最後から二番目の東京大空襲
くりかえし言うことだが近代の国家総力戦において無差別爆撃の有罪無罪を問うことは無意味である。
もちろん、東京であろうと重慶であろうとドレスデンであろうとヴェトナムであろうとイラクであろうと・・・無差別爆撃にさらされた人々の怒りと悲しみは否定できない。
しかし、敵を撃破させ・・・沈黙させるための攻撃に軍需工場と小学校の区別を求めることは無意味なのである。
それが「戦争」というものだからだ。
で、『NHKスペシャル・東京大空襲583枚の未公開写真』(NHK総合20120318PM9~)を見た。大日本帝国の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の木村伊兵衛をチーフとする報道写真家たちが撮影したと思われる東京大空襲の記録写真583枚が何処からか流出した。戦後秘匿されてきたこの写真がなぜ、今、流出したのか・・・不明である。とにかく・・・それを入手したNHKはそれを元に3月10日の空襲だけが・・・東京大空襲ではないという歴史的事実を再確認していく。実際に東京という街は昭和19年(1944年)11月から昭和20年8月の終戦間際まで100回以上の空襲にさらされたのである。
東京の市民たちが消火のためのバケツリレーを訓練していた頃、米国本土では東京の街を再現した巨大なセットが組まれ、東京の一般的な家屋を家具を含め忠実に再現、いかなる爆撃によれば効率よく東京を焼却できるかの爆撃実験が繰り返されていたのである。
まさに質量ともに圧倒的な戦力差である。精神力だけでは戦争に勝てないという証拠がここにあります。
そして・・・焼夷弾を搭載した米軍爆撃機の一部は東京郊外の軍用機工場に向かう。
だが・・・それ以外の爆撃機は無差別爆撃を開始するのである。民家が駅が学校が商店街が・・・次々に焼却されていった。
番組では写真に写る人々の遺族や、生存者を追い・・・証言を点描していく。
昭和19年11月・・・荏原に投下された爆弾は29発。死者は78人。
当時12才だった少年は防空壕を直撃した爆弾により息絶えた妹を見る。
妹の手には白い布でつつまれたコッペパンが握られていた。
空襲警報が発令され下校した妹は給食に出されたコッペパンを大切に持っていた。
そして、それを口にすることもなく死んだのである。
毎月の命日に兄はコッペパンを妹の墓前に捧げる。そして68年の歳月が過ぎ去ったのである。
「パンも食べないで・・・それが可哀そうで・・・」
写真に残る少女の遺体に写る白い布・・・68年の間、兄の涙は流れ続ける。
12才の一人の少女が唇をかみしめて焼け跡におかれたみすぼらしい棺桶のそばに佇んでいる。その中には彼女の肉親がいた。
彼女は戦後・・・母親となって・・・すでに帰らぬ人となった。残された二人の娘もすでに老境に近づいている。娘たちに母はくりかえし・・・その日の出来事を語ったという。
「あ・・・お母さん・・・」
「母です・・・」
写真の少女に母親の面影を見た二人の娘は語られてきたその日の母の姿を見て涙ぐむ。
爆弾の破片で体に穴が開いた少女がいた。
今、背中には醜い傷痕が残っている。
「手当らしい手当もなく・・・ただじっと寝かされていました。殺してくれと何度も何度も叫びました。背中の傷は腐り・・・死んだらどれだけ楽だろうという痛みがあったのです」
その痛みは68年間・・・耐えることはない。
やがて、原宿駅が、有楽町が、浅草が・・・東京中が黒煙に包まれていく。
番組は例によって年老いた米国爆撃機の搭乗員を探し出す。
「軍事施設であろうとなかろうと・・・とにかく爆弾は落としていく・・・敵に打撃を与えることが私たちの任務だったから」
正論なのである。何人も彼を責めることはできない。
それが「全面戦争」というものなのである。
10万人以上の死者が出た大空襲の後。
死体安置所に向かう人々はそれぞれの顔を覗きこむ。
もしや・・・生きて会えるのでは・・・そういう淡い希望を持って。
爆撃後・・・行方不明の父親を15才の少女は49日間待った。
そして・・・重い足取りで焼け野原の死体安置所へと向かう。
目の前に横たわる1万3000人の死者。
見渡す限りの残虐。
願いも空しく少女は変わり果てた父親の骸を発見する。
「・・・お父ちゃん・・・死んじゃったんだねえ・・・」
68年の時を経て老婆となった少女はたちまちあの日の自分に戻る。
しゃがみこみそこにはない父親の遺体を撫でまわす。
「お父ちゃん・・・こんなに焼けて・・・熱かっただろうね・・・痛かっただろうね・・・苦しかっただろうね・・・お父ちゃん・・・お父ちゃん・・・お父ちゃん・・・」
2012年・・・東京。
私たちは・・・好むと好まざるとにかかわらず・・・かって無数の焼死体が山と積まれた街の上で暮らしている。だから、この街が呪われていないとはとても思えないのだった。
そこそこ素敵な鎌倉ではそこそこおしゃれな人々がそこそこ美味しいディナーを食べたりしているわけだがそういう幸福がいつまでも続くとは限らないのである。
少なくともキッドはそう考える。
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