天下御免の万国公法でごぜえやす(綾瀬はるか)
「万国公法」(Elements of International Law)は米国の法律家・ヘンリー・ホイートン(1785-1848)の1836年刊行の著書である。
日本に伝来した時期は不明だが幕末の志士たちの必読書となっていた。
オランダに留学した津和野藩士の西周(にしあまね)が1866年頃にすでに「万国公法」について触れていることが記録されている。
死の直前の坂本龍馬は「万国公法」の翻訳を計画していたとされる。これによって「いろは丸沈没事件」における紀州藩との談判を有利に進めようとしたらしい。
当然のことながら、そこに記される万国とは西洋列強を示している。
西洋列強の文明国が万国であり、アジア諸国は野蛮国、アフリカ諸国は未開国であり、万国には数えられなかったわけである。
幕末の教養あるものたちはここに着目し、「万国公法」を理解することで文明国の仲間入りをし、万国の列に加わろうとしたわけである。
「敵国の元首は討ち首だ」と誰かが言えば・・・「万国公法にはそんなことは書かれていない」と批判され・・・前言を撤回せざるをえないという一種のお約束が成立したのだった。
「万国公法」の原題は「国際法原理」であり、一種の学術書であるために・・・原理原則の概要を示している。
つまり、すべての事例が書かれているわけではない。
そのために・・・「万国公法」を持ち出せば・・・ある程度の無理は通ったのだった。「ないもの」を肯定はできないからである。
で、『八重の桜・第22回』(NHK総合20130602PM8~)作・山本むつみ、演出・末永創を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。今回は次男・三郎は戦死、長男・覚馬は斬首(誤報)と一挙に二人の後継者を失った会津藩士にして八重の父親・山本権八の慟哭のイラスト描き下ろし大公開でお得でございます。まさに無惨に尽きる一幕でしたねえ。息子二人を同時に失って途方に暮れながら悲報を伝える婿に礼を述べる父はまさに武士の鏡でございましたな。同じ哀しみを抱えながら夫を失った嫁うらを慰める母の姿も見事でございました。一番悲しいのは母の佐久でありましょうに・・・。
慶応四年(1868年)三月一日、関東防衛のために出陣した近藤勇の甲陽鎮撫隊は行進速度が遅く、東山道を進む板垣退助の迅衝隊が先んじて甲府城へ入城。野戦を余儀なくされた甲陽鎮撫隊は六日、壊滅する。同日、東海道を進軍する新政府軍は駿府城にて江戸総攻撃を十五日と定める。恭順派の旧幕府陸軍総裁の勝海舟は江戸城引き渡しの交渉を開始し、東征大総督府参謀の西郷隆盛の合意を得る。総攻撃は中止され、四月十一日に江戸城は無血開城され、徳川慶喜は水戸で謹慎するために江戸を出発する。二十一日、東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城し、江戸は新政府の支配下に入る。閏四月三日、抗戦派の旧幕府軍と新政府軍が船橋で激突。旧幕府軍は壊滅する。五月十五日、旧幕府軍による江戸治安維持部隊の彰義隊が上野にて新政府軍と激突。新政府軍司令官・大村益次郎は佐賀藩のアームストロング砲によって彰義隊を壊滅せしめる。一方、孝明天皇の義弟にあたる奥羽鎮撫総督九条道孝は京都をたって三月二十三日に仙台に到着。朝敵となった会津藩、庄内藩に対して、仙台藩、米沢藩を通じて降伏交渉に入っていた。陸奥国、出羽国、越後国の諸藩は会津藩・庄内藩に同情的であり、両藩の赦免嘆願を願う奥羽越列藩同盟を結成した。しかし、それは軍事同盟ではなく諸藩は新政府軍の支配に従っていたのである。六月六日、上野戦争に敗北した輪王寺宮公現法親王が会津に到着する。
西郷吉之助は東西奔走を続けていた。篤姫の指示により科学忍者隊は西郷直轄の隠密部隊となっている。
幕府海軍の甲鉄艦・轟天丸は回天と改名され、西郷の専用艦となっている。
艦長は元・海援隊の陸奥宗光である。回天は巡航速度15ノットの蒸気船で江戸~大阪間を二日で渡航可能であった。
西郷は品川沖を出発し、二日後に大坂湾に入港、河川艇・荒川で半日で京都入りし、往復五日で江戸に戻ってこれたのである。
江戸で勝海舟と会談し、駿府で新政府軍に号令し、京で新政府と調整を行うことが三日間で可能なのだった。
江戸の無血開城を決めた西郷は京都での朝議の後、新政府によって接収された京都長者町の仙台藩屋敷に向かった。
屋敷は鳥羽伏見による戦いの負傷兵の看護のために臨時の病院が設営されている。
薩摩藩京屋敷の地下牢から山本覚馬は身柄を屋敷の一室に移されていた。
すでに失明した覚馬には逃亡の恐れがなかったのである。
また、天皇のくのいちである小田時榮と藤原のしのびの会津小鉄およびくのいちのお市が昼夜を分けて覚馬を監視していた。
「勝様のはからいで・・・江戸の街を火の海にすることは避けられ申した」
「それは・・・何よりでござった」
「旧幕府の残党は関東各地で抵抗を続けておりますが・・・制圧は時間の問題でごわす」
「・・・」
「問題は・・・元京都守護職の会津藩と元江戸市中見廻り役の庄内藩でごわす」
「・・・」
「近頃はどの藩も・・・それなりに尊皇攘夷と佐幕派の藩内抗争があるのが普通でごわす」
「しかし・・・雪深い地方のものどもは・・・鈍いと申されるのだな」
「いかにも・・・恭順して武装解除に応じる気配がまったくありもはん」
「・・・」
「会津藩などは・・・武装して恭順していると・・・困ったことを申すのでござる」
「それはなりませぬか・・・」
「なりもはん・・・特に長州藩は・・・長州征伐の怨みがごわす」
「岩倉様にもお頼み申したが・・・なんとか・・・拙者を使者として会津に遣わしてもらえぬでごぜえましょうや」
「それも・・・さすがになりもはん・・・また・・・山本殿がいかに口説こうとも・・・藩論は覆らぬと思えるのでごわす・・・有能の士であった神保修理に切腹申しつける愚鈍さがなによりの証でごわそう」
「・・・会津は火の海となりましょうな」
「それは・・・判り申さぬ・・・早晩、降伏してくれるのを願うばかりでごわす・・・」
会津はそう簡単に降伏せぬであろう・・・と覚馬は暗澹たる気分となった。
「本来なら・・・戦のありかたを論じたいほどでごわすが・・・それを控えるのが精一杯であるとご理解たまわりたい・・・」
覚馬には軍学者として会津攻略のための作戦が整いつつあった。
いっそ、それを話し、戦の早期決着を図るのも一つの奉公であるかもしれなかった。
しかし・・・故郷に遺した父や妹弟のことを思えばそれも出来かねた。
「すべては運命と・・・お覚悟くだされ」
「運命と仰せられるか・・・」
「日の本を・・・西洋列強から守るための犠牲でごわす・・・」
覚馬は心中ひそかに頷いた。
しかし・・・それでも会津の地が見舞われる悲惨を思えば割り切れぬ思いも残るのだった。
すでに弟・三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死したことを虜囚の身である覚馬は未だ知らなかった。
会津藩では本土防衛・四民玉砕の臨戦態勢が整いつつあった。
関連するキッドのブログ→第21話のレビュー
| 固定リンク
コメント
ばんはです
いやはやどうもこちらでの返答になりますが
佐久とうらの御指摘ありがとうございます
昨日は肩がつり、思うように起き上がれず
今日は熱が上がり8度付近まで上昇でちとぐったりです
明日は会社で発表会だというのに・・・
さて、ちと愚痴が出ましたが
万国公法を持ちだした事で
江戸城開城にこぎつけた幕府
ま、交渉の相手が西郷だからという事もあるのでしょうけど
その辺を踏まえて会津との交渉では
わざと合戦になるような主戦派を参謀にしたのではと
今回の経緯と今後の展開を考えるに
そんなうがった見方をしてしまう今日この頃です
投稿: ikasama4 | 2013年6月 4日 (火) 00時20分
✥✥✥ピーポ✥✥✥ikasama4様、いらっしゃいませ✥✥✥ピーポ✥✥✥
おいたわしや・・・。
御回復を御祈願申し上げまする。
あくまでマイペースでお願いしますぞ~。
滋養強壮のための妄想朝鮮人参をお届けしましたぞ~。
こちらも・・・暑さとともに
頭がボンヤリして
更新速度に遅滞が生じておりますぞ~。
まあ、「あまちゃん」をリピートしすぎなんですが。
こうして見ると
徳川慶喜は・・・
明治維新を成し遂げるために
生まれて来た最高の尊皇攘夷志士と
言えるかもしれませんな。
篤姫、和宮、勝海舟は
その補佐役だった・・・とも
言えますな~。
阿吽の呼吸で・・・
幕府が解体されるようにされるように
もっててますからね~。
これで死を賜ってれば完璧ですが・・・
これだけの功があると明治政府も
疎かにはできなかったかと。
基本的に会津は自業自得の側面もありますな。
しかし、それが武士の意地というものなのでしょうねえ。
殺されてもおかしくない人が生き残り
殺されなくてもいい人が生命を失う。
それはもはや運命としか言いようがない気もします。
下剋上の気配に満ちた新政府軍の顔ぶれと
どこか・・・浮世離れした会津藩の面々・・・。
白虎隊とか烈婦が
がんばるしかなかった・・・
そういう悲惨さがとにかく
これでもかと前フリされてきましたからな。
歴史的な流れもきちんと押さえられていましたし・・・
ここまでは幕末ものでも屈指の出来栄えといえましょう。
今回、キッドは徹頭徹尾、泣いておりましたぞ~。
投稿: キッド | 2013年6月 4日 (火) 01時04分