でくのぼうVSおりこうさん(芦田愛菜)手篭めにされてもたくましくのぼうの城(尾野真千子)
そこかよーーーーっ。お正月気分かっ。
前回、尾野真千子と鈴木保奈美の競演で、今回は鈴木保奈美、尾野真千子と芦田愛菜の競演。
そして次回は芦田愛奈という流れでございます。
ドラマも映画も基本は総合芸術である。
そこにあるのは「美の追求」なのである。
もちろん・・・芸術にはビジネスの側面もあって・・・そこで生きる人々が様々に思惑を持って生きているという現実はある。
しかし、基本として「芸術への奉仕の精神」を持っていなければならない。
「表現の自由」とはまさにその「芸術(美)への奉仕の精神」の在り方を示したものである。
そこにある「美」とは「それぞれの人間が感じる心地よさ」などという低次元のものではない。
世界に隠されている神秘的な「美」への人間たちの挑戦なのである。
作品には様々な総合されたものが多面的な美を顕現するのである。
たとえば女優はそのパーツだし、子役もまたそのパーツである。
脚本家もパーツだし、演出家もパーツだ。
そして・・・「美」の世界にあっては「現実世界」もパーツに過ぎないのである。
「表現」には成功もあれば、失敗もある。
しかし・・・成功も失敗も過程にすぎない。
そして・・・表現者には豪胆なものもあれば、繊細なものもある。
繊細さも豪胆さも同様に過程なのである。
「美」を守護するものは繊細さと豪胆さが織りなし成功や失敗を経ての「誕生」を厳かに見守っている。
個人の政治的信条や、宗教的信念などが「美」を犯すことはあってはならないからである。
そういうことが理解できないとうへんぼくで世界が満ちているにしても・・・。
で、『のぼうの城(2012年劇場公開作品)』(TBSテレビ201401052054~)原作・脚本・和田竜、監督・犬童一心、樋口真嗣を見た。華麗なる戦国絵巻であり、水攻めのシーンが東日本大震災の津波のシーンを連想させるという理由から公開を自粛したという来歴を持っている。芸術は本来、そういう現実など無視してかまわないと思うがそこがまたこの世の醍醐味というものなのだな。そもそも・・・表現が一種の刺激をもたらす以上、絶対に無傷なんていうことはありえない。見たものを発狂させるくらいで何の問題もないわけである。しかし・・・でくのぼうやとうへんぼくの満ち溢れた人の世でそれが暴論であることは甘んじて受け入れたい。
とにかく・・・水の持つ圧倒的な破壊力を映像化しただけでも賞賛に値する芸術作品である。
そして・・・それを主軸として戦国絵巻が展開する。
ものすごく面白いのである。
そして・・・この映画によって・・・あの恐怖体験をした人々がなんらかの嫌な気持ちを抱いたとしても・・・それが現実であるとしか言いようがない。
言い方を変えれば知ったこっちゃないということだ。
殺人事件を描いたドラマは殺人事件の被害者遺族に嫌な気持ちを抱かせるに決まっているし、失恋物語は失恋した人間に嫌な気持ちを抱かせるだろう。
そんなことを気にしていたら・・・芸術なんて成立しないのだな。
逆に言えば・・・この映画から水攻めのシーンをカットしても・・・現実から津波被害はなくなったりしないのである。
水が持っている暴力性に・・・美しさを見出す・・・それが芸術の醍醐味なのである。
まあ・・・悪魔の考える芸術至上主義とはそういうものなのです。
「特定秘密保護法」について「知る権利」の危機を訴えていた芸術家たち・・・どこへ行ったということでございます。
さて・・・群像劇的要素は大きいが、主役は天正18年(1590年)に実在したとされる成田長親(野村萬斎)である。
この映画では「でくのぼう」と仇名される変人として描かれる。
でくのぼうとは木彫りの人形・・・つまりこけしのことである。
手も足もでないがある特定の使用方法によって婦女子に悦楽を与えるのがこけしである。
だから・・・成田氏長は・・・田植えの手伝いもうまくできないおバカさんだが・・・城主の娘・甲斐姫(榮倉奈々)にも武士に強姦された過去を持つ百姓女のちよ(尾野真千子)にもその娘のちどり(芦田愛菜)にも溺愛されています。
それどころか・・・坂東武士より帰農した一筋縄ではいかない百姓たちにも・・・腕に覚えの兵法者揃いの武蔵国忍城の侍たちにもベタベタに愛されているのである。
それは一言で言うと「馬鹿な子ほど可愛い」ということなのである。
馬鹿なのに愛される・・・そういうことが・・・この世の真理のひとつであることが満遍なく描かれるのだった。
さて・・・一方で・・・この年の一大イベントである北条征伐の一環として北条方の支城である忍城(兵数500)を豊臣方別働隊(兵数20000)で攻めるのがおりこうさんの噂の高い石田三成(上地雄輔)なのである。
豊臣秀吉(市村正親)が近江国で見出した三成は・・・その頭脳明晰さで・・・大出世するわけだが・・・ものすごく人気はないのである。
しかし・・・超天才の豊臣秀吉や・・・文武両道の一流武将の大谷吉継(山田孝之)にとっては・・・三成は「戦の苦手な武将」として・・・ある種の可愛さを感じさせるのだった。
つまり・・・「戦の弱い武将」もまた限りなく「でくのぼう」だからである。
そのために・・・秀吉は「絶対に勝てる戦い」を三成に用意し、最高の補佐官であるウシジマくんを武の副官に・・・三成と並ぶ経理エリートの長束正家(平岳大)を文の副官に起用して・・・秀吉的には「バカな子ほどかわいい」三成の男を上げさせようと考える。
そして・・・この誰がどう考えても負けようがない戦いを・・・負けてしまうという三成の奇跡の敗北が描かれて行くわけである。
ある意味・・・史上最強のおバカさん決定戦なんだなあ。
しかも・・・恐ろしいことにこのことはほぼ・・・史実なのである。
そして・・・誰もが愛するバカと・・・一部の人にしか愛されないバカとの運命の出会いが面白おかしく描かれて行く。
もちろん・・・それがメインテーマではないが・・・太田道灌の血を引く名将・太田三楽斎資正の娘・珠(鈴木保奈美)が腑抜けと陰口する忍城々主・成田氏長(西村雅彦)がせっかく準備した和平工作を無視して・・・しなくてもいい開戦をする二人のでくのぼうが・・・明朗活発に描かれるのである。
ここには・・・「生命より大切なものがあったっていいじゃないか」という・・・現代では袋叩きになりそうな危険思想が垣間見えるのである。
つまり・・・腑抜けの大河ドラマでは絶対に見ることのできない、千葉氏出身・正木丹波守利英(佐藤浩市)の三国志ゲーム風一騎討ちで首が飛び、埼玉氏出身・酒巻靭負(成宮寛貴)の油地獄火炎攻めで雑兵が火だるまとなり、江戸氏出身・柴崎和泉守(山口智充)が無双風敵兵田楽串刺しの技を披露するなど血わき肉踊る合戦模様が描かれるのだ。柴崎は木更津に落ちて山口先輩のご先祖になったんだなきっと・・・。
悲しいけどこれ戦争なのよね・・・なのである。
そして・・・結局、豊臣秀吉の側室になる運命の甲斐姫が榮倉奈々史上もっとも可愛いし、ちよとちどりの母子も安定の存在感を示す。
武士に女房犯されて「七人の侍」的百姓男の屈折した心情を持つちよの夫・かぞう(中尾明慶)さえもが・・・最後は「のぼう様愛」を爆発させて戦局を一変させたりするのである。
そして大洪水ですべてが押し流され両陣営沈没である。
痛快だ・・・痛快なのだ。
「戦国」を描く芸術家たちは・・・この姿勢を学んでもらいたいんだよお。
だって・・・そういうあれやこれやがあって・・・今があるんだからさ。
そして・・・地獄絵巻を最後まで淡々と見つめるウシジマくん。
万歳なのである。
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