが、いつ来るかによっておいしさがかなり違うと思う。

たとえば幼稚園で来たとして・・・2年くらいで終了した場合、それを想起すると「なんだったんだよ・・・」という気分になるだろう。

もちろん、そこから年金生活を送るまでモテ期継続という人もいるわけで、それはもはやモテる人なのである。

もしも、2年なら・・・16才から18才とか、18才から20才とか、21才から23才とか・・・そのあたりが狙い目だな。

なにしろ、やりたいさかりにやり放題はそこそこいい思い出になるからである。

もちろん、そういう奴は「悪魔」と後ろ指さされまくるわけだが・・・なにしろ、気持ちがいいので問題ないのである。

まあ、モテ期短し、恋せよ乙女という歌もあるくらいだから・・・・ないわ・・・モテモテの間にヤリヤリでいいと思う。

モテ期が去った後はてんでハッピーになれないとしても。

で、「モテキ」を見た。

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(毎度お馴染みの仮記事でございます)

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2010年9月 7日 (火)

演技について考えることと演じることの違いが分る男と涙(松本潤)

「頭でっかちだからダメ」というのは何なのかを考えることはある意味、頭でっかちな作業である。

考えようによっては「バカ」が「お利口さん」を蔑んで「頭でっかち」と言う場合がある。

しかし、実は「頭でっかち」とは「バカ」の遠まわしの言い方なのである。

つまり、「間違ったことを憶えている」とか「見当違いの推測をする」とか「的外れな予想をする」とか・・・そういう「バカの話」なのである。

「行動」が「意思の具現化」である以上、それは無数の選択肢の選択を決断していることなのだが、素晴らしい振る舞いには「来た球を打つ」という究極の選択がある。

そうなるとそれはもはや選択を感じさせない見事さなのである。

役者の場合は「来た役を演じる」・・・これ以上のことはないのである。

しかし、それが巧妙であったり、自然であったりすることは「表現力」という謎のシステムに強い影響を受けるのだ。

そもそも・・・誰もが「役者」ではなく、誰もが「演出家」ではないわけで・・・そういう「受け手」に分る「名演技」というのは実に困難なものであるといえる。

一体、人々は役者の何に喜びを感じるのだろうか。

それを考え始めると役者は眠れなくなり、不眠症になり、そして頭でっかちになっていくのだな。

恐ろしいことである。

松本潤はこの役を演じているのか・・・本当に頭でっかちの役者なのか・・・微妙なときがあり、それは凄い演技力なのかもしれない。

竹内結子はかわいい女を演じているが、ちょっといやな感じがすることもあり、そういう演技なのであれば素晴らしいことだと思う。

それとドラマ全体の仕上がりは全く別のことだとも思う。・・・残念なことに。

で、『夏の恋は虹色に輝く』を見た。

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(仮記事というものは考えるまでもなく仮の存在です)

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2010年9月 6日 (月)

伏見船宿寺田屋にて幕府公安と戦争仕り候(坂本龍馬)

この頃、龍馬は三吉慎蔵、池内蔵太、そして寺内(新宮)新右門らと行動を共にしていたと思われる。

なにしろ、携帯電話がない時代なので連絡は手紙か面談するしかない。

前日には薩長同盟の密約が成立し、龍馬は京都薩摩藩邸に留まっていてもよかったわけだが、のこのこと伏見寺田屋に戻っていてる。

もちろん、新妻お龍と一夜を過ごすためである。

龍馬が革命前夜の過渡期の中で、治安当局からどの程度、危険視されていたかは・・・歴史の闇に閉ざされているわけで、さらに言えば龍馬がどの程度危険を察知していたかも定かではない。

しかし、実際に京都治安警察は過激派浪士である坂本某を重要参考人として指名手配していたわけである。

そして、充分な人数を動員し、坂本某の捕縛作戦を実行したのである。

それなのに、ただ二人の坂本龍馬と三吉慎蔵を捕縛できなかったというのは前代未聞の大失態だったといえる。どうしてそんなことが起こったのか・・・歴代の作家たちは妄想に妄想を重ねている。

もちろん、坂本龍馬が重傷を負うほどの激闘もあったわけであり、捕り方もそれなりに腕に自信のあったものもいたはずである。

だが、高杉晋作縁の短銃は思わぬ威嚇効果を発揮したのだろう。記録には残らない名もなき捕り方の犠牲は多数あったはずである。その威力に捕り方の上役が恐怖したことは充分に察せられる。

もちろん、キッドの妄想では忍びである龍馬にはそれなりの仕込みがあったことが考えられる。お龍の入浴と裸の疾走もくのいちならではの妖術の気配が漂う。

それはものすごく、面白おかしい状況であったのである。

ま、とにかく、龍馬一人捕縛できない幕府はある意味、この夜、命運を定めたと言える。

で、『龍馬伝』を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。

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(仮記事御免)

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2010年9月 5日 (日)

大体わかったことと薄々感じていることは同じですよ(オダギリジョー)

ジョン・レノンが流れている店ではあれも濡れる予感なのだが、ブルージーなサテイが流れる店でもそこそこ泣き濡れるわけである。

結局、このドラマはレミーとか東雲とかみことかに割れたパーツのマニアが可憐な女ばかりを感じるかどうかがSkipped Beet,Skipped Beet,Skipped Beet,Skipped Beetなのである。

東雲と一緒に暮らすことになった星崎捜査官(オダギリジョー)が腰をからめすんげエことをするのかどうかは別として誰もが茶碗を割る事態なのだな。

前回、東雲が命を狙われたことが些細なことであったように、今回、新宮寺が命を失ったことも些細なことだったのだ。つまり、本筋とは関係ないスカシの連打なのである。もちろん、人命軽視という点では恐ろしいことだがあくまでフィクション(虚構)なのである。

とにかく、序盤に気がついたように割れたパーツのマニアがうっとりするタイプのレミーが寄せてあげているドレスとはいえ持っている武器を純正ジュニア直撃的に誇示したことが一同大爆笑のポイントである。

もちろん・・・本筋ではないのだが・・・市長の腹違いの兄弟姉妹が何人いるのかも含めて妄想は膨らむばかり・・・数学が2であった過去を持つ人々には永遠に分らない世界にそもそも本筋なんてないのかもしれませんよ。

割れたパーツのマニアがどのジャンルを指すのかはさておき、当然、そのパーツは露出していると考えられるのだが、レミー、みこ、東雲と好みの分かれるところをそろえているだけでも・・・充分に楽しめるのである。

で、『熱海の捜査官』を見た。

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(大体仮記事です・・・TB返しコメント返しはまだできないのですがTBとコメントは受け付けていることをお許しください)

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2010年9月 4日 (土)

ストライクゾーンがサッカーのゴールなら有利なのはうぬぼれ刑事(長瀬智也)

ストライクゾーンが広いというのは打てるポイントが拡大しているということでバッターの話であるが、実際にストライク・ゾーンを広く設定して、ベンチあたりまでストライクだとするとピッチャーはどんどんベンチに投げ込んで全員三振なのである。これを打つバッターはジャンプして空中を滑空してヒッティングした後で空中遊泳したままバッターボックスに着地しなければならず・・・もういいか。

まあ、野球を知らない人に「ストライク・ゾーン」のたとえは一種の楽屋オチなのである。

で、とにかく、恐竜が生息した頃に家が近所なので一緒にタクシーで帰ったことのある女性について言うのもアレなのだが、うぬぼれ刑事のストライクゾーンはもう限度外であると言えるのである。

まあ、光浦がストライクならフォアボールなんてないも同然だよね。

とにかく・・・薬師丸ひろ子や小泉今日子はともかく、三田佳子まで年齢上限を拡げたらもはや・・・光浦の方向に行くのか・・・その・・・なんていうか・・・やりたい放題だな。

こうなると最後の相手はサダメ(生田斗真)だってありだよな。

で、『うぬぼれ刑事』を見た。

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(えーと、仮記事です)

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2010年9月 3日 (金)

死ぬほどがんばってその通りにくたばったなんてそんなあ(長澤まさみ)

仮記事でも更新しておかないといろいろと問題があるのである。

某SO-ネットのブログなんてちょっと更新しないと言葉という言葉に広告リンクがつくのである。

まあ、そういうビジネスだって言われればそれまでなのだが。

まあ、昔、そういう歌があったというタイトルです。

僕がこの世にやってきた夜

おふくろはめちゃくちゃにうれしがり

親父はうろたえて質屋に走りそれから酒屋をたたきおこしたのだ

それからというもの親父は

ねじりはちまき死ぬほど働いて

死ぬほど働いてその通りにくたばった・・・

なのである。

死んで花実が咲くものか・・・という前提の人と真っ白に燃え尽きたい人の間にはいつでも暗くて深い川があるものだと思う。

キッドの場合は多重人格なので両方分ります・・・ずるいぞっ。

一方、家族のことをずっと監視・盗聴して情報を把握、分析しておくのは家長の務めといっていいだろう。

まあ、息子の心臓病は知ってたけど、娘の刺青刻みいれは知らないというのは素人の悲しさと言うしかない。

都心の某ビルにある一室。オフィスとだけ書かれた部屋をノックして・・・「海宮晶探偵事務所」に依頼すれば身辺調査はぬかりなく・・・なのだが・・・あくまで妄想です。

まあ・・・野島ドラマだけにそこそこ面白おかしいわけだが・・・なんでもありの世界すぎて、もはやお茶の間向きとは言えないのではないかと思う。

で、『GOLD』を見た。

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(仮の記事でございます)

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2010年9月 2日 (木)

添い遂げるものもいれば添い遂げないものもいるホタルノヒカリ(綾瀬はるか)

さて、ついに一週間経過である。

この夏一番、安定したお茶の間向けドラマについてじっくり書けないというのはちょっぴり残念な感じである。

そういう意味ではあまりお茶の間向けではない「うぬぼれ刑事」とか、さらにお茶の間向けではない「熱海の捜査官」とか、完全にお茶の間向けでない「モテキ」とかもそれなりに書けないのは寂しい気もします。

仕事はがんばればなんとかなるもので恋愛はがんばってもどうにもならないことがあるかどうかは別として・・・アホ宮からアホたる(綾瀬)に成長した蛍。

どんなに酔っても107万円の婚約指輪は出したらしまうところまでである。

若い男(向井理)にキスされたら「シメシメと思う」けれど、体を張ってウキウキ貞操を守る蛍・・・かわいいよ、蛍である。

まあ・・・部長(藤木直人)と縁側の勝利なのだが・・・。

ひょっとしたら・・・若い男とニューヨーク行きというウルトラ大逆転もありなのか・・・と蛍と部長に結婚してもらいたい会が蒼ざめる展開も選択肢に入ってきた今回だったな。

で、『ホタルノヒカリ』を見た。

Hcinhawaii0662 (残念ながら仮記事です)ごっこガーデン。一週間遅れの縁側セット。しばらくは見納めかも・・・。ikasama4画伯いつもお世話様でございます。関連するキッドのブログ

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2010年9月 1日 (水)

笑う女子高校生から働く女まで(木南晴夏)十年後に36才になる私(上戸彩)

電脳界の愉快な仲間の皆様にはご心配いただきありがたいと思うのであります。

それから数少ない現実という虚構世界のダチの皆さんも心配かけて申し訳ない。

今朝は起動までに30分かかってしまい、保存媒体への情報移管も遅々として進みません。

しかし・・・死んだかと思うと・・・こうして息を吹き返すので・・・愛機がただのマシンではない気がますますしてくるのです。

ああ・・・息も絶え絶えな感じが不憫だ。

一方、やはり・・・かけもちがたたっている感じがどうしてもする。「十年先も君に恋して」と「夏の恋は虹色に輝く」である。

今回も見所は「GM・踊れドクター」で患者ゲストとして女子高校生でソフトボール部のキャプテンを演じた木南晴夏が、「十年先」では仕事より恋に生きる女性編集者をそつなく演じているということである。

恋をめぐるタイムトラベラーもので10年というのは微妙なのであるが、若作りした内野聖陽は若くなっていないし、10年後の上戸彩は「女はモンスター」というだけでは説明できないそのまんまである。

その時点で、チャンドラーだの、クラークだのを添え物として出されてもゲンナリするぜ。

たとえば、人間というものは素材として変わらないので流行にはサイクルがある。10年後のメイクアップ技術なんてものすごいものがあってしかるべきだし、一方でできあがった顔は半世紀前に流行した感じだったりするだろう。

10年後の若返り技術の驚異的な発展をもう少し、分りやすく匂わすべきだったな。

どちらかといえば、上戸彩の恋人でありながら女子高校生のパンツを盗撮したくなるおそるべき変態の魂を掘り下げてもらいたいくらである。

で、『モテキ』の時間だが『十年先も君に恋して』を見た。

(ははははははははは、・・・仮記事です)

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