思い出を焼き尽くして進む源氏に懐かしく芽吹いていくもの(松山ケンイチ)
平清盛の人生の最後は大混乱の序章である。
長く続いた平安京の緩やかな全国支配が終焉し、地方勢力の蜂起による群雄割拠の時代が勃発したのである。
これを治めるためには強大な軍事力を維持する必要があった。
そのチャンスは源氏よりも平家の方にあったことは言うまでもない。
しかし、公家化した平家は清盛の死後、常に守勢に回る。
強大な軍事力を持ちながら常に攻めないのである。
戦争の基本は二つである。
一つは戦力の大きなものが勝つこと。
一つは先手必勝である。
平家は常に後手に回る。これは基本的に戦を忌み嫌うからである。
そして、源氏には軍神とも言うべき天才戦術家の源義経。
さらに、常に戦力比を優位にすることを優先する戦略の達人・源頼朝。
二人の異母兄弟がそろい踏みするのである。
平家は戦えば必ず負けることを繰り返し、後退に後退を重ね、ついには壇ノ浦に追い詰められていく。
で、『平清盛・第47回』(NHK総合20121202PM8~)脚本・藤本有紀、演出・中島由貴を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。今回は源氏の棟梁・源義朝の後継者・源頼朝の武者姿描き下ろしイラスト大公開。凛々しい、そして若々しい源氏の絵姿・・・惚れ惚れでございます。清盛ファン絶叫、源氏贔屓のお茶の間大喝采の源氏のターン始りましたな。もはや・・・これまででございますなあ。
治承四年(1180年)六月、福原遷都が実行され、日本史上もっとも短命と言える首都が誕生する。清盛の構想では福原・大輪田泊・経ヶ島をつなぐ一大都市が建設される予定だった。しかし、完成までに数年はかかる計画に対して清盛の余命はあまりにも短かったのである。やがて以仁王の反乱に乗じた武装蜂起が全国におよび、鎮圧に失敗した安徳天皇を頂く平家王朝は平安京に還幸せざるをえなくなるのだった。八月、源義朝の遺児・源頼朝は配流地の伊豆で挙兵し、平家方の桓武平氏庶流で伊豆国目代の山木兼隆を討つ。頼朝軍は相模国で平家方の大庭景親・伊東祐親の連合軍に急襲され、石橋山の戦いで敗北、大庭氏の一族・梶原景時の裏切りによって九死に一生を得ると安房国に逃れる。ここで平時忠の継室・藤原領子の策謀によって京を追われた時忠の次男・平時家を娘婿に迎えた上総広常は頼朝軍に合流。下総の千葉常胤も頼朝に従い軍勢は二万騎に膨れ上がった。十月には武蔵国に入り、平家方に属していた畠山重忠などが寝返って続々と参陣。頼朝は父・義朝の所縁の地・鎌倉に本営を構える。この頃、信濃国では頼朝の従兄弟・木曽義仲が挙兵し、甲斐国では甲斐源氏の武田信義が呼応する。一方、清盛は総大将を重盛の嫡男・平維盛とする頼朝追討軍を九月には派遣することに決していた。しかし、各地で徴兵しつつ東進する平家方の進軍速度は遅く、駿河国に到達したのは十月中旬となっていた。関東における平家方の大庭氏、伊東氏は頼朝軍によって各個撃破され、富士川西岸に布陣した維盛軍は孤軍となっていた。これに対し頼朝軍には甲斐源氏軍も合流し、十万騎に膨れ上がる。追討軍であるにも関わらず平家軍は進軍を中止し、頼朝軍が姿を見せると戦わず撤退したのである。源氏は平氏の総崩れ状態の退却を「水鳥の羽音に驚いて逃げ出した」と嘲笑する。この一戦で平家の武家としての高名は地に落ちた。戦勝に湧く頼朝軍に奥州から馳せ参じた源義経が劇的に合流するのだった。結果として清盛は人生の最後を畿内防衛戦に追われることとなる。
各地に散った平の忍びは情勢を福原に伝える。しかし、その情報は途絶えがちだった。
忍びたちは土着化し、ついには各地の豪族に仕えるようになっていったのである。
継母に陥れられ都落ちした平時家も平の忍びを伴っていた。京のくのいちの頭である朱雀は異母姉であるが・・・時家の都落ちには同情的だった。そのために配下のくのいちの一人・風馬を時家に従わせていた。時家はこれを愛人としたが、風馬の画策で房総半島の実力者の一人、上総家の婿に収まることができた。上総家にとって従四位下右少将の時家は充分すぎるほどの貴人だった。義父となった上総広常は上総権介で従六位下相当だったのである。
風馬を頭とする時家の忍び郎党は時家が上総家で珍重されるために手段を選ばなかった。
頼朝は時家の存在を知ると・・・ただちに鎌倉に召しだした。
都を離れて長い頼朝にとって前年に都落ちしたばかりの時家は貴重な情報源だった。
富士川の戦いの後、関東の経営に乗り出した頼朝は平時家を非公式の相談役とする。
権謀術策に優れた平時忠を父に持つ時家は策士だった。やがて・・・風馬の組織した忍びたちは頼朝の忍びと化して行く。
一方、逝去したばかりの重盛を父に持つ維盛は命からがら退却していった。甲斐源氏は戦勝の後に甲斐に戻り、頼朝軍は反転して関東の制覇に向かったために追撃者はなかったのだが、平氏の惨敗を聞き、退却路の源氏が次々と蜂起したのである。
平の忍びが分散化して勢力を弱めたのに対し、近江青墓を根拠とする源氏忍びは活性化していた。以仁王の偽書が出回ったのはすべて源氏しのびの暗躍による。
十一月には尾張国、美濃国の源氏が蜂起し、敗兵となった平氏軍は落ち武者狩りの憂き目を見る。
御曹司大事の侍大将・伊藤忠清は近江の源氏蜂起も近いとみて伊賀路を選んだ。
平しのびの本拠地である伊賀でさえも・・・油断はできない状況に伊藤忠清は蒼ざめた。
八条院の放った陰陽師たちが潜伏していたのだった。
九月に都を発った平維盛の親衛隊は千騎だったが・・・都にたどり着いたのはわずかに十騎だったという。
清盛はこの大惨敗を喫した平維盛に流罪、忠清に死罪を賜るべきだった。
しかし・・・重盛の忘れ形見である維盛、父の代からの侍大将忠清を罰するには・・・清盛は老い果てていたのだった。
朱雀の報告を受けた清盛は大和田の海を眺めていた。
「・・・もはや・・・これまでじゃな・・・」
「・・・」
「京にもどらねばなるまい・・・」
十二月を待たず・・・清盛は福原遷都を断念した。
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