時の過ぎゆくままに、たとえ時が流れたとしても(竹野内豊)
さて、天使テンメイ様の指摘している通りにこのドラマにはグリム童話の「いばらひめ」が登場する。
第一回でくも膜下出血によって卒倒する可南子(和久井映見)が子供たちに読み聞かせていたのが「いばらひめ」だったのである。
「いばらひめ」はペロー童話では「眠れる森の美女」である。グリム童話とペロー童話にはいくつか相違点があるが・・・基本的には「呪いによって昏睡した王女が王子によって目覚める」という話である。
呪いは糸車で糸を紡いでいるときに紡錘と呼ばれる一種の針で王女が刺されると発動するのである。
そして、王女はいばらの森に封鎖されて眠り続ける。
糸による連想から・・・呪いをかけたのがくも系の魔女だと考えることもできる。
すると・・・くもの巣とくも膜がシンクロしているわけである。
それはそれとして・・・現代の波留(竹野内豊)と可南子にかかった呪いとは何だったのだろうか。
少なくとも・・・その一つが「DINKS(ディンクス)」という潮流であることが今回、示されたと思う。
脚本的にはやや・・・若書きなので・・・唐突感があるが・・・話の流れ的には澱みなく・・・そういう狙いだったことが分かる。
もっとも単純に言えば「Double Income No Kids(共働き、子供なし)批判」なのである。
賛否はあるかもしれないが・・・現代においてもっとも語られるべき重要なテーマを甘いラブ・ストーリーに包んで出してきたのである。
その志は高いが・・・果たして、それが作品として結実するかどうか・・・興味深く見守っていきたいと考えます。
で、『もう一度君に、プロポーズ・第4回』(20120511PM10~)脚本・山上ちはる、演出・村上正典を見た。脚本家はチェンジしたが、話の方向性や、全体に流れる好ましいムードは維持されていて安堵したというところだろう。若手作家による脚本で一番、気になったのは「母性本能」というものの描き方である。幼子に対する人間の自然な慈しみの感情を肯定的に描くのは現代においてはかなり難しいのである。なにしろ、道で遊んでいる子供があまりにも可愛いので頭をなでたりすれば逮捕されてしまう可能性のある恐ろしい時代なのである。その点、些少ですがギクシャクしましたな。ま、特に問題ない程度でしたが。まあ、妄想補正はやむなしでしたがーーーっ。
さて・・・ここまで明らかになっていることで一番重要なことは・・・「波留が養子であった」ということであろう。
まだ・・・どういう事情で波留がそうなったのかは明らかとされていないが・・・記憶を失う前の可南子はその一点で・・・波留を気遣っていた。今回はそこから・・・可南子に生じたひとつのわだかまりが描かれるのである。
その他に生じるさざ波・・・ミズシマオートの整備士の桂(倉科カナ)の波留への仄かな片思いや、甘えん坊の弟・裕樹(山本裕典)の幻想的な姉・可南子への思慕などはある意味、装飾品に過ぎないのである。
もちろん・・・DINKS批判としてドラマをとらえれば、桂と裕樹の設定もかなり計算高いものであることが見えてくる。
今のところ、桂はストレートに結婚、出産、育児を願う女性の代表として描かれる。ただ、獲物としての相手が妻帯者・波留であるために・・・やや危険な香りがするだけである。
裕樹は性格や年齢から・・・まるで異質なキャラクターと感じられるかもしれないが・・・実はもう一人の波留なのである。
なぜなら、彼はDINKSの予備軍であり、さらに言えば、DINKSの進化系なのである。
今回、裕樹の母親・谷村万里子(真野響子)の秘密の行動が描かれる。
裕樹は家族の一員、しかも働き手として給料を母親に渡し、それを誇りに感じてる。
彼にとって家族とは「谷村家」に属するものだけである。言わば裕樹は最初から谷村家を一歩も出ていない引きこもりなのだ。だからこそ・・・波留に異常な敵対心を持っているし、恋人と言う名のアクセサリーである増山志乃(市川由衣)を同じ心を持った人間だとは思っていないのである。裕樹自身が自覚しているかどうかは別として・・・裕樹は一生を宮本家で過ごしても構わないという精神構造を持っている。
おそらく・・・裕樹は永遠に三人家族で時を過ごしたいと幻想的に願っているのである。
これに対して・・・母親の万里子は裕樹から渡された金を家計から除き全額貯金している。
つまり・・・家計とは無関係の子供の独立資金として貯蓄しているのである。万里子は核家族世代として子供の自立こそ・・・至上命題と考えていることがこれまでの言動から明らかである。
家族への依存を愛と考える息子と、家族からの脱却を愛と考える母親。
その不毛な関係。
この描写だけでもこのドラマにはなかなかの奥行きの深さを感じます。
一方で・・・波留もまた・・・自然な結婚生活を否定的にとらえる・・・歪んだ人格を内包していることが明らかになりつつあるだろう。
それは養子であった「おいたち」に起因するものであることは明らかで・・・可南子にとっての自然な結婚生活に対する障害であったのだ。
波留=裕樹であることがおわかりいただけるであろうか。
二人は・・・女たちが年相応に大人であるのに対して・・・まだまだ子供なのであった。
もちろん、ここで述べているDINKS(ディンクス)とは・・・あくまで、意図的にそうしている夫婦を指している。不妊などによる障害でそうならざるを得ない夫婦とは一線を引いていることをおことわりしておく。
若者がいなくなった社会というものは死の社会である。
なぜなら・・・若者にしかできないことというものがいくらでもあるからだ。
若者にしかできないことをするものが・・・いなくなった社会・・・その恐ろしさを人々はそろそろ感じ始めているわけである。
もちろん、個人の自由を尊重し、刹那的な自己満足にひたり、滅んでいく社会もそれはそれで素晴らしいとキッドは考えます。悪魔ですからな。
・・・自分が記憶を失ったことにより・・・自分以上に苦悩しているかもしれない夫がいる。
可南子の想像はその域に達したのだが・・・それでもまだ夫としての波留を受け入れることはできない。
波留もまた・・・いくら自分が苦しいとしても・・・実際に記憶を失ってしまった可南子の苦しさにはおよばないと想像している。
しかし・・・妻を抱きしめることもできないのはひどくせつないのである。
イバラの森にとらわれた夫婦だった。もっとも物語的にはイバラの森にとらわれているのは可南子で・・・波留は難攻不落の森から眠り姫を救い出そうとする王子様ということになる。
だが・・・前述の通りに・・・呪いをかけられている・・・眠り姫は実は波留なのかもしれないのである。
そのやるせない夫婦の元へ・・・突如として幼子を誘拐したゴブリンが・・・いや、ミズシマオートの古参従業員・蓮沼(渡辺哲)が幼い姪を連れてやってくる。蓮沼は姪を一晩預かることにしたのだが・・・持てあましてしまったのだった。
それどころではない・・・宮本夫妻だったが・・・いたいけない子供の魔力で・・・問題は棚上げされてしまうのである。
そして・・・波留は五年間の交際・同棲・結婚生活をしていたのに全く気がつかなかった可南子の意外な一面に気がつくのである。
可南子は子供が大好きだったのである。
どんだけ・・・観察力ないんだ・・・この男は・・・と場内騒然となるところだが・・・男性にはありがちな現象である。しかも子供と遊ぶのが大好きなんていうと、同性愛者とか、幼児性愛者などと後ろ指をさされかねない・・・恐ろしい時代なのである。
可南子は手早く、子供の大好物であるオムライスを作り、子供を折り紙で遊ばせ、絵本を読んで寝かしつけたのである。
子供がそんなに好きだったのか・・・。
子供とあんなに楽しそうに遊ぶのか・・・。
子供がいないのに・・・子供向けの絵本を持ってたのか・・・。
波留はふと・・・ある日の情景を思い出す。
そろそろ子供が欲しいと言う可南子。
まだまだ二人きりでいいじゃないかと言う波留。
可南子が記憶を失う前の何気ない二人の会話。
気にも留めていなかったそんな会話が重要な意味を持っていたかもしれない・・・波留の心に新たな不安な獣が頭をもたげるのである。
そして・・・そこには波留の知らない可南子が出現したのである。
あの日・・・可南子が映画を見ようと誘った日。
波留は他人の子供の玩具の修理に熱中していた。
そうだ・・・俺は妻の願いよりも自分のやりたいことを優先する男だったのだ。
そのために波留の中でやりきれない後悔の念が生じたのだった。
子供が夜中に目を覚ますと可哀相だからと泊っていくと申し出る可南子。
家に電話すると・・・弟の裕樹は自分の所有物の離反にいらだつのであった。
可南子に感謝しつつ・・・波留は新しく生まれた自分の心の変化に戸惑う。
「あの・・・映画の件だけど・・・無理に行く必要はないからね」
「どうしてですか・・・」
「その・・・無理強いすることじゃないし・・・捨ててくれてもいいし・・・一人で行ってもいいし」
「・・・」
「ひょっとしたら・・・偶然、俺が同じ日に行ったりするかもしれないしね・・・」
「運命的に・・・」
「そう・・・運命的に」
微笑み合う二人・・・しかし寝室は別々である。
可南子は自分が苦しめているかもしれない男のことを思う。
波留はただ耐えているだけで事態が変わるのかと初めて不安を感じるのだった。
翌朝・・・可南子を送りだした波留は蓮沼の姪を連れて職場に向かう。職場でも女たちはややデフォルメした形で幼子をもてはやす。一方でどこをどう勘違いしたのか・・・蓮沼は可南子が妊娠していると・・・職場にデマを飛ばすのだった。
「それでは・・・お祝いをしなくちゃ」と盛り上がるミズシマオートの愉快な仲間達。
しかし・・・事情を知っている桂はそれでは波留にとってあまりに残酷だと感じ・・・ついに宮本家の家庭の事情・・・妻が夫のことを忘却してしまった・・・を話すのである。
あまりの出来事に想像がおよばない・・・ブルーカラーな人々だった。
結局・・・波留を慰めるという趣旨変更をして・・・宮本家になだれ込むのだった。
さらに・・・意味不明の祝杯を重ねると時間帯も考えず・・・可南子の実家に電話をかける始末である。
突然、電話でミズシマオート社員一同に挨拶される可南子。
しかし・・・可南子にとって・・・波留と仲間たちの交流は不快なものではなかったのである。
波留がただ苦しいだけの日々を過ごしているわけではないと知ることは可南子の心を軽くしたのだ。
その様子に谷村家では裕樹が理屈抜きの嫉妬を爆発させる。
「あなたは・・・波留さんを嫌いなの?」
「あんな男・・・姉さんにはもっとふさわしい男がいたじゃないか・・・一哉さん(袴田吉彦)とか・・・」
「あなたは妙になついていたものね・・・でも終った話じゃない」
「・・・」裕樹にとっては「終ったこと」こそが肝心なのだった。終っていない波留は自分の家族=所有物を未だに盗み続けている呪うべき対象なのである。
その弟の歪んだ感情を・・・うかつにも可南子は見過ごすのである。
なぜなら・・・盲目的に姉を慕う弟は可愛い存在でもあるからだ。
疎ましくならない限りにおいてはである。
もちろん・・・弟は姉が自分を疎ましく思う可能性があることには全く思いが及ばないのだった。
とにかく・・・まだしばらくはこの火種はくすぶり続けるらしい。まあ。ほどほどにしてもらいたい。ひとつ間違えると・・・とんでもない方向にいきかねないからである。
いつでも傑作と駄作は紙一重なのである。
可南子の失われた五年間には弟の成長も入っている。
しかし、弟にとってはその五年間は可南子を失っていた五年間なので惜しくはないのだった。
幸運にもあるべきところ・・・谷村家に戻ってきた姉を裕樹はなんとしても拘束しておきたかった。
前向きに人生を考え始める姉に危惧を覚えるのである。
そのことで頭がいっぱいになった弟は仕事にも気が乗らず・・・まして、単なる性欲の捌け口である「恋人」になど構っていられない。
姉の帰還以前と帰還以後の裕樹の豹変に・・・志乃は戸惑うばかりであった。
「私にとってあなたは大切な人だけど・・・あなたにとって私は一体・・・」
裕樹にとっては単なる都合のいい女という「道具的存在」にそんなこと言われても意味不明である。
「そういうことを考える余裕はない」と正直に言う他はないのだった。
一方、水族館の飼育係ではなかった・・・図書館の館長・大橋館長(杉本哲太)は映画「麗しき夜」のチケットを前に考え込んでいる可南子を発見する。
「どうしました・・・?」
「この映画・・・特に観たいと思えないんですよね」
「そうなんですか・・・」
「でも佐伯さん(橋本真実)は私が・・・記憶を失う前に観たがっていたというし・・・橘くん(入江甚儀)は凄く面白くて結末を語りたがるし・・・」
「なるほど・・・謎に満ちているんですね」
「え・・・」
「こう考えたら・・・どうでしょう・・・映画を見に行くのは宝探しと一緒だって・・・ほら・・・今月の推薦図書・・・「宝島」です・・・」
「・・・冒険ですか」
「そうそう・・・宝物が見つかるかどうか・・・じゃなくて・・・宝を捜しに行くことが楽しい時もあるんじゃないかな」
「・・・」
その映画は可南子が波留と一緒に観ようとして結局、すっぽかされた映画だった。
(五年の間に私はこの映画を見たいと思うような女になっていたのだろうか・・・それとも)
可南子は答えを求めて映画を見てみる気になった。
その頃、桂は出会い系ゲームサイトでゲットした年下の男の子とデートらしきものをしていたが・・・なんとなく心ここにあらずなのである・・・失礼な話だが・・・意中の人がいる以上、仕方ないのだな。
意中の人は可南子との思い出がつまった赤い車のレストアに取り組んでいた。
オンボロ車のポンコツ度は深く・・・修理は思うようにならない。
そんな波留にミズシマオートの社長・水嶋(光石研)は声をかける。
「願掛けだったんだな・・・この車が治ったら・・・可南子さんも回復に向かうんじゃないかとか・・・」
「ま・・・そうです」
「頑張れよ・・・壊れたものを治すのが俺たちの仕事だ・・・」
「この間は・・・いつか壊れたものを俺たちは治してるんだな・・・とか言って黄昏てたじゃないですか・・・」
「・・・そうだっけ」
しかし、波留は精一杯の社長の慰めに感謝した。
帰宅した波留は一人、またもやコンビニ弁当である。
脳裏によぎるのは子供をあやしていた可南子の屈託のない笑顔だった。
変形する折り紙で子供を驚嘆させていた可南子・・・。
その可南子の姿に胸を突かれた波留。
こうなれば可南子の日記を盗み読みせずにはいられないのだった。
2009年 2月18日
ケンカしたので・・・ちょっとした叛乱。
思いっきり深夜に帰宅したのに・・・波留は何事もなかったように
コンビニ弁当を食べながら「お帰りなさい」なのだ。
まいってしまうのだ。
2009年 6月21日
梅雨なのだ
今日も雨なのだ
波留はすぶぬれでご帰宅なのだ
バイクが好きなのはわかるけど・・・
雨の日くらいはバスでいけばいいのにね・・・
心配しているこっちのことも少しは考えればいいのだ
2009年 8月16日
お盆の集まりなのだ
家の中は幼稚園状態・・・。
走り回る子供たち。
千津子おばさんは・・・私もそろそろ子作りすれば攻撃である。
遠慮がないからまいっちゃうのだ。
・・・波留の心に情景がよみがえる。
夏のある日・・・ベンチでバスを待つ二人。
「本当のところ・・・そこんとこ・・・どうなの」
「子供かあ・・・俺はもう少し・・・可南子と二人がいいかなあ・・・まだまだバイクで遠出とかしたいし・・・」
そして日記は続く。
・・・なんだかはぐらかされちゃった。
でも・・・波留の気持ちもなんとなくわかる・・・。
特別な過去を持つ波留にとって・・・人の親になるということは
きっと特別な意味があるのだろう・・・
もう少し待ってみることにしよう。
それしかないのだ。
・・・そして・・・可南子を待たせたまま三年の月日が流れていたのだった。
波留は自分のうかつさに気がついてしまったのだった。
可南子のことなんか・・・全部わかっているつもりだった自分。
可南子のわだかまりにちっとも気づかなかった自分。
思い悩みながらソファで眠りこむ波留である・・・風邪ひくぞ。
そんな波留を叩き起すのは・・・養父の宮本太助(小野寺昭)である。
「俺にお前の悩みを話してみないか」
「暇なんだな・・・」
「暇つぶしにはもってこいは広島カープののカープじやないか」
「・・・実は、俺・・・可南子のこと・・・何もわかってなかったんじゃないかって・・・反省してた」
「なんだ・・・そりゃ・・・よし、支度しろーーーっ」
二期連続、バッティングセンターにお出かけである。ただし、父はカープファン、息子は元・高校球児という設定なので違和感がありません。フリがあるってのは大切だよな。
父子でバッティングセンターは父子でキャッチボールの延長線上にあるのだ。
ここで殿下じゃなかった・・・波留の父は自慢の喉を披露するのだった。
「時の過ぎゆくままに/沢田研二」である。
時の過ぎゆくままに
この身をまかせ
堕ちてゆくのも
しあわせだよと
・・・である。
本当は
からだの傷なら なおせるけれど
心のいたでは いやせはしない
とか
あなたはすっかり つかれてしまい
生きてることさえ いやだと泣いた
などと・・・息子夫婦の状況には酷な側面のある歌です。
「うだうだ悩んでいても・・・過ぎ去った過去は変えられないぞ。今あるものでなんとかしろって・・・床屋の親父が言ってたぞ」
「・・・わかった・・・今を悩みに言ってくるよ・・・」
「そうか・・・」
その頃・・・可南子の実家では・・・まるで符牒を合わせたように谷村万里子(真野響子)が亡夫にりんごを供え「結婚生活」について語り始める。
「私にも・・・波留さんと結婚生活を続けていた理由があったのかな」
すかさず・・・割り込んで毒を吐く、裕樹である。
「ただの・・・惰性じゃないの?」
弟の単なる願望には付き合わず、万里子は娘に告げる。
「きっと、あったと思うよ・・・だってあなたたち夫婦はちゃんと夫婦していたもの・・・少なくとも私にはそう見えた」
「そうなのかな・・・」
「捜してみればいいじゃない・・・あなたが結婚生活を続けていた理由を・・・」
「でも・・・」
「今のあなたができる捜し方が・・・きっとあると思うわ」
「そうかな・・・」
こうして・・・二人はそれぞれの道をたどり・・・映画館に向かったのであった。
先に到着したのは可南子で・・・場内が暗くなってから波留が入ってくる。
二人はお互いの存在に気づかず・・・映画を見て・・・そして爆睡した。
なにしろ・・・いろいろあって疲れている二人なので・・・映画「麗しの夜」を責めるのは控えてください。
「その曲は弾くなといっただろう」
「私が頼んだのよ・・・二人の思い出の曲だから」
「本当は『たとえ時がすぎようとも』っていう意味だけど日本では『時の過ぎゆくままに』ってタイトルになるんでさ」
「酒場は星の数ほどあるのになぜこの店に来た」
「イングリッド・バーグマンが相手ならさぞかし麗しき夜だったでしょうな」
「私たち最初の方はどうだったの」
「そんな昔のことは忘れたね」
「私たち二人の結末はどうなるのかしら」
「そんな未来のことはわからないよ」
「1942年にはアメリカ軍は日本軍には押されてましたが、ドイツ軍にはそろそろ勝ちそうでしたよ」
「君の瞳に乾杯」
・・・いつの間にか眠りこんだ可南子が往年の名画「カサブランカ」のような悪夢から目覚めるとすでに場内は明るくなっていた。
ふりかえると・・・そこには爆睡している波留がいたのである。
目覚めた波留は可南子を発見して・・・驚いた。
二人は・・・そこはかとなく・・・運命という魔法を感じたのである。
映画を見て・・・コーヒーを飲みながら感想を語り合ったり・・・デートする。
高校生のような二人だった。
「寝ちゃった・・・」
「・・・俺も」
「チケットもらっておいて・・・なんですけど・・・ちっとも興味がわかなくて・・・」
「退屈だったよね」
「どうして・・・こんな映画を私は見たがったのかしら・・・謎でした」
「そうなんだ」
「でも・・・少し分かった気がします・・・きっとただ二人で映画を見たかったので・・・映画は何でもよかったんだと思います・・・」
「・・・」
「なんだか・・・そう思えただけで・・・少し前に進んだみたいな気がする・・・おかしいですよね」
「そんなことはない・・・きっと前へ進んだんだよ・・・俺も・・・前に進んだから」
「・・・」
微笑む二人だった。
「じゃあ・・・ここで・・・」
波留は可南子の後ろ姿をしばらく見送った。
そして・・・家路に着く。
しばらく・・・歩いた可南子は振り返った。
そして・・・波留の後ろ姿に微笑む。
どこからか・・・歌が聞こえてくる。
愛してる
そんなこと
いまさら
きけないけど
やがて・・・その歌は翌朝の「梅ちゃん先生」の劇中歌にシンクロしていくのである。
偶然というものは恐ろしいものだ。
だが、別のドラマで完成してしまうというのは・・・今回の脚本はやや甘くて深みが足りなかった証拠にもなってしまうのですな。
とにかく・・・不足していたのは・・・それは「As Time Goes By」(1931年)というスタンダード・ナンバーだった。
これだけは忘れてはいけないのだ
キスはキス
ため息はため息
たとえ時が流れたとしても
変わらないものがあるのだ
男には女
女には男
たとえ時が流れたとしても
ささやく言葉は
愛してるなのだ
関連するキッドのブログ→第3話のレビュー
今回の脚本家には微妙な味わいがないとお嘆きの天使テンメイ様のちょっと辛口レビュー
ごっこガーデン。夏のベンチセット。まこ「はうぅん・・・おでことおでこがごっつんこなのデス~。この後は月の光の下で甘いラブソングを聴きながら・・・ドラマにはないチュ~をするのでしゅ~。愛は昔からなにひとつかわりゃしないのだ~・・・キスしてボギャ~ンなのだ~ってことなのダー。♪こわれたピアノで思い出の歌、片手でひいてはため息つくので、ピアノぼぎゃ~んしてくだしゃい。まこはその間にラブなオムライスで休憩シテマスから~」mari「きゃあ~、間に合わず、まだ三話、じいやは予告篇部分カットしてるのね~、まあ蛇足ですものね~、あらあら4話できました~」みのむし「ありゃりゃ~、私もまだ三話・・・弟出して、元カレ出して、ドロッとしないと気が済まない人もいるからね~、我慢がたりないよね~」
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コメント
こんばんわ~キッド様。
改めて音楽の趣味の広さ?に驚きながらレビュウを楽しませて頂きました。
脚本家が違い多少テイストに変化はあったものの、ドラマも楽しめました!まあファンなので、目と心に愛情のフィルターがかかってしまい、ストライクゾーンはなり広めでございます。
でも批評家ではありませんので、客観性は重要ではなく、いかに心が癒され、ファン魂がゆさぶられるかです。
しかし!!今回はキッド様のレビュウの方が面白かったのでした、ちゃんちゃん(≧m≦)
投稿: はなとめ | 2012年5月13日 (日) 19時39分
3話4話をまとめて見ました
3話はすごく雰囲気がいいんだけど 自分がのめり込んで見ていいのかちょっと不安な気持ちもあって…このドラマに関しては話数は少なめでいいからひとつのお伽話として綺麗に完結して貰いたいです
時が経っても繰り返し見たくなるような作品になったらいいなと思います
最初はヒロインが地味に見えてしまいましたが二人の演技がすごくよくって映像がロマンチックなんでぐっと来ます
バス停でベンチに座っている二人に見惚れました
4話の子供登場はかなり強引だったけれどメインキャストが魅力的なので最後まで楽しく見れる気がします
元恋人の登場は幸せに夫婦生活を送っている人たちにとっても、甘い想いに一時は包まれ感傷的になったり感情移入しやすいし私は歓迎です。
今後も二人の感情の変化を丁寧に描いて貰って弟の感情や行動は控え目で物語を壊さないようにお願いしたいです
投稿: chiru | 2012年5月13日 (日) 22時43分
山ちゃんも竹ちゃんも~はなとめ様、いらっしゃい~まじめでシャイ
いえいえ、単にじじいなだけでございますよ。
ドラマに登場するのは
「時の過ぎゆくままに/沢田研二」(1975年)
でございますが・・・これはジュリーの14枚目の
シングルで最大のヒット曲。
で、ジュリーの26枚目のシングルが
「カサブランカ・ダンディ/沢田研二」です。
カサブンカは映画「カサブランカ」(1942年)からの引用で
歌詞に出てくるボギーとは「カサブランカ」の主演男優
ハンフリー・ボガードの愛称なのです。
で、「カサブランカ」の劇中で
なつメロとして歌われるのが「アズ・タイム・ゴーズ・バイ(時の過ぎゆくままに)/ドーリー・ウィルソン」
なのですな。
邦題は「時の過ぎゆくままに」ですが
直訳すれば「時がながれても」なのですな。
このドラマの二人には・・・
直訳の方がふさわしいし・・・
歌の内容もしっくりくるよな・・・
などと妄想していると
翌朝の朝ドラで「As Time Goes By」がダンスパーティーのシーンで歌われてニヤリとしましたよ。
妄想世界ではよくある偶然でございます。
レビューにも書いたとおりに
1~3話とくらべると
ちょっとひっかかるところがあった4話ですが
キッドも充分に楽しみましたぞ。
映画の内容には全くふれず
徐々に眠りにつく二人なんて・・・
ロマンチックでしたなあ。
オンエアをただ楽しむ自分と
ひたすら傑作になるように祈る自分がいて
いつもクラクラしてしまう
「もう一度君に、プロポーズ」なのでございます。
面白がっていただき大変恐縮です。(=´Д`=)ゞ
投稿: キッド | 2012年5月13日 (日) 23時28分
シンザンモノ↘シッソウニン↗・・・chiru様、いらっしゃいませ・・・大ファン
ふふふ・・・3~4話は結構一対ですよねえ。
特に「波留は実は養子だった」(3話)
そして「可南子は子作りしたかった」(4話)
この二つが二人の心ですれ違って行く・・・。
そして波留は思いもしなかった可南子のわだかまりに
気がつく。
この微妙な話の核心はわずか一行・・・。
「波留にとっては親になるのは特別なこと」
これを聴き逃すと
話全体が見えてこない・・・という
結構、大胆な展開でございます。
だから・・・じっくりうっとりと
見せてもらいたいなあ・・・とキッドはしみじみ思いましたな。
そういう点ではちょっと・・・4話は
ギリギリOKでしたからな・・・。
ものすごくドキドキしましたぞ。
この二人の痛々しいほどに
スローなブギだけに
なるべく・・・余計なことはしてもらいたくない・・・
そういう心境なのでございまする。
まあ・・・予告部分はつねに
引いて・・・翌週、なんだ~ホッとしたは
番組作りの古典中の古典なので責めませんけどね~。
可南子役の和久井映見は
素晴らしい演技ですなあ。
記憶喪失についてよくわからない人たちから
なんでそんなにつめたいの~の
非難轟々をやがて・・・沈黙させるほどの
心の開き方の段階化・・・素晴らしい演技プランです。
今日は・・・最後にそっとふりかえっちゃうわけですからね。
ああーーーっ。
可南子がふりかえったーっ。
クララが立ったーっ。的感動でございました。
このドラマが傑作になるためには
異常な人は必要ないのですよね。
弟はなにしろ・・・失われた五年間で
自分も失われていることに気がついていない段階。
それで平気なのは・・・
実は五年間でちっとも成長していない証なのですな。
ここから・・・弟が何かに気が付いていくことも
重要な要素になるだろうと・・・キッドは予測しております。
それはおそらく・・・波留自身の成長と関連してくるでしょうからね。
とにかく・・・来週はいつもふられる袴田くんのふられっぷりを
楽しむ回になるかもですがーーーっ。
投稿: キッド | 2012年5月13日 (日) 23時49分
遅まきながら、こんばんは
「DINKS」っていう、ちょっと古めの言葉。
少なくとも現在、僕は多少「いばら=トゲ」を感じますが、
素敵な生活を表してると思う人も結構いるようですね。
最近、単なる褒め言葉として使ってるのをたまたま耳にして、
やはり日本は緩慢な死に向かってるなと苦笑しました♪
ま、「No KidS」でも「Double Income」
なら困らない世の中というのも、想像は出来ますけどね。
本来なら子供がやってたことをロボットその他に任せ、
種族保存は大規模なコントロールの下でクローンに任せるとか。
ちなみに英語だと「childfree」なんていう
トゲのある言葉も使われてるとの事。。(^^ゞ
波留が今までどうして子供を持とうとしなかったか。
当然、養子問題とつなげるのが筋だし、そうなると
これまで表面的にキレイに描かれて来た波留や義父の
「いばら性」や「眠り姫性」が露わになって来るはず。
逆に、可南子の「王子様性」が前面に出て来るとか。
それでこそ、古き『いばら姫』の現代版アレンジでしょう。
それはいいんですが、今回の驚くべき脚本を見ると、
どうも作品や幹部スタッフへの思いが揺らぎます。
まあ、まだ震度5弱だから、荷物が崩れる程度だけど、
次にまたこの脚本家が登場すると、震度7になるかも。
免震構造なら無関係でしょうがね♪
話変わって、『カサブランカ』と『As Time Goes By』。
『時の過ぎゆくままに』からの連想として面白いですね。
『カサブランカ』は心に残る名画の1つです。
政治・国際問題とかは、別として。
原曲の歌詞を英語で読めば、「As」を「ままに」とは
訳せませんが、「過ぎても」という「譲歩」の意味に
訳すのも(ウィキペディアとか)、文法的にはビミョーな所。
「as」の意味として、順位は最下位に近いし、
譲歩を表す時は普通、倒置を使いますしね。
確かに商業的には、「過ぎゆくままに」と訳すのが正解。
ただ、意味と文法だけ考えれば、日本語で一番近いのは
「時が過ぎゆく中で」だと思います。
時が過ぎゆく中で、愛というものは変わらない。
つまり、時が変化する中で、愛は変化しない。
元の歌詞でハッキリ譲歩を示す箇所では、
「no matter what」を使ってますしね。
一番わかりやすい箇所は、
「No matter what the future brings
As time goes by」。
時が過ぎゆく中で、未来がどうなろうとも、という意味です。
「no matter」が譲歩、「as」が時間的な連動性。
とはいえ、このドラマの全体を見れば、
時が流れたとしても、という事でしょうね。
5年以上の月日が経っても、ささやく言葉はやはり、
「結婚してください」というプロポーズなわけです。
それにしても、『カサブランカ』のバーグマンにせよ、
『ローマの休日』のヘプバーンにせよ、
昔の大スターは本当に輝いてますね
まさに、時が流れても、美しさは変わらない。
一方、2週間が流れても、桐野脚本の魅力は変わらないのか。
ちょっと心配しながら、今日はこの辺で。。
投稿: テンメイ | 2012年5月16日 (水) 21時29分
○-○)))テンメイ様、いらっしゃいませ。○-○)))
ふふふ・・・「DINKS」の浸透と拡散には
充分な時間があったというか・・
まあ、死語という死語がふさわしい言葉なのかもしれませんな。
ただし、悪魔にはこの言葉が一種の呪いのように
現代日本を覆っているように思えてならないのですが
それを実例として
表現してきたドラマである以上・・・
この言葉を使わずにはいられなかった
無粋な悪魔をお目こぼしくださりませ。
まあ、「自我」という怪物をどうとりあつかうか
人間にとっては常に「課題」であると申せましょうな。
人間の達成目標である
「自由」と「平等」がともに「死」に向かっていることは明確でございましょう。
そうなるともはや「博愛」と言う名の乱れた行いが
唯一の「希望」になるわけですが・・・。
男女雇用機会均等法という「法」や
グローバル経済という「戦争」が
ごった煮となって「出生率の低下」を招いていく。
「アンチ・エイジング」などという「黒魔法」が
大手をふって闊歩するわけでございます。
まあ、医療という白魔法が
「肌細胞培養」と同じように
「卵子」の冷凍保存を実現していくと
もはや・・・それが白い魔法なのか黒い魔法なのか
悪魔にも判別不能になってまいります。
「適齢期に生殖しないことの合理化」は
たとえば「同性愛の肯定」や
「男性による女性支配の否定」にも
リンクしてきてますます正邪の境界を曖昧にいたしますしねえ。
「波留が子供を欲しがらない」心理はかくも
様々な主題を内包しているわけで・・・
どこに着地点を見出すのか・・・
その一点だけでも興味深いと申せましょう。
その中で唐突に歌われる「時の過ぎゆくままに」は
はテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」という
キッドにとっては見逃せないタイトルの主題歌でございます。
ついでに言及するとこのドラマは脚本・長谷川和彦。
後に沢田研二主演で映画「太陽を盗んだ男」を脚本・監督いたします。
「三億円」を盗んだり「原爆」を盗んだりするヒーローによるテロリズム肯定。
これは・・・ある意味、現代では完全なる抑圧によって封殺された主題と言えますからな。
そうした幻想を封じる中で
着実に浸透・拡散していったのが「DINKS」だったのではないか・・・
悪魔は妄想するのです。
そこには「難民キャンプ」で生まれる子供をどう考えるか・・・という思索も含まれています。
で「As Time Goes By」の解釈の問題になってきます。
これには時間という概念の認識がかかわってまいりますな。
まず、時間をひとつの変化と考えた場合、
「変わっていくが変わらない」という
詩的な心情が本来の歌にはこめられているのでしょう。
つまり、永遠不変のものがあるという賛歌ですな。
ところが日本人はある意味「カサブランカ」における
登場しない敵役ですし、
本来・・・そういう絶対的なものにはくたびれたところなので
もう少し・・・自堕落なブルースが求められていたことが感じられます。
つまり「変わっていっても変わらない」と「変わっていくなんて変わらない」がほとんど同じ感じになるのですな。
だから・・・言うならば「時代を越えて」が「時の過ぎいくままに」でいいじゃないということなのでしょう。
そういう中で・・・天使テンメイ様の
「時のすぎゆく中で」は
まさに的確ということですな。
もう一つは「現在・過去・未来」の問題ですな。
恋が現在進行形なら
まさに「時のすぎゆく中で」
そして恋の過去をふりかえれば「時が過ぎても」
「時のすぎゆくままに」は
まだ見ぬ未来も含めて現在や過去を飲みこむ
漠然性を示していると考えることもできます。
そのあたりがきっと「名訳」の所以なのでしょう。
そしてその訳を受けて
「As Time Goes By」とはことなる印象の
「時のすぎゆくままに/沢田研二」が生まれてくるところがまことに面白いのでございます。
さて、「豊かな人生」を求めるあまりに
「子作り」をしないというチョイスもあり・・・
そういう「気持ち」に支配された時代です。
その気持ちで「難民キャンプの子供」を痛ましく思い
「貧乏人の子沢山」を嘲笑する人々が生きている。
ここが一同爆笑のポイントなのですな。
このドラマの根底にはそういうアイロニーが潜んでいると悪魔は今回感じました。
さて・・・今回はその「とげ」を包み込んだ
甘いチョコレートの部分がかなり
失敗している・・・ある意味手作りチョコレートの問題がありましたが・・・
これはやはり認識の不足が大きいのでしょうねえ。
「時代によってかわらない恋愛のしくみ」ではなくて
「永遠不変の愛」の話ですからな。
病める時も健やかなる時も変わらぬ愛を誓った二人が
「たとえ記憶を失ったとしても」変わらずに愛し合うことができるかどうかという話でございます。
で、ここで愛に苦しむのは
突然、片思いになってしまった記憶を失わなかった男のように見えるところがミソなのですな。
しかし・・・記憶を失った女の方は
「愛さなければいけない状況」と「愛したい気持ち」の間で揺れ動くわけです。
「愛の奇跡」を導入するかどうか・・・という問題もございますね。
つまり・・・「記憶をとりもどす」フィナーレ。
これは「つばめの巣」で一種のフラッシュバックがありましたから方向性の一つではございます。
しかし、キッドは
「たとえ記憶喪失でも変わらぬ愛」の方が
ロマンチックだろうとも思うのですな。
タイトルから言っても
記憶はもどらなかったけどもう一度愛は生まれた・・・
というフィナーレの方がいい甘さになるかと・・・。
カサブランカは戦中なのに希望を含んだストーリー。
ローマの休日は恋としては絶望ですがそれが恋なのだというストーリー。
どちらの美しい恋人たちも・・・永遠なのですな。
「もう一度君に、プロポーズ」の二人も
この永遠に届く可能性があるという話でございます。
今回は予選通過が難しくなった状況ですが
まだ勝ち点次第では・・・という希望が残ります。
すべては・・・来週、まあもう今週ですが
地獄の底で楽しみにしておりますぞ~
投稿: キッド | 2012年5月17日 (木) 02時41分