戦いたくはないが強くなりたいなんて無理というそんなあ(長澤まさみ)
最近、キッドは個人差という言葉が好きだ。あらゆる人間に生じる問題がこの一言で片付くからである。
二枚目の菅と悪人顔の小沢とどちらが日本国の首相に相応しいかと問われても個人差がありますからねと答えればすむのである。
押尾被告はバカなのかドジなのかも個人差があるわけだし、尖閣諸島がわが国固有の領土なのか、中国共産党や台湾が所有権を主張することに根拠があるのかも個人差があるのである。
なにしろ、聖なる書を書く自由と聖なる書を燃やす自由は同じ自由なのか、それとも自由にも優先順位があるのかも個人差があるわけである。
自分と他人の区別がつく人には個人差が悩ましく感じる人も多いかもしれないがそれも個人差なのである。
しかし、尖閣諸島は日本の領土だし、日本の総理大臣が一万人いる海兵隊を二千人しかいないと数も数えられないガマ親分になるかもしれないと思うと鬱になるし、押尾被告はバカでドジだし、コーランを燃やしたい人は燃やし、暗殺者と徹底抗戦した方が面白いと思う人もいるわけである。
それをキッドの本心だと思う人にも個人差があります。
わが子を虐待する親と、わが子を厳しくしつける親との個人差は非常に個人差を感じさせる問題である。
キッドは昔から「誰もがあなたのように強くないのだ」と他人から言われることが多いのだが・・・その度に一体、自分の何が強さを感じさせるのだろうと不思議な気持ちになる。おそらく、眠っている間に機関銃で連射されれば死ぬし、好きな人に嫌いって言われたら泣いちゃうし、小学生の時からこの年までずっと胃潰瘍である。どう考えてもそれほど強くないと思うのである。
「自分の子供の命よりも大切なものがあるなんてそんなあ」とリカちゃん(長澤まさみ)は主人公(天海祐希)を責めるわけだが、「自分の子供よりも自分が大切」も基本である。そこで生じる個人差は「自分とわが子との一身同体感」の違いが一因となるだろう。
何と自分を一体化させるかにも個人差がある。個人が国家と一体化するのは不気味だと感じる人もいるだろうが、国家と一体化していない総理大臣はある意味、売国奴である。
現地で他国の人々に迷惑をかけては面倒なので、戦闘の可能性のある外国に丸腰で送り込まれるわが国の自衛隊員はまことに勇者であり、個人的には尊敬するが、送り出す為政者たちは「敵艦に爆弾抱えて突撃させる特攻精神の要求」をある意味、伝統的に続けているわけである。
まあ・・・現代戦とはテロリストとハイテク企業との知恵比べという側面があるわけだが、そこに「裸」で勝負をかける大和魂は滑稽で天晴れでさえあると感じるのも個人差があります。
まあ、「本当の私を見て」とプールサイドで中年男性に全裸を見せてくれる女子高校生がいたらいいなあと作家が考えていることを高く評価するかどうかは個人差があるでしょう。
で、『GOLD』を見た。
(いつまでも仮記事を続けるのは危険な賭けだと思いつつ仮記事です)
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