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2011年7月23日 (土)

夢が現実となって心の整理がつきません(ばんどうさくぞう)

フィクション(虚構)とノンフィクション(非虚構)の差異というものを考えるものと考えないものがいる。

一部の人にとっては認識とか理論とか知識とか知恵とかはくだらないもの、無意味なもの、そして無駄なものだったりするのである。

そうでないもの・・・たとえば悪魔などは・・・夢がフィクションに属するのか、ノンフィクションに属するのか、そういうことで頭を悩ませたりするわけで・・・一部の人にとってはそういう苦悩そのものが「理解不能」なのである。

実に・・・人と人の意思疎通は困難だなあ。

人には二種類あって・・・現実(リアル)を主とするものと虚構(フィクション)を主とするものである。

後者にとっては「現実」も「虚構」の一部に過ぎないのである。

世界は現実主義者で満ちていて・・・ある意味では「現実的でないことは悪そのもの」だったりする。

スポーツ競技者は「結果」というフィクションの渦中にいるので・・・どちらかといえば「現実主義者」の側面を持っている。

そのフィクションには肉体的(フィジカル)なものと精神的(メンタル)なものという分離があるのだが両者が渾然一体となって結果に向かっていくのである。

その結果を現実と考えるのが現実主義者なのである。

しかし・・・世界があって・・・個人があって・・・アメリカやドイツがあり・・・サッカーという競技があり・・・そこに性差があり・・・楽しいお食事会があって・・・参加者があることないことツイッターにつぶやいて・・・物議をかもして熊谷選手が謝罪して・・・飯もおちおち食えない時代があって・・・おい、脱線してるぞ・・・ともかく・・・ワールドカップで優勝するという近未来予想が実現して澤選手は夢と現実の相互干渉で落ち着かない気持ちを味わったらしい・・・そういうストーリーが成立するのだ。

この物語をノンフィクションと考えるか・・・フィクションと考えるかは・・・まさに複雑な問題なのである。

キッドにとっては世界平和も弱肉強食も放射能汚染も日本国憲法も外国人による日本人殺害も日本人による外国人殺害も戦争も避妊もすべてはフィクションであるというのが前提だということをもう一度申し上げておきます。

で、『それでも、生きていく』第3話(フジテレビ20110707PM10~)脚本・坂元裕二、演出・宮本理江子を見た。息も絶え絶えになって続行してきたこのブログがとりあげる最後の作品であろう。なにしろ・・・アナログテレビは明日、死刑にされて(一部地域を除く)観測対象がなくなってしまうのである。続行するためには被災三県に転属するか、お取り寄せをしなければならないのだ。

不誠実に地デジに移行してもいいのだが「末期のアナログテレピを観測中」という看板に偽りがあるということになる。

まあ・・・どうせ妄想なのだから不誠実でも問題なしという考え方もあります。

とにかく・・・被害者の母親に加害者の妹は「偽名」を名乗るのであるが、その偽名の本体である「ばんどうさくぞう」が今後、どのようにドラマにからんでくるのか・・・キッドの興味はそこ集約されていくのである。

もちろん、ウソです。

関連するキッドのブログ→第2回(仮記事)

(仮記事ですが・・・再度更新の可能性は流通牛肉の放射能レベルより低いと思われ)

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2011年7月15日 (金)

なでしこの花が咲きました。(満島ひかり)

いや・・・咲いたのはひなげしだろう・・・っていうか、女子サッカーと「それでも、生きていく」をシェイクするなよ。

本当はね、優勝したら使おうと思っていたのグレープのパクリだけどね。

さだまさしっていった方がわかりやすいかもな。

でもね・・・諸悪の根源・東京電力の社員だった鮫島がフクシマという十字架を背負いながら、しゃなりしゃなりともっともなでしこな感じでドリブル突破して痛烈なパスをゴール前にそれを安藤がおとして澤がヘディングで決勝ゴールっていうのは、もう、とにかくとにかくとにかく・・・シュテキーっとしか言いようがあるまい。

だから・・・家族に殺人犯がいる家族だってのほほんと生きているやつもいるが・・・たとえば東電の社員は実質そうでも実際そういう自覚はなかったりして・・・普通に心あれば・・・もうどうしようもなくいたたまれなく・・・生と死、存在と非存在の狭間をさすらうような人格形成になっちゃうわけで・・・それはもう・・・あの妹もまた・・・なでしこジャパンだと。

いつか・・・オーッて言えたら良いよね。そうだよね。

で、『それでも、生きていく・第2回』を見た。(仮記事ですが疑いようもなく再度更新は個人的見解としてはあるともないとも申し上げることはできない)

関連するキッドのブログ→第1回のレビュー

まこお嬢様のレビューはコチラへ。

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2011年7月11日 (月)

ジュース、ありがとう(黒澤宏貴)

日本最大のレディースといえばなでしこジャパンなわけである。

しかし、最強女子だけにそこには因縁の物語がある。

なでしこ総長・沢ホマレと特攻隊長丸山カリーナといえば・・・2008,年・・・北京オリンピックでの三位決定戦である。

ドイツ相手に2-0でやぶれた興奮さめやらぬ競技場・・・。ホマレは激昂してカリーナに説教である。

「カリーナ、ちょっとこいやぁ」

「・・・」

「途中出場が・・・最後まで全力でかっとばさなきゃ、誰が走るんだよぉ」

カリーナはヤンキー眉をひそめつつ泣きじゃくるのだった。

「すいやせんでしたぁぁぁ」

跡目を継ぐのはお前だと思えばこその叱咤であった。

そして・・・2011ワールドカップ・・・準々決勝・・・。相手は奇しくもドイツだった。

0-0で迎えた延長戦前半・・・ホマレはドイツのシモーヌに後ろ蹴りを股間に決められ悶絶である。

しかし、不死身の総長は数秒で復活・・・その闘志にレディースの紅蓮の炎が燃え上がるのである。

そしてそのときは来た・・・延長戦後半・・・澤のパスは裏へ走る丸山の脚先にジャスト・フィット・・・ゴール!

澤と丸山の宿命のアシスト&シュートなのである。

しかし・・・総長補佐阪口は蒼ざめるのだった。

試合直後の丸山のインタビュー「すごいいいパスをイワブチがくれたので・・・後は蹴るだけでした」

阪口「ま、まるやまぁぁぁぁぁぁ」

それはそれとして・・・3位以上になってこその妄想でございます。がんばれっなでしこジャパン。

で、『ドン★キホーテ』(日本テレビ110709PM9~)脚本・大石哲也、演出・中島悟を見た。

毎度おなじみの人格交換ファンタジーである。映画『転校生』(1982年)の原作小説・山中恒の「おれがあいつであいつがおれで」を意識したセリフがあったり、元祖男女・小林聡美がそれとなく助演しているわけである。

しかし・・・一般人とヤクザの人格交代では筒井康隆の「俺の血は他人の血」もいくらかいただいていると思われる。

ま、とにかく・・・ヤクザをひそかに肯定し・・・ヒーロー化するのはエンターティメントとしては王道なのである。

スポンサーに気を使って自動車や原発が事故を起こさないドラマ世界にあって飲酒のために児童虐待する母親・敦子(岩佐真悠子)が登場するだけでも天晴れなのである。

ともかく・・・登場する話数によって体重の増減が激しく、輪郭が一致しない幸子は今期こそ・・・そこそこのコンディションをたもってもらいたいと思うのだった。

松田翔太の高橋克実の真似と高橋克実の松田翔太の真似は甲乙つけがたし。

(もちろん仮記事ですが・・・再度更新のメドはついていません)

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2011年7月 9日 (土)

凧、高いね・・・おにいちゃん、すごい(信太真妃)

最近、目がしょぽしょぼしているので主人公である殺された少女・深見亜季(信太真紀)が「モテキ」の林田由真(信太真妃)と同じ子役なのかどうか不明である。

とにかく・・・あまり触れたくない・・・アナログ・地デジ移行期のドラマなのであるが・・・とにかく・・・幻想の凧揚げで妄想される亡き妹の存在感は抜群だったのである。

とにかく・・・「私たちの教科書」のあと何作かはまれず・・・「Mother」でやはりすごい感じになった脚本家である。

「さよならぼくたちのようちえん」をはさんだものの・・・ほぼ連続で傑作をやるのかと思うと少し胸がときめくのである。

とにかくポエム爆発の気配は濃厚なのだな。

余力があれば・・・「Mother」なみにのめりこみそうだが・・・。とにかく、とにかくを書きすぎなのである。

で、『それでも、生きていく』(フジテレビ20110707PM10~)脚本・坂元裕二、演出・永山耕三を見た。プロデューサーが石井浩一なら一二三なのに石井浩二なので二二三なのが少し残念だ・・・何がだよ。

老いた母は認知と不認知の狭間にいて・・・「自分がかなり認知症的であると認知したとき」に「もう死にたい」が口癖だったわけだが・・・そういうときに「じゃ・・・ロープにする・・・出刃包丁にする」と聞くと「そんな人様に迷惑をかけることはできない」と答えるのがいつものやりとりである。なにしろ認知症であるからそれはエンドレスにリフレインなのである。そういうときに心に生じる「悲しいことを言われたくないきもち」と「限りなく甘酸っぱい殺意」それは強姦殺人して逃亡しまくっていた男が「殺すつもりはなかった」と遺族の前で証言することとは違うと信じたいのである。

悲しい気持ちの小学生を撲殺して湖に浮かべうっとりしたのかも知れない中学生のその後がどのくらい美しく描かれるかが勝負だろう。

それはともかくとして・・・殺人犯をかばう妹のせつないまでの普通の気持ちを・・・淡々と演じる遠山(三崎)双葉役の満島ひかり・・・もうトレビアンなのである。

こういう役をこういう風に演じられる女優・・・ちょっと他には思い浮かばない。

もちろん・・・こんな役ばかりはやってられないのだが・・・歩道橋の階段で喪服のすそからこぼれる白い足・・・これが見られただけで満足だし・・・この仮記事にそれを書けたので十分としたい。(由緒正しい仮記事ですが更新は期待しないでください)

ついでに「ブルドクター」はつめこみすぎに説明文(セリフ)がトリセツ状態で「死体が美しいのは無口だからだ・・・」と考えた(仮題)がボツになるほど残念な感じでございます。

関連するキッドのブログ→ラストフレンズ

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2011年7月 4日 (月)

魔法使いのいない夏(キッド)

光陰矢のごとしである。

末期のアナログTVを観測する目的で始めたこのブログもついにアナログTVの臨終を看取る段階まできたのだな。

アナログテレビ50年、化天のうちを比ぶれば、夢、幻の如くなり。

総務省の職員が毎日、襲撃されて、背中に血文字でカウントダウンされないことを祈るばかりである。

そのぐらい画面を占拠する「23」で始まるカウントダウンは地デジ主導者の傲慢で悪逆な匂いを感じさせる。

ニュースの字幕をつぶし、テニスプレーヤーのブレイクをつぶし、女優たちの演技をつぶす。

まさにテロップのテロはテロリズムのテロだったのだな。

何の抵抗力もないが心は人並みにある製作者たちの断腸の思いが聞こえてきます。

まあ、しかし、ひとたび生を享け、滅せぬもののあるべきかと続くのですべてのものに終焉があることを知ることは老若男女を問わず大いなる学びの糸口である。

ただ、アナログテレビとともに生き、アナログテレビを感じ、アナログテレビを愛してきたものにとって・・・やがてくる夏はまさに魔法使いの死後に違いない。

それはある意味、長い長い夢から醒める時でもある。

まるで死者に鞭打つようなカウントダウンもそういう意味では心に沁みる要素といえるだろう。

地デジがどのようにのろわれて誕生したのか・・・アナログテレビ信者に深く刻み付けるためである。

その呪詛がどのように具現化するか・・・もちろん・・・悪魔としては心から楽しみなのである。

もちろん・・・霊的世界ではあの大いなる災厄もまた・・・アナログテレビの断末魔の雄叫びであったということは十分に妄想できるのだった。

23・・・22・・・21・・・20・・・19・・・呪縛され・・・辱められた魔法使いが・・・暗い地下牢の中で紡ぐ復讐の呪文。

人々が思い知るのはもうすぐかもしれない。

魔法使いのいない夏。

夏の寒き森。

聖なるハートブレイカー。

まあ・・・とっくに地デジ化されている人々には無縁の話でございますけれど~。

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