自己防衛のために疲弊した彼の自我を崩壊させる水蜜桃(木南晴夏)
原作的には・・・「澱の呪縛」、「青春賛歌」をとばしての「水蜜桃」である。
深夜にも関わらず・・・七瀬が人類に敵対する萌芽を見せる・・・それは全く、やむを得ずではあるが・・・ある種の人間にとっては七瀬が人類にとっての脅威であると認識せざるを得ない「水蜜桃」を先出ししてくるのは・・・お茶の間へのインパクトにこだわりすぎている気がする。まあ・・・現代の作り手の性であり、基本的には王道なのでとやかく言う気はありません。
また・・・原作では重要な要素となる・・・桐生勝美(田山涼成)が「・・・総合雑誌の、老人問題を特集した記事の中に、年をとる恐怖を歌ったものとして挿入されていた、あるアメリカの詩人が作った詩・・・」から「水蜜桃」を強く連想していく本編の骨子がまたもや脱落している。
これはおそらく・・・原作に対する敬意と・・・現代のお茶の間にはこの「詩」に対する一連の教養が欠落しているだろうという、原作者に殉じた視聴者蔑視の精神の表現だろう。
ちなみに原作では具体的な引用について言及されないが・・・。
おれは年をとって、ふけてきた。
ズボンのすそをまっくてはこう
うしろで髪をわけようか。
桃を食ってみようか。
白いフランネルのズボンをはいて、海岸を歩いてみよう。
おれは人魚がたがいに歌いあうのを聞いた。
人魚たちは、おれに、歌いかけているのではあるまい。
・・・というのはT・S・エリオット『アルフレッド・プルーフロックの恋歌 』の一節である。
原作者はこの頃、30代半ばであり、日本語訳もどことなく中年の気配が漂っている。
しかし、エリオットがこの詩を書いたのは20歳そこそこである。
どちらかといえば次のようなニュアンスになるだろう。
俺は年をとりまくる
ズボンの裾をめくりまくる
髪は後ろでわけまくる
ぴちぴちのピーチを齧る快感
白のフラノのズボンで歩く海岸
人魚の詩を感じる開眼
だけど人魚は俺をシカトしてんじゃん
ノーベル文学賞受賞詩人のエリオットがこの詩を書いたのはおよそ百年前の1910年である。百年後の今もそれなりにモダンな感じがするのは・・・その後から現代に至るまで改革されていない「意識の流れ」を意識した作風による。
原作はテレパスをヒロインに設定したことにより・・・この「意識の流れ」を強く意識せざるを得なかったわけであるが・・・ドラマ化における脚本・演出はややその点が無意識化してしまっていると考えられる。
だが・・・作品のAV化そのものは・・・原作のイメージより・・・かなり「黒ぐろとした頭髪に示されている若さ」を喪失しているキャストの熱演で充分に成功していると言えるだろう。
ちなみにエリオットの詩の「peach」の部分は橋本治の小説「桃尻娘(ピンク・ヒップ・ガール)」(1977)以後、「尻」と日本語訳されがちなことを補足しておきたい。
で、『家族八景 Nanase,Telepathy Girl's Ballad・第二話・水蜜桃』(TBSテレビ20120201AM0055~)原作・筒井康隆、脚本・佐藤二朗、演出・堤幸彦を見た。前述の通り、ドラマでは七瀬(木南晴夏)が訪れる第二の家庭は桐生家になっている。ちなみに原作では桐生家の長男・竜一(正名僕蔵)は造船会社の資材課長であり、これは「無風地帯」の尾形久国が造船会社の総務部長であることに対応している。七瀬はそうした社会的関係性を頼って家政婦として家を替えながら働いているのである。こういう細かい設定は荒唐無稽な物語にリアリティーを与えるためのテクニックである。ディティールの大切さというものを学ぶべきなのだな。
さて・・・今回の桐生家では「七瀬のテレパシー能力発動」は「心を読まれているものに花が咲くこと」で示される。「読まれた声」の音声は加工されており、それだけでも問題ないわけだが、視覚的な面白さを追求したい気持ちは充分に伝わってくる。もちろん、それが大成功しているかどうかはお茶の間のそれぞれの判断に委ねられるものだ。
原作では・・・桐生家の家長、勝美の年齢は57歳である。演じる田山涼成の実年齢は60歳なので許容範囲だが・・・現代の感覚から言えばやや・・・加齢が激しいと言えるだろう。ざっと1913年(大正2年)生まれである。太平洋戦争終結時に32歳であり・・・戦後の混乱期を牽引してきた世代だが・・・高度成長の終焉する1970年代には社会の変化に対する順応性に欠け・・・昭和ヒトケタ世代やその後に続く団塊の世代に追われる立場となった世代である。そのために・・・勝美は55歳定年制導入という・・・年功序列排除の第一の波によって職を失い・・・人格そのものを否定される憂き目にあっている。
もちろん・・・この年齢は現代でも極めてきわどい年齢と言えるだろう。老人として開き直ることもできず・・・一部のエリートを除いては社会的な地位をはく奪されかねない弱者となっている。
水は高きから低きに流れるという理にそってその圧力は桐生勝美に押し寄せるのである。
長男の竜一の場合・・・定年退職後の父親の姿を≪一日中ぶらぶらしやがって・・・管理職だったのに管理する対象を失ってなんてみじめな姿をさらすのだ・・・自分を管理することもできないのか・・・会社にしか居場所がなかったのか・・・しかし・・・俺もいつか・・・親父のように・・・親父のようにみじめな老後を・・・気が滅入ることだ・・・俺の気が滅入るのも親父がだらしないからだ・・・そんな親父が嫌いだ・・・親父が憎い≫と複雑な感情の果てに憎悪する。
長男竜一の嫁・綾子(佐藤寛子)は・・・≪老後の趣味の一つもなくて・・・なんの生きがいもない・・・だから・・・私をいやらしい目で見る・・・息子の嫁に欲情するしかない・・・敗残者・・・ああ、いやだ、いやだ、いやらしい≫と嫌悪する。
両親に影響された孫の章(池澤巧)は勝美の唯一の心の拠り所であるにもかかわらず「もっと真剣に新しい仕事を捜さなければだめだ」≪もっと真剣に新しい仕事を捜さなければだめだとパパが言ってた≫と汚れなき悪意をリレーする。
次男で高校生の忠二(須賀健太)は≪原作では僕はどっちかといえば俺様キャラなのにこれまでの芸歴から判断されたのか・・・俺様キャラを装うおタクというわけのわからない設定にされて・・・自分でもどう演じていいか判断に迷うよ・・・これが子役時代の終焉ってことなのか・・・いつまでも若く愚か者ではいられないってことなのか・・・いやだいやだ・・・親父のような失業者にはなりたくない≫と八つ当たりをするのである。
二つ年上の妻である照子(千葉雅子)は自分が夫より早く老化することに恐怖を感じていて・・・≪定年になったんだからあきらめればいいのに・・・まだまだ若いつもりでいる・・・私より若いことをこれみよがしにして・・・いい年をしてまだ夜の生活を続けようとして・・・死・・・けがらわしい・・・死がそこまで・・・おそろしい・・・それなのに夫はまだ生き続けるつもりだ・・・私より長く生きるつもりだ・・・ああ、いやだ・・・死・・・いやだ・・・夫より早く死ぬのはいやだ・・・自分で自分をいたわって・・・少しでも長生き・・・嫁にまで馬鹿にされて・・・私をまきこむな・・・死・・・夫は馬鹿にされてもいいが・・・私は馬鹿にされたくない・・・なにしろ私はこの家で一番の年長者・・・死≫と女性特有の「生」への固執から「男としての性欲」だけに偏向したように見える夫を身も心も全面的に拒絶していたのである。
家族からの理不尽な抑圧にさらされながら・・・勝美は常にかっての職場における自分の存在感の追想にひたるのだった。≪俺は・・・できる男だった・・・仕事をして家族を養った・・・まだまだできるのに・・・会社は俺を切り捨てた・・・俺は追い出された・・・俺は無用の存在なのか・・・俺は・・・生ける屍なのか・・・俺はできる・・・俺はしたいのだ・・・俺はあれもこれもまだできるし・・・したいのだ・・・それが悪いことなのか≫・・・しかし、現実は過酷であり・・・勝美は強制された無為の日々の囚人と化していた。それはまさに生き地獄であり・・・勝美の精神は破綻しかかっている。
七瀬が感じたのは一方的に迫害される弱者に対する憐憫であり・・・同情であった。
原作では単なる知的好奇心から抑圧された人間心理の実験台として勝美に興味を持つ七瀬だが・・・ここはより簡単に「弱者に対する保護欲」の発露としてドラマ化されていくのである。
原作のエリオットの詩の件を割愛する代わりに勝美の知的退行・・・現代で言えば一種の欝病的な記憶障害を示す「孫に聞かせる極めてダイジェストされた桃太郎朗読」のシーンの後で・・・七瀬は・・・勝美に水蜜桃を与える。
「家族の皆さんには内緒で旦那様と私でいただいてしまいましょう・・・」
その一言が・・・水蜜桃の「甘く水分の多い果肉を包んだ」イメージと重なり合う。
この瞬間、勝美の内部で七瀬は一個の水蜜桃と化したのである。
≪この若々しい家政婦にむしゃぶりついて・・・俺はなすべきことをする・・・俺がするべきこと・・・俺が喜び他の誰かも喜ぶこと・・・俺が桃を食べる喜び・・・桃が俺に食べられる喜び・・・そうか・・・仕事だ・・・これが俺の仕事だ・・・俺がするべき仕事だ≫
七瀬は虎の尾を踏んだのである。処女喪失の恐怖に七瀬は身ぶるいする。
同情すべき老人は一転して危険な強姦者に変化したのだった。
そして・・・その危機は・・・老夫婦を残して他の家族が旅行に出かけたことによって一挙に現実のものとなる。
ここで七瀬の入浴シーンが挿入される。ガラス戸に男の影はつげ義春的表現だが・・・「モテキ」の大野仁の演出の方がちょっと美的だったな。がんばれ、堤幸彦。
≪自分の身は自分で守らなければ・・・≫と七瀬は寝室のドアを板で固定するが・・・憂鬱の後に憤怒を色欲に返還させた勝美はただならぬパワーを発揮し、一撃でドアを破壊しパジャマ姿の七瀬に屹立した男根を開示するのであった。
≪水蜜桃だ・・・俺の水蜜桃・・・俺の甘い果実≫
咄嗟に七瀬は・・・彼の壊れかかった心を完全に破壊することを決断する。
それは非現実的な自分自身の能力で・・・勝美の現実認識と辛うじて残っている理性を粉砕するというもくろみだった。危険な賭けだったが・・・非力な乙女である七瀬に他の選択の余地はなかったのである。
「私はあなたの水蜜桃じゃないわ」
≪なんだと・・・俺の俺の心が読まれた・・・こいつはさとるの化け物か≫
七瀬は伝承として伝わる心を読む妖怪「さとる」が勝美の心の中で根源的な恐怖のコンプレックスを形成していることを瞬時で読み解く。
「そうよ・・・私はさとるの化け物よ」
≪ひゃあ、こわい、こわいよ、化け物だよ、おばあちゃん、化け物が出たよ・・・心が読まれてしまうよ・・・考えるな・・・考えちゃだめだ・・・何も考えるな≫
「無駄よ・・・何も考えないなんて人間にはできないのよ」
≪うわあ・・・すべてわかってしまうのか・・・では俺が嫁に対して思っている邪な心も≫
「もちろんよ、あなたが・・・若奥様を何度も何度も心の中で犯していることもお見通しよ」
≪ちがう、ちがうんだ、あれは照子が、アレをさせてくれないから≫
「ずるいことを言ってはだめよ・・・奥様のせいにしたりしても・・・あなたの罪は消えない・・・あなたは罰を受けるのょ。恐ろしい罰を受けるの」
≪いやだ・・・やめて・・・助けて・・・おばあちゃん・・・助けて≫
根源的な恐怖がついに勝美の自我を崩壊させた。
≪闇・・・光・・・地獄・・・あ・・・ドロだ・・・痛みだ・・・串刺しだ・・・ぎゅぅぅぅぅぅぅぅん≫
勝美は発狂した。勝美の意識はからっぽになっていた。心が空白になり、そこに無意識内の怪奇なガラクタが一気に噴出した。
狂気が津波のように七瀬の心に押し寄せる寸前、七瀬は心の掛け金を下した。
「あははは・・・うふふふ・・・えへへへ」
勝美はすでに人間の残骸と化し・・・うつろな笑いを響かせていた。
そこへ・・・妻の照子が騒ぎを聞きつけやってくる。
「何・・・どうしたの・・・」
「あ・・・奥様・・・旦那様が・・・」
照子は一瞬にして状況を把握した。
≪まあ・・・呆けたんだわ・・・私より若いくせに痴呆に・・・あはは・・・痴呆になっちゃった≫
七瀬は照子の心に浮かぶ歓喜をいぶかしんだ。
そんな七瀬の戸惑いにはまったく気付かず・・・照子は年下の夫が先に痴呆化したことに優越感を感じ勝利の愉悦にひたるのだった。
こうして・・・予期せぬ成り行きにより、七瀬は初めて人類に敵対したのである。
暗い階段から暗い廊下へ、暗い部屋から暗い部屋へ、狂った勝美の笑いが暗い家の中へ浸透していった。
そして桃太郎は亀と一緒に竜宮城に行く途中溺れましたとさ。
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コメント
キッドさん☆原作の細かな解説ありがとうございます
詩の部分もう一度読み返してみます(^^)
田山さんでは老けすぎな気もしましたが今の定年世代のイメージにはピッタリでしょうか?ただ現役でまだまだ働けるのに定年になってしまった悲哀は伝わりずらい気がしました
個人的には七瀬が身を守るため自分の能力を使った感を強調してほしかったです
でも家族関係はわかりやすくなっていてよかったです
原作は思ったより時間がかかりました
一話読み終わると世界から抜け出せずサクサク読めませんでした
今回飛ばされた2話も心にすごく残り地味だけど味わい深かったです
七瀬が身体的にどんどん女性らしく変化していくところが憎いですね
私も七瀬に会いたくて続編まで読んでしまいそうです
また
お邪魔します!
投稿: chiru | 2012年2月 1日 (水) 21時21分
いえいえ、駄文をお読みいただきありがとうございます。
70年代のエリオット詩集にはほぼ同文の
日本語訳もあるのですが
細かい部分では原作者のオリジナルなのかと思わせる
変更があったりして
そういう点もキッドは楽しかったりするのですね。
ドラマはドラマとして楽しみ、
原作を参照する必要はあまりない・・・
というのが
キッドの基本姿勢ですが・・・
やはり・・・ものによっては
原作と対比することが
ものすごく面白かったりします。
特にこの「家族八景」の場合。
エンターティメントでありながら
実験小説の趣がございますし・・・
ドラマもまた実験的にならざるをえない・・・みたいな。
こうなると様々な妄想が膨らみますからな。
原作者VS脚本家の側面もあるし
原作者VS演出家の側面もある。
数あるテレビドラマの中でもなかなかの特異点でございます。
そのなかで・・・そうきたか!とか
がんばったなあ・・・とか
それは違うだろっ・・・とか
もうキッドの中の多重人格が騒ぎたて
夜も寝ないで昼寝する今日この頃なのです。
田山涼成≠桐生勝美
ではあるが・・・ひょっとしたら
かなり
田山涼成=桐生勝美
なのかもしれない・・・
それは世界というものが
個人の数だけあることの一つの証明だったりして。
読書というものは面白いもので
つまらない小説が別の時間では面白かったり
面白い小説がいつしかつまらなくなったり
それが交互にリフレインしたりもしますな。
面白い小説ほど・・・世界が閉じてしまう
物語の終盤には・・・不思議な感覚を味わうことになるでしょう。
そっちにいきたいよ・・・
そっちに連れてってくれよ・・・
キッドにとっては「七瀬」シリーズは
まさしくそうした小説でございました。
ドラマはまだ・・・そこまで至ってはいませんが
かなりいい線に来ているような気がします。
少なくとも・・・今度再読する時には
七瀬はかなり木南晴夏に影響されるでしょうしね。
また・・・小説と比較することによって
ドラマというものがかなり不自由なものだ・・・
ということが発見できたりいたします。
その不自由な世界で
表現者たちが悪戦苦闘する様を眺めるのも楽しみです。
個性豊かな・・・たくさんの人々が存在する
人類というもの。
しかし・・・その人類の多くが
七瀬に出会えば
老若男女を問わず
かならずや・・・魅了されるだろう。
そういう力がこのヒロインにあってほしい。
キッドはいつもそう考えます。
そして七瀬ふたたびで胸がキュンとすればいいのさ・・・
また、おでかけくださいますように・・・。
投稿: キッド | 2012年2月 1日 (水) 23時49分
なるほどーー…
照子さんは、年上女房だったから、ダンナが自分よりも先に
老化してくれることが嬉しいのですね。
それは、気付きませんでした。
(そういうセリフがあったかどうかも忘れてましたー^^;)
夜中のドラマはボーっと見ていることが多いので、ダメですね。
しかし、このドラマはボーっと見つつもラストで冷っとします。
このヒヤっと…が楽しいのです。
もう、本当に忘れているので原作を読みなおそうと思いつつ、
見つからないしこのドラマが終わってからでいいかな、とか^^;
じいやの記事で比較を面白く拝見させていただきます。
投稿: くう | 2012年2月 2日 (木) 03時15分
くう様、また、さらに、こんなに夜更かしを・・・。
まあ、冬の夜ですからな。
よろしゅうございましょう。
原作では「水蜜桃」のラストは・・・。
「ナナちゃん、どうしたの」
「あなた。どこにいるの」
「何を笑っているのです」
・・・という桐生照子のセリフの三連打で余韻を残して終わっています。
つまり・・・ドラマの照子の態度はオリジナルの結末でございます。
ただし・・・原作でも照子の勝美に対する冷たい態度の説明は夫との年齢差、死への恐怖からの逃避として述べられています。
ドラマではそれをソフトに表現していますが
キッドはもう一歩踏み込んで
ブラック・ユーモアとしての結末と解釈しているのでございますね。
まあ・・・じいめとしては
長年連れ添った夫婦というものは
意識の上では憎しみを持ちつつ
いざとなれば愛しみあうと・・・望みたいですな。
しかし・・・現実はそうでもないケースもございますからね。
原作設定の上ではミス・キャストの田山涼成が
役者魂で・・・見事に桐生勝美を
演じきったということもできるでしょう。
ただし・・・お茶の間ではそこまで
臨場感がないかもしれません。
脚本家がやはり・・・テレビよりも舞台の感覚で
書いちゃってますからな。
しかし・・・楽しいのでまったく問題ないのでございます。
東日本大震災でじいめの書斎も崩壊して
かなりの書籍がまだ瓦礫の下なのですが
「家族八景」は数冊持っておりますので
テキストとしては寝室の枕元にあった
新潮文庫(昭和五十年版)を使用しております。
活字が小さくて読むのに一苦労の年になってしまったわけですが
ドラマを見て、原作に新しい場面が見えてくる喜びは
何にも代えがたいものですな。
生きててよかった・・・素直にそう思う次第でございます。
投稿: キッド | 2012年2月 2日 (木) 04時03分