夢が現実となって心の整理がつきません(ばんどうさくぞう)
フィクション(虚構)とノンフィクション(非虚構)の差異というものを考えるものと考えないものがいる。
一部の人にとっては認識とか理論とか知識とか知恵とかはくだらないもの、無意味なもの、そして無駄なものだったりするのである。
そうでないもの・・・たとえば悪魔などは・・・夢がフィクションに属するのか、ノンフィクションに属するのか、そういうことで頭を悩ませたりするわけで・・・一部の人にとってはそういう苦悩そのものが「理解不能」なのである。
実に・・・人と人の意思疎通は困難だなあ。
人には二種類あって・・・現実(リアル)を主とするものと虚構(フィクション)を主とするものである。
後者にとっては「現実」も「虚構」の一部に過ぎないのである。
世界は現実主義者で満ちていて・・・ある意味では「現実的でないことは悪そのもの」だったりする。
スポーツ競技者は「結果」というフィクションの渦中にいるので・・・どちらかといえば「現実主義者」の側面を持っている。
そのフィクションには肉体的(フィジカル)なものと精神的(メンタル)なものという分離があるのだが両者が渾然一体となって結果に向かっていくのである。
その結果を現実と考えるのが現実主義者なのである。
しかし・・・世界があって・・・個人があって・・・アメリカやドイツがあり・・・サッカーという競技があり・・・そこに性差があり・・・楽しいお食事会があって・・・参加者があることないことツイッターにつぶやいて・・・物議をかもして熊谷選手が謝罪して・・・飯もおちおち食えない時代があって・・・おい、脱線してるぞ・・・ともかく・・・ワールドカップで優勝するという近未来予想が実現して澤選手は夢と現実の相互干渉で落ち着かない気持ちを味わったらしい・・・そういうストーリーが成立するのだ。
この物語をノンフィクションと考えるか・・・フィクションと考えるかは・・・まさに複雑な問題なのである。
キッドにとっては世界平和も弱肉強食も放射能汚染も日本国憲法も外国人による日本人殺害も日本人による外国人殺害も戦争も避妊もすべてはフィクションであるというのが前提だということをもう一度申し上げておきます。
で、『それでも、生きていく』第3話(フジテレビ20110707PM10~)脚本・坂元裕二、演出・宮本理江子を見た。息も絶え絶えになって続行してきたこのブログがとりあげる最後の作品であろう。なにしろ・・・アナログテレビは明日、死刑にされて(一部地域を除く)観測対象がなくなってしまうのである。続行するためには被災三県に転属するか、お取り寄せをしなければならないのだ。
不誠実に地デジに移行してもいいのだが「末期のアナログテレピを観測中」という看板に偽りがあるということになる。
まあ・・・どうせ妄想なのだから不誠実でも問題なしという考え方もあります。
とにかく・・・被害者の母親に加害者の妹は「偽名」を名乗るのであるが、その偽名の本体である「ばんどうさくぞう」が今後、どのようにドラマにからんでくるのか・・・キッドの興味はそこ集約されていくのである。
もちろん、ウソです。
関連するキッドのブログ→第2回(仮記事)
(仮記事ですが・・・再度更新の可能性は流通牛肉の放射能レベルより低いと思われ)
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