言路洞開を宣布して軽挙妄動を戒慎せしむのです(綾瀬はるか)
文久2年、朝廷は国事御用掛を発足し、「言路洞開」を合言葉に掲げる。
言路とは上層部に対する意見具申であり、洞開とは解放することである。
つまり、「言いたいことがあるなら言ってみろ」ということなのである。
過激なテロリストに対して「話せばわかる」と言いたがるのは「和をもって尊し」とするお国柄と言えるだろう。
しかし、結局は「問答無用」ということになるのである。
「核なき世界を作るために核拡散を抑止するが核兵器は保持する」という前提で「そりゃ、おかしいじゃねえか」と言われても「まあね」という態度なのである。
「じゃ、俺んところでもつくるよ」ということになり、結局、「テロリストとは交渉しない」と結論するしかなくなる。
まったく、人類ってやつは・・・それでも、必ず会津へ帰ってくると手をふる人に笑顔で応えるのが武士の道なのである。
人間は命令に従うもよし、逆らうもよし・・・それぞれが生きる道なのだから。
で、『八重の桜・第7回』(NHK総合20130217PM8~)作・山本むつみ、演出・末永創を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。今回はもったいなくもかしこくも第121代天皇・孝明帝統仁陛下の御真影描き下ろしイラスト大公開で喜びに堪えません。いよ、高麗屋。七代目。松たか子の兄貴!・・・なかなかに色っぽい明治天皇の父でしたな。どうせなら、和宮様を松たか子にやってもらいたいくらいでございます。そうなると家茂はギターが上手くないといけませんな・・・なんのこっちゃでございますがーーーっ。あの日あの時あの場所で画伯に会えなかったら・・・でございます。
文久二年(1862年)、会津藩主で京都守護職を拝命した松平容保はついに京都に到着。明けて文久三年正月。新年の祝賀を兼ねて、容保、御所に立つ・・・のである。第121代天皇は眉目秀麗な正四位下左近衛権中将源容保を熱烈に愛したとされる。一方、前年に上洛した薩摩藩は藩主・島津久光が公武合体を推進したため、内においては尊皇派の藩士を寺田屋騒動で粛清、外にたいして英国人を殺傷する生麦事件を引き起こし物議を醸す。京都においては長州や土佐の尊皇攘夷主義者が過激さを増し、倒幕の萌芽が発生する。土佐勤皇党の武市瑞山は岡田以蔵らの刺客に命じて目明し文吉から幕府同心・与力に至るまで天誅と称する暗殺テロを展開していた。容保は朝廷の言路洞開の方針に従い、平和的に京都の治安回復を目指す。しかし、実際は権力闘争と賄賂攻勢の応酬で沸騰する京都では焼け石に水であった。文久三年(1863年)二月、京都等持院所蔵の室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首が賀茂川の河原に晒されるという前代未聞の足利三代木像梟首事件がおこり、首謀者の国学者・三輪田元綱(後に奥貫薫の出身校となる三輪田学園中学校・高等学校の創設者・眞佐子の夫)の元に密偵として潜入捜査していた会津藩士・大庭恭平が洗脳されて実行犯となるという事態に発展・・・人道的治安維持を断念した容保は過激派粛清の実力行使を決意するのだった。将軍家茂の上洛は目前に迫っていた。
京都駐留軍となる会津藩兵に先駆けて会津藩家老の一人田中土佐は下級藩士に脱藩浪士を装わせ、忍びとして京の都に潜入させていた。田中氏は伊勢北畠一門の出身で甲斐武田氏を経て松平(保科)家に臣従した経歴を持つ一族である。表向きは藩大老職につき、裏では会津藩の忍びを操作している上忍である。そして、山本家は当然のように代々中忍として役目を果たしてきた。
「京の都は・・・なかなかに面妖な趣きだべな」
言葉とは裏腹におどけた口ぶりで雪の夜に上洛した山本覚馬を居室に招いた田中土佐は酒を勧める。
「ま、暖をとれ」
二千石の家老を前に覚馬は畏まって酒盃を取る。
「それほど怪しきものがおるのでごぜえますか」
「いたるところに魑魅魍魎がわいておる・・・」
「・・・」
「大庭恭平を存じておるか」
「下忍としてはなかなかの腕達者と聞いております」
「それが・・・たばかられおった」
「たばかられた・・・」
「朱に交わればあかくなる・・・と申すであろう」
「敵中工作には・・・偽りの心を持って事を為すのは手管でござりまするが」
「それじゃ・・・大庭には伊予国出身の神主あがりの国学浪人の一派の探索を命じておったのじゃ・・・それがの・・・あろうことか・・・尊皇攘夷とやらに・・・かぶれたと申すか・・・たぶらかされたと申すか・・・」
「なんと・・・」
「しまいには大庭の家は坂東平氏の家柄、源氏の下で働くのは筋違いだなどと申してな」
「それは・・・」
「お上の元に武士は上士も下士もなく平等だべなどと口走るのだ・・・」
「狂気の沙汰でごぜえますな・・・」
「京の祇園の廓に・・・女狐が棲んでいるらしい・・・」
「帝のくのいち衆でごぜえますか・・・」
「おそらく・・・」
「噂では前の公方(将軍)様に嫁いだ薩摩の姫は魔眼の持ち主と聞いておりやす。薩摩の島津家は京の近衛家と通じておられるとか・・・さすれば・・・京にも同じような妖術使いがおるやもしれませぬな・・・」
「山本家は・・・砲術の家だが・・・軍師流の破魔の法を密かに伝えていると聞く・・・どうじゃ」
「それは・・・秘伝なれば・・・」
「とにかく・・・方策はまかせるでな・・・会津忍びの指揮はお主にとってもらう・・・よいな」
「は、かしこまってごぜえます」
「江戸屋敷からも・・・会津くのいちを呼び寄せておる・・・これも使え・・・」
「御意・・・」
「とにかく・・・牢に幽閉しておる・・・大庭をなんとかせい・・・」
「早速・・・」
拝領した屋敷を急造の忍び屋敷にしつらえたために地下牢は簡単なものだった。
その土間に縛られたまま大庭が転がされている。
暗闇に覚馬は火をともした。
眩しげにしかめられた恭平の眼が開くとそこに明らかな狂の色が浮かぶ。
「潔く・・・死を賜りたい・・・」と恭平がつぶやいた。
覚馬は手に蝋燭を持っている。
「見よ・・・」と覚馬は囁く。
蝋燭の影が揺れ、恭平の視線が泳ぐ。覚馬はそれに応じて光源を操りながら「忍びの真言」を唱え始める。会津忍びの心を支配する秘めた言の葉だった。
「光明、光明、会津磐梯山、宝玉、宝玉、岩代猪苗代・・・」
幼き頃より刷り込まれた言葉によって恭平の心が誘導され始める。
「それ、申せ、やれ、申せ・・・」
恭平の眼に宿る狂気が色合いを変える。
「・・・おかみにさからうのはおっがねえことだときかされやした・・・」
「・・・んだか・・・」
「・・・神罰さくだると・・・」
「・・・んだか・・・」
「夷狄さ、うだねばならね・・・」
「・・・んだか・・・」
からめとられた恭平の心の縄目をほどくように覚馬は応じて行く。
時が立ち・・・やがて・・・恭平は首をたれる。
催眠状態に落ちたのである。
「誰に教わった・・・」
「三輪田先生・・・」
「どこでじゃ・・・」
「祇園・・・鳳凰楼・・・」
「美しい女子がおったか・・・」
「吉田屋の幾松・・・」
「・・・」
覚馬は頷いた。京にはやはり恐ろしい女狐が潜んでいるようだった。
尊皇攘夷の花が開いては散る文久三年の春が近づいていた。
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