いつまでも若く、いつまでも愚か者で、いつまでも愛しい女へ捧げる突然の死という贈り物に叫んだ乙女(木南晴夏)
原作は八篇で構成されるわけだが、登場人物の「死」が表現されるのはこの「青春賛歌」が最初である。
原作順では「無風地帯」→「澱の呪縛」と来て三番目が「青春賛歌」になる。
連作短編であるので・・・主人公の設定説明などくりかえしの部分もあるが・・・いわば・・・話の核心にせまってくるコーナーである。八篇を二つの起承転結と考えると・・・この作品は「転」にあたり、最初の「結」にあたる「水蜜桃」になだれ込んでいく。
ドラマではすでに「水蜜桃」が先行しているので前後することになるが・・・この二つには「老いに対する恐怖」が共通しているわけである。
「水蜜桃」では老いて仕事を失った男の悲哀が描かれているし、「青春賛歌」では若さに固執して暴走する女の錯乱が描かれる。
「死」の恐怖の前提として「老い」の恐怖があるのか、その逆なのかは老若男女各個人によって違うだろうが、両者が密接な関係にあることは間違いないだろう。
例によって原作の核心部分は欠落するのだが・・・トーンとしてはドラマはまたもや傑作の領域に達している。
家族といっても河原家は主人の寿郎と陽子の二人だけである。しかし、七瀬が河原家で働きはじめてから二週間経つにもかかわらず、家族との「心の交流」といったようなものは、まったくなかった。
テレパシスト(読心能力者)が「心の交流」にこだわることがすでに意味深いのだな。
つまり、本質にあるのは主人公・七瀬の孤独なのである。
さて、どちらかといえば・・・本編はテレビドラマ向きではない。なぜならば・・・河原家の二人は夫婦そろって非常に知的なのである。お茶の間の平均値をはるかに凌駕する知性を持つ二人の心身は・・・いかに表現しようとも深い理解を得られないと予想されるのである。
しかし、ドラマでは夫をやや不器用でかなり善人風に描くことによって難を克服している。
原作では夫はあくまで理知的な個人、妻もまた理知的な個人である。
そしてこの夫婦には最後・・・一方の生の終焉まで「心の交流」が成立することはないのである。
二人は最後まで「理知的であるがために孤独な存在」なのだ。
しかし・・・ドラマでは残されたものが去ったものをある程度愛しく想う風を装うことによって・・・誰もが共感可能な世界に着地しているのである。
だが、七瀬の結論は原作によりそい・・・けして残されたものの心情に共感はしない。
そこがラスト・シーンに幽かな違和感として蟠るという態になっているのだな。
このあたりのアレンジはなかなかに見事なのである。
ついでに言えば今回は登場人物がほぼ三人(ただし妻の愛人その他が記憶の形で登場する)であるために非常に分かりやすかったと思うわけだが・・・七瀬が掛け金を外して心を読んだ時の・・・アフター・レコーディングによる夫婦の心の声はすべて木南晴夏が声優を担当しているのである。天才である。
ちなみに・・・この作品には明らかにモチーフがあると推察できる。それは映画「卒業」(1967年)だ。もちろん、映画はダスティン・ホフマンとキャサリン・ロスの青春物語なのだが・・・キャサリン・ロスの母親役で・・・ダスティン・ホフマンの愛人でもあるというアン・バンクロフトの演じる「ミセス・ロビンソン」こそが・・・河原陽子のモデルであると言えるだろう。
よって本作の結末は「青春からの卒業をめぐるひとつの冴えたこたえ」に他ならない。
つまり「老いて死ぬのがいやならとっとと死ね」ということなのだな。
で、『家族八景 Nanase,Telepathy Girl's Ballad・第四話・青春賛歌』(TBSテレビ20120215AM0055~)原作・筒井康隆、脚本・江本純子、演出・高橋洋人を見た。脚本家は劇団毛皮族の脚本・演出家である。ドラマ「栞と紙魚子の怪奇事件簿」(2008年)の第4話と第8話を手掛けている。
河原家は新興都市のはずれの分譲住宅地にある中クラスの洋風家屋である。
家政婦として住み込んだ七瀬(木南晴夏)は河原家の主婦・陽子(小沢真珠)の圧倒的な精神力に感化され、とまどいを感じるとともに一種の快感を味わっている。
七瀬は「影響を受けた」とは思わず、陽子の自我の強さに衝撃を受けているだけだと考えていたが、ふと自分の考え方の過程を顧みた七瀬はそこにはっきりと陽子特有の思考パターンを発見したのである。
20歳そこそこの若い七瀬が38歳前後の陽子に影響を受けるのは不思議なことできないが、人の心を読むことができる七瀬は常人の数倍の人生経験を追体験している。その七瀬を圧倒するほど、陽子の思考プロセスは非常に論理的で、情報処理の屈折と分散の見事さはとびぬけて、頭脳の極めてすぐれた人間ならではの強い精神力を保持していたのである。
≪おでかけ≫≪家政婦に命令≫≪必要事項≫≪この家政婦は有能≫≪旦那の世話について≫≪夕食≫≪過去一週間の献立≫≪食材の有無≫≪適切な献立≫≪最近、旦那は妙に年齢にこだわる≫≪少し嫌味をきかせる≫≪家政婦の調理能力≫≪適切なレシピ一覧≫≪飲み物・コーラのようなもの≫≪洋食リスト≫≪微笑み≫≪嘲笑≫≪皮肉≫≪そうだ、旦那にハンバーガーを食べさせる≫≪アメリカンなジャンク・フード≫≪味なことやるマクドナルド≫≪実は原作初出当時は日本マクドナルド進出直前≫≪しかしSFなんだもの時代考証は多元宇宙論でスルー≫≪味なことやる私≫≪おでかけ≫≪行動予定≫≪インターチェンジまでの交通量≫≪目的地設定≫≪赤いハイヒール≫
「今夜の夕食はハンバーガーを作って旦那に食べさせてね。私の分はいらないから。それから旦那の地味目の茶色の冬服にアイロンをかけておいて。私の帰りは九時。もしも旦那に聞かれたらそう答えるの。もちろん、聞かれたらでいいのよ」
ドラマでは七瀬が心の掛け金をはずした状態は視覚的に表現される。河原家では服装が高校三年生風となり、夫は詰襟の学生服、妻は赤いボウのついたセーラー服である。
もちろん、学生服は青春の象徴であり、夫に比べて青春により固執しているのは妻であることから・・・七瀬の意識が妻に親和していることを表現しているのだろう。
七瀬はプリズムのような陽子の意識に魅了されている。
それはまさにめくるめく百万ドルの夜景を眺めている観光者のようなものである。
いつまでも・・・陽子の心を覗いていたい。七瀬は陽子の意識に恋にも似た感情を抱いているのだ。そのために・・・都心へとスポーツカーの愛車フェアレディーを運転する陽子の意識を出来る限り捕捉したいと欲求し・・・七瀬は家事を処理しながら陽子の心を追跡する。
≪年下の男の子≫≪オサムくん≫≪大学生≫≪待ち合わせの時間≫≪時差を利用してショッピング≫≪新作がある可能性≫≪贔屓のブティック一覧≫≪ボーグで≫≪スーツ≫≪おニューに着替え≫≪待ち合わせ≫≪食事≫≪フレンチ≫≪アプタイザー≫≪スープ≫≪ポアソン≫≪アントレ≫≪デザート≫≪情事≫≪サイモン&ガーファンクル≫≪ホテル≫≪ストッキング≫≪オサム(未来弥)くん≫≪プロデュース大作戦!≫≪社長の不祥事≫≪番組討ち切り≫≪せっかくビーチボーイズに選ばれたのに≫≪失意≫≪慰め≫≪濃密な≫≪青春の≫≪行為≫≪騎馬位≫≪絶頂≫≪うえたオオカミ≫≪先に行かれても気分を出してもう一度≫≪若い≫≪若さゆえの回復力≫≪絶頂・・・≫≪ホテル名検索・・・≫≪予約・・・≫≪ショ・・・ピン・・・グ・・・の・・・・≫≪店から・・・≫≪・・・≫≪東の空は青い≫≪・・・・・・・・・・・≫≪アクセル・・・・・・・・・夕暮れ≫≪・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・≫
精神感応力(テレパシー)は七瀬と相手との距離に影響される。河原家から遠ざかるにつれ・・・陽子の意識は受信できなくなってしまうのだった。
まもなく、一流大学を卒業したエリート官僚である河原家の主人・寿郎(堀部圭亮)が帰宅する。
七瀬はハンバーガーを作った。
寿郎の心は妻への批判で満ちている。
≪困った女だ≫≪享楽的だ≫≪38歳≫≪若い男と浮気≫≪大目にみていればいい気になって≫≪しかし美しい≫≪だが困った女だ≫≪浮気はいい≫≪しかし世間体が悪い≫≪役所で噂にでもなったら≫≪立場上≫≪困ったことになる≫
陽子の論理的な思考はすべて彼女自身の行動と密接に結びついている。だが寿郎の思考は、同じく論理的であってもいわば非常に文学的で、ほとんど良識的、観念的な他への批判に終始していた。
七瀬はそういう寿郎に批判的である。七瀬は「何もしない人間が行動的な人間を批判していると、いつも少し腹が立つのである。それは七瀬にとっては老人の意識、敗者の意識だからである。たとえそれが「悪事」であってもそれを為すものを、為さないものが批判することは許せない気がした。
もちろん、それは陽子に影響された七瀬が陽子を批判する寿郎に反発していることになるのだが。
まもなく・・・帰宅した陽子は心の中で情事を反芻しながら夫と日常的な会話をする。
≪オサムくんは今日も情熱的・・・心も体も通い合っている≫
≪何食わぬ顔でフレンチも食い男も食ってたか・・・困った女だ≫
七瀬は夫婦の仲が冷えていると最初は考えた。しかし、最近では二人の間に「徹底的な個人主義」があることを悟っていた。二人はそれぞれに「大人の複雑な関係」を構築しているらしい。
もちろん、陽子に影響されている七瀬にとって陽子を批判する寿郎も陽子が許容する限りにおいて許されるべき存在なのである。
しかし・・・それもまた大いなる幻影なのかもしれなかった。
そして、オムライスの夜がやってくる。ちなみにハンバーガーもオムライスもドラマのオリジナルである。1970年代と2012年代が交錯する奇妙な味わいの脚本が展開していくのだ。原作での陽子の寿郎への食事に関する七瀬に対する指示は「焼いたお肉と野菜いためでいい」である。
日本でTバックという言葉が浸透定着したのは1980年代だが、さかのぼればブラジル原住民の民族衣装であり、20世紀初めには世界的にストリッパーの愛用品であったので、陽子が夜の道具としてTバック下着を着用することは問題ない。
オムライスにケチャップでTと書くのは七瀬の出来心というようりは脚本家の遊び心であろう。そういうことをやってみたい年頃なのだろうな。
≪なんだ・・・なぜ( T )なのだ≫≪T・・・≫≪としろう・・・≫≪ティー・・・抱いティー≫≪TOしろうさん、抱いティーなのか≫≪この家政婦・・・オレに抱いてほしいのか≫≪しかし、小娘だ・・・小娘は小便くさい≫≪尿マニアもいるらしいが≫≪オレにその趣味はない≫≪オレが好むのは≫≪成熟した大人の女≫≪レンブラント・ハルメンス・ファンレイン≫≪ベッドの中の女≫≪陰影の豊穣≫≪ダナエ≫≪豊満な肉体≫≪ピエール・オーギュスト・ルノワール≫≪陽光をあびる裸婦≫≪たわわな乳房とゆたかな下腹部≫≪浴女とグリフォンテリア≫≪ふくよかな丸みを帯びたたるみ≫≪そうだ・・・お母様のような・・・≫
やはり寿郎も≪強烈なエディプス・コンプレックス≫を抱いていると七瀬は意識する。男性の女親への性欲は七瀬にとっても本能的な嫌悪の対象である。心理学を独学したことのある七瀬はそれが普遍的な心理であることは認識されていたが、自身の父親への性欲を隠匿するためにもマザー・コンプレックスは忌避する必要があるのだ。
同様に意識から母親への性的欲望を排除しつつ、・・・それは母への慕情へと巧妙に偽装される・・・寿郎の思考は一向に母親的にならない陽子への批判へと展開していく。
≪陽子もそろそろ、年齢(とし)相応に振舞えばいいのに≫≪中年の女が若い女の真似をするのは不格好だとわからないのか?≫≪あれだけ頭のいい女でありながら、自分のこととなると何も気がつかなくなるらしい≫≪やはり女だ≫≪スタイルはいい≫≪俺よりも若いから≫≪既製服が着れる≫≪俺は無理≫≪なぜならば服を誂えることができるのはステイタスだ≫≪大人のみだしなみだ≫≪レディーメイドなど貧乏人のファッションだ≫≪オーダーメイドこそがおしゃれの基本だ≫≪サイズ≫≪俺のウエストのサイズ≫≪ジーンズのサイズが≫≪なかった≫≪俺のはけるサイズが≫≪なかった≫≪困惑する店員≫≪小娘≫≪屈辱≫≪俺は既製品が着れない男≫≪しかしそれが大人というものなのだ≫≪既製服はそもそも青二才や小娘のティーン・エイジャーのウエスト・サイズ≫≪陽子は若者向きの既製服を買いあさる≫≪若さへの従属≫≪俺は違う≫≪成熟した人間は画一的なヤング・モードの流行から自由になって、自己の完成された個性を主張≫≪レディーメイドは敵だ≫≪オーダーメイドは素敵だ≫
寿郎は憤激し・・・オムライスを二杯食べた。
≪しかし・・・陽子を叱っても≫≪理解はしても納得はしない≫≪女だからな≫≪逆に優しく諭すことも大人の度量だ≫≪年上の男として・・・なにしろ、陽子は俺よりも七歳も幼い≫≪俺が中学生の時にまだ幼女だったのだ≫≪それならいっそ叱る方が≫≪いたわるべきか叱るべきかそれが問題だ≫
七瀬は時計を見る。すでに陽子の帰宅予定時間は過ぎていた。
「陽子は何時に帰ると言っていたかな?」
「九時とおっしゃってました」
≪なんだ・・・時間には正確な女なのに≫≪なにか問題が発生≫≪痴話げんか≫≪陽子の魅力の虜になった男が遊びを本気と勘違いして≫≪刃傷沙汰≫≪警察沙汰≫≪醜聞≫≪役所での俺の立場≫≪陽子の身≫≪しかし、あれは頭のいい女だ≫≪よもや≫≪いや≫≪しかし≫≪もしや≫
電話が鳴る。
「陽子か?」
「奥様からでございます」
「なんだ・・・まったく」
「え・・・事故でございますか」
「なにっ」
≪なにっ≫≪ついにやったか≫≪しかし自分で電話してきたということは≫≪陽子は無事≫≪A級ライセンスの腕前だからな≫≪保険≫≪示談≫≪穏便に処置≫≪それはそれとして≫≪叱るべきだ≫≪今夜、俺は叱ります≫≪いたわりつつ説教≫
酔っ払いの飛び出しによる軽い接触事故だったために陽子は自ら運転してその日のうちに帰宅した。
河原家に接近する陽子の意識が同調している七瀬の心に飛び込んでくる。
≪・・・厄日だった≫≪デートをすっぽかされた≫≪オサムくんの若いガールフレンド≫≪中年の酔漢≫≪ボーグに私にフィットするサイズがなかった≫≪仕方なく映画を見た≫≪ひどくつまらない映画≫≪おろかな若者たちの映画≫≪私はちがう若いからといって愚かではなかった≫≪オサムくんも愚かな若者だったのか≫≪いや頭脳明晰≫≪スポーツマン≫≪ただ内気なだけ≫≪しかし裏切った≫≪優柔不断≫≪愚かな酔っ払い≫≪急に車道に飛び出して≫≪かすり傷≫≪安全運転義務違反≫≪交番に連れていかれ≪説諭≪若い警官に≪年齢のことを言われた≪屈辱≫≫≫≫≫
「まあ、可哀相に」自尊心の高い陽子にとってなんとむごい一日だったことか・・・と七瀬は思わずつぶやいた。
帰宅した陽子に寿郎は待ち構えていたように説教を始める。
「自分では若い連中と同じように運転していると思っていても、反射神経が鈍くなっているんだ。だから人をはねたりする」
「相手は酔っぱらいだったのよ・・・あっちが悪いの」
しかし、寿郎の言葉に陽子はショックを受けていた。
≪わたし・・・年齢(とし)のために≪運動能力が低下≫したのかしら≪そういえば≫≪昔なら≫あの程度の距離があれば≪かわせた≫かもしれない≫≪いえ≫≪そうじゃない≫≪そんなことはない≫≪今日は特別いらいらしていたから≫≪厄日だった≫
もう、やめてあげればいいのにと七瀬は気を揉んだ。
しかし、寿郎の叱言はいつまでもだらだらと続いた。
「もう、寝かせて。疲れているの」
≪どうして夫は・・・こんなに若さを気にするのかしら。自分が私のように若さを好きじゃないからかしら。それともわたしが若わかしいことに嫉妬しているのかしら≫
「じゃあ、寝なさい・・・だが、もうスポーツ・カーはやめなさい」
「それは、命令なの」
「・・・うん・・・命令だよ」
「・・・」
「・・・」
入浴タイムである。いつものように乳白色に入浴中の七瀬は放射される陽子の自意識に悩まされていた。
陽子は傷ついた心を癒すためにさらに自我を強化しようとしていたのだ。
年齢(とし)をとったと指摘されたことは、陽子の自我にとって深い精神的外傷(トラウマ)だった。なぜなら彼女の自我は彼女の若さと複合体(コンプレックス)を形成していたのである。
青春時代、彼女は世界の中心であり、彼女こそ青春そのものだった。
そして、その世界では中年は脇役だった。彼女が中年になったことを認めることは彼女にとって自我を捨てることと同じようなものなのだ。
≪私は若くない≫≪若くない私などというものはない≫≪私はわかい≫≪私はまだ若い≫≪まだ≫≪若い≫≪もう≫≪若くない≫≪オサムくんが私を無視≫≪私がオサムくんに無視された≫≪私を≫≪青春そのもの≫≪青春≫≪私のものではない青春≫≪私は私の青春そのもの≫≪私の青春は私そのもの≫≪わたしの時代の終焉≫≪わたしはこれから、端役を演じなければいけないのだろうか≫≪ノー≫≪否≫≪いいえいいえいいえ≫≪だめだめだめ≫≪いやいやいや≫≪もしそうなら≫≪もし≫もしそうなら≪死んだ方がましだ≫
ふと七瀬は目の前に陽子の幻影が佇んでいるを視た。
陽子は七瀬に突然、意識を向けたのだ。
≪家政婦の≫≪あの家政婦≫≪七瀬ちゃん≫≪あんな地味な子が≫≪若い≫≪若いだけで≫≪青春を一人占め≫≪あの子の皮膚がほしい≫≪爪≫≪爪をたてて≫≪とがった爪で≫≪はがす≫≪ぺりぺりと≫≪ベリベリと≫≪そして≫≪ペタペタと≫≪ベタベタと≫≪私にはりつける≫≪七瀬ちゃんの無経験≫≪頼りなさ≫≪健康な鈍重さが≫≪≪≪ほしい≫≫≫
七瀬は浴槽の中で金縛りにあったように身動きができなかった。陽子の心が七瀬の心にねっとりとまとわりついてくる。七瀬の心は震えた。
翌日、いつものように陽子は七瀬に留守番を命じスポーツ・カーにのって出かける。
七瀬の心は不安に満たされる。
その不安は七瀬自身の不安であり、陽子の不安だった。
≪オサムくんと決着をつける≫≪つける気だ・・・そんなことは≫≪無意味だ≫≪無意味です≫≪しかし≫≪確かめなければならない≫≪何を≫≪私の青春の≫≪オサムくんに私がどう見えるか≫≪私自身のために≫≪私は沈黙してしまうような≫≪黙ってやりすごすような≫≪人間じゃない≫≪何を≫≪何をやりすごすのか≫≪ミセスロビンソンはなぜ恋人と娘の結婚を許さなかったのか≫≪男の裏切り≫≪わが娘への愛≫≪ちがう≫≪自分が若くないことを認めさせた≫≪現実が≫≪時間が≫≪認めた自分が≫≪許せない≫≪私はスピードを落とさない≫≪なぜならスピード違反による事故は若さの証明だから≫≪死んでも≫≪いいわ≫≪アクセル≫
七瀬は悲鳴をあげた。陽子の目前にトラックの後部が接近する。その凶悪な車体が急速に拡大する。光と闇。パノラマ視現象。意識の拡散。亀裂の彼方に死・・・虚無があった。七瀬は生きながら死を体験したのだった。
七瀬は絶叫した。
陽子の死を知った瞬間、葬儀の間、そして今・・・寿郎は「妻の死の引き金を引いた自分のイメージ」からなんとか逃れようともがいていた。彼のあくまで知的な思考形態は・・・あの夜の会話が妻の死を招いたことをどうしても察知してしまうのだ。そう考えることは寿郎にとって苦悩以外のなにものでもなかった。
≪そんなことで罪悪感を感じる必要はない≫≪陽子は青春崇拝の軽佻浮薄な流行の犠牲者なのだ≫≪若者の時代などという虚構で中年の価値はひきずりおろされている≫≪若者など虚構だ≫≪価値など虚構だ≫≪陽子は間違っていた≫≪青春を失わないなどという虚構にひっかかってしまった≫≪だから陽子を殺したのは≫≪俺の一言≫≪狂った現代社会だ≫≪俺が彼女を追い込んだ≫≪絶対にちがうのだ≫≪社会が≫≪彼女自身が≫≪俺が≫≪俺が≫≪なぜなら≫≪なぜなら≫≪なぜなら≫≪陽子、君に会いたいよ≫
七瀬は河原家を後にする。街には時代を超えてボブ・ディランの「いつまでも若く(スロー) - Forever Young」(1974年「プラネット・ウェイヴズ」収録)が流れている。
君がいつまでも若くいられますように
いつまでも若く いつまでも若く
君がいつまでも若くいられますように
関連するキッドのブログ→第3回のレビュー
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コメント
キッドさん!何度にもわたる更新お疲れ様でした
本で読んだ時 この作品はドラマ向きじゃない気がしました
現代はもっとアンチエイジングが盛んでいつまでも若くありたいということに対して罪悪感や悲壮感はあまりないんじゃないかという単純な理由からです
この話が1番見やすかったしテーマがわかりやすかった
少なくとも先週と違って目に優しいですしね(^^)
ハンバーガーとオムライスをチョイスした脚本家さんのおかげでしょうか
それにしても木南さんが心の声を担当していたなんて驚きました
このドラマを見ただけだと 相手に自分の思いをちゃんと伝えたら悲劇が避けられたようにも感じましたが キッドさんのレビューを読んでやはり徹頭徹尾若さがテーマなんだと感じました
この後に水蜜桃がきてほしかったですね
この回が先週よりもより好きな気がします
投稿: chiru | 2012年2月15日 (水) 21時50分
シンザンモノ↘シッソウニン↗・・・chiru様、いらっしゃいませ・・・大ファン
一気に書きあげる体力がなくなってしまって
誠に申し訳ないことです。
まあ、(仮記事)と書くのが趣味なものですから・・・。
二つの見方がありますねえ。
たとえば38歳は中年ではない・・・と思う人の
多さですよね。
この間も40歳初産の方の「事件」がございましたが・・・。
つまり、アンチエイジングという「青春賛歌」病は
より深刻な事態になっているということです。
この間には・・・「青春賛歌」病の低年齢化という
サイクルがございます。
まあ・・・中学生が
高校生を「おじんおばん」と考えるアレですな。
で、高齢化社会の恐怖といっても
高齢者が多数であれば
その「異常」はなしくずしになるのでございます。
キッドは「人生五十年」という言葉が好きなので
その後は選択制とか義務化にしてもらいたいですなあ。
役所に行って「50歳なんですけど」
と申告すると
「延長しますか・・・それとも?」
「チェック・アウトでお願いします」
「それじゃ、この書類持って保健所に行ってください。
安らかにお休みくださいね」
「お世話になりました」
こんな感じがいいかなあ・・・と。・・・おいっ。
ドラマとしてはハンバーガーとオムライスが
効いてましたな。
キッドは赤坂のとある仕事場でマックばかり食べていたことがあり
時々、思い出してオエッとなりますぞ。
機会があれば再視聴なされると
特に男性の声がああ・・・こりゃ木南って
わかるところが何か所かありますぞ。
ドラマとしては・・・
夫の「優しさ」とか「ものはいいよう」みたいな
ところで
すれちがいが回避できたのに・・・
という筋立てにも見えますが
やはり、妻はあきらかに「自殺」してますからね。
そう前向きにしなくてもよい・・・
とキッドは素直に解釈してみました。
まあ、基本的に悪魔でございますから
けして「生」を美化いたしません。
まあ、原作順とドラマ順もひとつのネタですしね。
録画してある以上、完結後に
原作順で視てみるのも一つの手でございますよ~。
キッドは原作の中ではこの回がベスト3に入りますな。
ドラマの方も上出来と考えます。
やはり、出演者が少なくて
枠の持ち時間にフィットしていましたよね。
投稿: キッド | 2012年2月15日 (水) 23時16分
とってもとっても痛い話ですね。
若さに固執している人ほど若さを否定されれば老け込みます。
・・・というか、女はみんなそうですよね。
しかし、ダンナさんは老けるとか老けないとか、そんな事には
あまり拘りません。
むしろ、中年には男の魅力が溢れている。と思っている。
実際そうなんですよね。
男性は俳優さんでも皆さん若い頃よりもある程度年行ってからの方が
ステキだったりします。眉間のしわも男らしさを感じさせます。
でも、女優さんは、若い頃よりも中年になってからの方が良い、なんて方は
なかなか見かけることがありません。
だから女は若さを求める。
アイドルが低年齢化している現代、ますます女性の若さへの追求心は加速する事でしょう。
あ~・・・私も七瀬と同じくらいに戻りたい…
と、今ならそう思いながらこの作品に触れることが出来るのです。
投稿: くう | 2012年2月18日 (土) 12時30分
❀❀❀☥❀❀❀~くう様、いらっしゃいませ~❀❀❀☥❀❀❀
若いって素晴らしいということは
若い間も予感できますが
若さを喪失して初めて実感できることですからな。
「小説」の楽しさは
自分の成長や老衰とも対話できることですな。
再読の楽しさがそこにあります。
すでに作者の執筆時の年齢をはるかに
上回る年頃になると
ああ・・・すごい想像力だなと思ったり
まだまだ若書きだったんだと思ったり
感慨深いものです。
認知症の母親を抱えるとわかりますが
美容院で髪をセットするだけで
キラキラと知性を取り戻したりしますからな
自分が「若い」とイメージすることは
女性にとって(おそらく男性にとってもある程度は)
生死に関わる問題なのでしょう。
美輪明宏様がステージのトークネタで
「おへちゃな女は幸せ・・・美人であれば美人であるほど
加齢に耐えられなくなりますから・・・」
とやると会場がどっとわきますからな。
本編の主人公は輝かしい青春でありすぎた・・・
だからその後の消灯時間が耐えられない・・・
それも知性というか・・・認識力の問題なのですな。
まあ、芸能界には「吉永小百合」を頂点とする
とんでもないアンチ・エイジング・モンスターが
ゴロゴロしていますからな。
恐ろしいことでございます。
まあ、技術的には金に糸目をつけなければ
ほとんど不老に近いレペルに達している噂もございます。
しかし、じいめにはそんなに長生きして
楽しいものだろうか・・・というアンニュイな
気分もございます。
宇宙的スケールで言うと
宇宙の大きさに比して
宇宙の寿命を考えると
人間の大きさより寿命の方がずっと長いのです。
長寿すれば百年というのは
実はかなり長い期間なのですな。
その期間をいつまでも若々しくすごせれば
それはとても幸福なことと言えるのではないでしょうか。
投稿: キッド | 2012年2月18日 (土) 16時32分