個性と個人差と夏と虹と恋とクレヨン(松本潤)
最近、個性と個人差についてうだうだと妄想しているわけだが・・・今回は個性とは何かというドラマである。
二世俳優というひとつの役割を与えられた主人公(松本)は人生の中でそれを上手に演じられない。
もちろん、設定上では偉大な父親が主人公を手厚く保護していたために主人公は自分が不器用であることさえも意識していない状態である。
このドラマは夏の月9の恋愛ドラマとしては非常に地味で、パンチもほとんどなく、メリハリも薄く、ときめきもほとんどないわけだが・・・主人公のその・・・人としての「つたなさ」だけは実に丁寧に描かれている。
つまり、個人というものが何かということを切々と語りかけているわけである。
主人公は父親の死によって初めて・・・自分に対する世間のありのままの風を受ける。つまり、風除けを失って風当たりのつらさを感じるわけである。
もちろん、主人公は自分では「二世俳優」であることを自分で知っていると思っているわけである。
しかし、世間が二世俳優をどう思っているかについて深くは考えないために、結局は「本当の自分を見出せない」状態だったわけである。
結局、個性というものは自分に対する世界の評価を自分が受諾することだからである。
個性というものは自由との相性がいい。
逆に個人差は平等との相性がいいとも言えるが・・・そう思うことにはきっと個性による個人差があると思う。
父親の死によって感じた風に主人公はうろたえるが・・・その気持ちにさらに漣を立てるのがヒロイン(竹内結子)である。そのあたりの筋立てがやや・・・のほほんとしているので恋愛ドラマとしては盛り上がりに欠けた感じがするが・・・とにかく・・主人公が自分の個性に気がついていくというドラマとしては正攻法なのだと思う。
男であることも個性だし、女であることも個性である。熱中症で倒れるのも個性だし、倒れないのも個性である。
強い自分も弱い自分もそういう個性のひとつである。そして、個性とは自分がどう思うかだけではなく、他人(世界)が自分についてどう思うかということを知って初めて「本当の自分」に到達する。
つまり、自己とは他者との関係の中にしか存在しないからである。
社会は常に「熱中症で倒れる子供のために行事を中止するべきか、それとも熱中症で倒れる子供を排除すべきか」で揺れている。同じように個性もまた「自分を変えるか、世界を変えるか」で揺れるのである。
主人公は「二世俳優」という自分の個性とどう向き合えば生きやすいかを・・・他者との関わりあいの中で見出していく。
時には・・・ライバルの声の中に、時には仲間の姿の中に主人公は「自分」を発見していくのである。
「自分探し」などという言葉があり・・・それはいかにも内面に顔を向けるようなムードがあるわけだが・・・本当の自分は他人の中に半分隠れているということをこのドラマは静かに語っているのである。
まあ・・・そう思うためにはある程度の個性とか個人差があるわけですけど。
で、『夏の恋は虹色に輝く』を見た。
(自分でもそう思うしきっと誰かもそう思うように本当の仮記事です)
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