愛は世界に満ちるとも愛の形は闇夜の夢におぼろに見えて消えたまう(松山ケンイチ)
位人臣を極めた平清盛である。
しかし、この国では帝こそが至上の位である。
後は帝位の剥奪しかないのだ。
だが・・・それはこの国ではあってはならないことである。
どのくらいあってはならないかといえば・・・今、これを記していてもプレッシャーを感じるほどだ。
清盛の革命もついに・・・成就手前で失速したのである。
それを阻んだものが・・・遊びにうつつをぬかした・・・史上最悪に近い評判の後白河院というのが・・・なんとも面白いところだ。
平清盛と後白河院は確かに舞い踊り・・・そして思いもかけない時代の幕を開くのである。
平家の勃興がなければ源氏の鎌倉幕府もなく・・・ひょっとしたらモンゴル帝国に支配を許したかもしれない。
歴史にもしも・・・を問うても詮無いわけだが・・・日本という国家が今もなお、存在していることを考えれば・・・平清盛はもっともっと評価しなければならない人物だと言えるだろう。
で、『平清盛・第32回』(NHK総合20120819PM8~)脚本・藤本有紀、演出・渡辺一貴を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。今回は桓武平氏平直方流を称する伊豆の豪族の長にして北条政子の父、北条時政の描き下ろしイラスト大公開でございます。ある時は温泉街のスナイパー、ある時はライオン丸のライバル、そしてある時はZEROの理事官・・・田舎侍の親父感抜群でございますな~。
永万二年八月、六条天皇の即位により仁安元年(1166年)十一月、平清盛は正二位内大臣となる。皇太子となった憲仁親王の春宮大夫(皇太子補佐官長)となったことによる出世である。朝廷には六条帝があったが、御年三歳である。王家の発言権が後白河上皇にあったことは間違いない。この年の夏に摂政であり、清盛の娘婿である近衞基実が死去したことにより、一瞬の動揺があったが、摂関家の継承は基実の弟・松殿基房に部分的に譲渡されるが、摂関家の財に関しては後家の平盛子が後継者の基通の成人まで預かる形となった。平清盛の正室・平時子の妹である平滋子と後白河天皇の間に生まれた憲仁親王(後の高倉天皇)の後ろ盾を形成するための動きであり・・・後白河天皇と平清盛には阿吽の呼吸が形成されていたのである。翌、仁安二年二月平清盛は従一位太政大臣となる。ついに臣としての最高位についた清盛は引退する。後継者として嫡男・従二位平大納言重盛がその重職を担うことになる。重盛の妻は後白河上皇の側近・藤原成親の妹であり、立太子後の憲仁親王の乳母となる藤原経子である。平家がこのように頂点を極めていた頃、伊豆の流人・源頼朝は伊東祐親の三女・八重姫との間に長男・千鶴丸を儲けるが清盛の意向を恐れた伊東祐親によって我が子を惨殺されたのである。この時、頼朝は二十一歳だった。
西行は東海道の旅の途中で・・・この話を聞いた。すでに西行自身は天皇の忍びとしての役割は終えたと考えている。西行は平のくのいち波音との間に一男一女を儲けていた。波音が伊賀の地で忍びとして育てた二人は・・・藤原景秀、藤原波子と名乗り・・・景秀は清盛に波子は後白河院に仕えている。
清盛とともに妖狐との戦いに半生を費やし、源平による都での戦も昔のことになった。
佐藤一族は皆、天皇の忍びであったが・・・西行の影武者を始め、多くの忍びのものが妖狐との戦いで絶命している。西行の旅はそれらのものの菩提を弔う巡礼の旅であった。
それでも天皇の忍びとしての掟の縛りはある。
たとえば・・・西行の弟の一人は影目付として源氏の棟梁の血を継ぐ源頼朝の郎党となっていた。
頼朝の長子受難の知らせは忍び仲間によって・・・もたらされたのである。
伝えたのは旅芸人に身をやつした傀儡子の陣内という忍びである。
傀儡子は人形遣いである。操り人形によって芝居を見せ・・・糊口をしのいでる。
すでに源氏の御曹司の悲劇は芝居になっていた。
陣内の一座は村祭りに見世物興行を催していた。
老武者の人形が赤子を奪い、若武者の人形に赤い口をさらす。
「情けないとは思えども・・・一族郎党のことあらば・・・我が孫といえども生かしておけぬ・・・」
若武者の人形は老武者の人形の足元にとりすがる。
「お許しあれ・・・なにとぞお許しあれ」
「やれ、情けなや、やれ口惜しや・・・許しを乞うなら・・・その身を慎むがよかろうほどに」
「ご慈悲を・・・たまわれ」
「是非もなし」
老武者の人形は赤子の人形を打ち捨てる。
「無残な・・・」
西行は都落ちした源氏の御曹司の面影を胸に宿し涙した。
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