こんな女に誰がした(有村架純)哀しい時は泣いたらええんや(多部未華子)
表現には様々な手法や意図がある。
たとえば・・・認識を共有するための手法というものがある。
その意図はもちろん、主として認識を共有すること・・・なのだが、時には偏見を共有したり、誤解を共有したりしてしまうので注意が必要である。
たとえば・・・歴史認識を巡る表現ではいたるところに落し穴があると考えた方がいいだろう。
「戦争」を表現するにあたり・・・送り手と受け手が認識を共有するための手法の一つが「追体験」である。
通常はひとつの出来事を表現するために・・・そこに至る出来事を挿入していくことで「表現者」も「観客」も「感情」を共有していくことになる。
その中で・・・SFの文法には現代人の過去への挿入という特殊な手段がある。
これが「タイムトラベラー」もののパワーを形成するのだ。
「ぼくの夏休み」は辻褄とか、歴史考証とか、完成度とかはさておき・・・昭和20年代の「星の流れに」的パンパン(占領軍相手の娼婦)の「痛み」を追体験させることにはものすごく成功したと考える。
平成時代から昭和19年に時間移動した小学生・はる菜(二宮星→有村架純)が戦中・戦後を苦難の果てに生き延びるが結局、その処女を売春相手の米兵に捧げることになるのである。
「飢えて今頃妹はどこに 一目逢いたいお母さん 唇紅(ルージュ)哀しや唇かめば 闇の夜風も泣いて吹く
・・・こんな女に誰がした」
「ぼくの夏休み」という甘いタイトルに含まれた「どす黒い毒」に夏休み中の少年少女は深い心の傷を負ったのではないだろうか。
それはとてもとても素晴らしいことなのだ。
戦争そして敗北・・・やがて残酷。
この方程式を認識することはとてもとても大切なことなのだから。
つまり、戦争はなるべくしない方がいいし、やるからには絶対に負けてはいけないということである。
で、『浪花少年探偵団・第7回』(TBSテレビ20120813PM8~)原作・東野圭吾、脚本・吉田紀子、演出・東田陽介を見た。しのぶセンセ(多部未華子)の教え子から上原美奈子(二宮星)のピックアップ回である。恐ろしい連動性だな・・・美奈子はもうすぐ昭和19年に時間跳躍して米兵相手に落花狼藉の宿命かと思うとそれだけで胸苦しい気分になるわけである。・・・いや・・・ほとんどのお茶の間は違うと思うぞ。
二つの事件が連動していくのも表現の方法の一つである。無関係に見える二つの事件が関係性を見出され一つの事件に統合されることで受け手は何かを面白く知った気がするわけだ。
つまり、原理としてはたけとんぼとヘリコプターでたけコプターと同じである。
第一の事件は教え子の田中鉄平(濱田龍臣)とお見合い相手の本間義彦(山本耕史)が新作ゲームソフトを浮浪児のような少年(小山颯・・・「平清盛」で崇徳院の少年時代を演じてからここ)にかっぱらわれる始末である。泥棒少年は俊足で田中も本間も取り逃がしてしまう。
母親(松坂慶子)に大切なトロフィーを壊されて母子喧嘩中のしのぶセンセはストレス解消のために犯人逮捕に名乗りを上げる。
しかし、泥棒少年はしのぶセンセを凌ぐのである。
その途中でしのぶセンセは第二の事件に遭遇する。
美奈子に「おっちゃん」と呼ばれる義父が経営する長屋で殺人事件が発生。被害者は家賃の滞納者で・・・事件当日、家賃の催促に行った美奈子の義父は容疑者になってしまう。
義父には複雑な思いを抱く美奈子だが「血を見たら気絶してしまうような気の弱いおっちゃんなんや・・・とても人が殺せるとは思えへん」としのぶセンセに訴える。
やがて・・・泥棒少年はゲームソフトを中古屋に売りに来ることが判明する。例によって原作時代と現代とのギャップを強く感じるポイントである。現在では規制が強化され身分証明書を提示しなければ故買商に中古ソフトを売却できなくなっているのだな。
まあ・・・特殊世界・浪花ではそのあたりはまだルーズなのかもしれませんがね・・・。
やがて・・・泥棒少年が被害者の息子であることが判明し・・・しのぶセンセの頭に血が昇る時がやってくる。
被害者(高橋努)は自殺であり、血を見て気絶した美奈子の義父(田口浩正)に凶器を握らせたのは・・・被害者の元の妻だったのである。
息子を捨て、教え子の親に無実の罪を着せようとした「自分勝手な女」にしのぶセンセは説教を開始するのだった。
「あんた・・・それでも人の親か・・・」
まあ・・・どんな時代だろうと・・・悲惨な目に会う子供は存在するのですな。
見捨てられた子供は荒んでも仕方ないのでございます。
泣けて涙も涸れ果てるわけですから。
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