ごらん・・・あれが白いご飯・・・美味いずら(山田望叶)
昨日はエイプリールフールである。
「嘘をついてはいけません」と人の道は説かれるわけだが・・・同時に「嘘も方便」という言葉も教えないと教養としては成立しない。
「嘘にはついていい嘘と悪い嘘があります」と教えることが肝心だが・・・何が善で何が悪かを定めることは非常に難しい。
五分前のことを忘れてしまう人に嘘を連発してみる。
「弟が入院したよ」
「ええっ」
「エイプリールフールだぴょ~ん」
「まあ・・・ほほほ」
「さっき、大地震があったよ」
「ええっ」
「エイプリールフールだびょ~ん」
「まあ・・・ほほほ」
「となりの家の人が警察に捕まったよ」
「ええっ」
「エイプリールフールだびょ~ん」
「まあ・・・ほほほ」
笑いのたえない家庭である。
で、『連続テレビ小説・花子とアン・第2回』(NHK総合20140401AM8~)原案・村岡恵理、脚本・中園ミホ、演出・柳川強を見た。ドラマの中にはいじめの描写はつきものである。現代を描くドラマでは基本的にいじめは悪であるし、中には犯罪と言えるニュアンスのものも描かれる。もちろん・・・その加減は過去にもある。しかし、人権や平等が確立されていなかった社会では時にはいじめが「生活」の一部でもあったのである。たとえば・・・ついこの間まで女性が学問することは「犯罪的行為」だった。「男尊女卑」という社会的秩序を乱すからである。昭和初期に生まれたものはまだ親に「女に学問はいらない」と言われて育つのが普通だったのである。もちろん・・・女性の社会進出が叫ばれる・・・ということは現代もその名残の中にある。現代の目から見れば女性蔑視で・・・奇異に感ずるがそれが「普通」だったのである。だから・・・秩序を乱す女子がいれば男子たちが制裁するのは「自然」だったのだ。そういう「描写」に目くじらをたてるバカがいないことを祈るばかりである。
現在、TOKYO MXでは1973年の「ウルトラマンタロウ」がオンエアされているが第15話の「青い狐火の少女」では狐に憑依されたと噂された孤児の少女を・・・男子はもちろん、村の男たちが総出で「ぶっ殺さなければなんねえ」と山狩りをしたりするわけである。・・・まあ、当時から「ウルトラマンタロウ」はある意味異常だったけどな。ちなみに途中で契約更新のための配役変更によって白鳥さおり役があさかまゆみから小野恵子に変わるという凄い展開があるのだが・・・今度の日曜日でハイティーンでフレッシュなあさかまゆみ(朝加真由美)は見納めである・・・ファンはお見逃しなく。
「パンチラはあるのかや?」
「あるかもしれんだに」
脱線しすぎだろう・・・いや・・・もう、マキタスポーツがいけないのです。
甲州の貧しい農家に生まれた安東はな(山田望叶)・・・健気で賢い娘だが・・・とにかく劣悪な教育環境である。
もちろん・・・安東家が特別に貧しいわけではなく・・・これが標準なのである。
明治33年(1900年)、十九世紀最後の年は・・・明治維新によって解放された農地が地主(資本家)と小作人(労働者)という関係によって定着している時代である。この関係は日本が占領軍によって改革されるまで続くのである。
すべては中央集権化を目指す明治政府の都合によって生まれた格差だった。
農家に婿入りした行商人の安東吉平(伊原剛志)は唯一読み書きができるが・・・それは奉公先の商家で苦労して習い覚えたものだった。
文盲が当たり前の安東家の中で・・・利発なはなの才能が埋もれていくのが・・・どうにも不憫なのである。
同時にそれは・・・吉平自身の「学問」に対する憧憬を潜ませている。
行商で・・・東京を見聞する吉平は時代が激しく動いているのを感じ取っているのだった。
「はなを・・・女学校にいれたら・・・何か素晴らしいことが待っているのではないか」
吉平もまた見果てぬ夢を見ているのだった。
しかし・・・小作人として生きて来た舅の周造(石橋蓮司)や妻のふじ(室井滋)から見ればそれは戯けたことだったのである。
地主の徳丸甚之介(カンニング竹山)から借地料の値上げを宣言され・・・思案に暮れている小作人根性が染みついた父娘なのだった。
「一反四俵・・・」
暴利である。土地柄や生産性にもよるが・・・一反からとれる米はおよそ五俵である。
つまり、年利八割という搾取なのである。ウシジマくん・・・。
「残りは二俵」ということは・・・おそらく安東家は地主から二反ほど借りて米を作っているわけだ。
つまり、二反で十俵の米を作り、八俵を地主に巻き上げられて残り二俵なのである。
十合が一升、十升が一斗、十斗が一石である。千合を365日で割るとおよそ2.7合になる。
ダイエットしていたり大食漢にもよるが・・・およそ一日で食べる米の量と考えることが出来、つまり一石は一年分の一人前なのである。
一俵は四斗であり・・・つまり、およそ一年分の半人前である。
つまり・・・二俵あれば一人が米を食えることになる。
しかし・・・基本的にこの米は売って・・・税金を払う必要がある。すると・・・手元には何も残らないくらいの重税がかかっているのだ。
つまり・・・小作人は・・・商品にはならないヒエや粟を食うしかなかったのである。
労働力が一人増え、一反増やせばもう一俵残るのに・・・。
農業を手伝わない婿に舅や嫁の目が厳しいのも仕方のない話なのだった。
しかし・・・夢見る父親は・・・花子をミッション系の女学校に入れるために・・・一家でクリスチャンとしての洗礼を受けると言い出す始末なのである。
そのために地元のプロテスタント教会に連れていかれた花子は例によって感動する。
「教会じゃ、教会じゃ、教会じゃんけ」
花子にとって現実は空想の糧である。
見知らぬものを知ることは空想の素材を得ることなのだ。
さらに牧師の家には・・・花が憧れる「本」が「本棚」に収められるほどあるのだった。
「うわあ・・・」
花子は目がくらみそうな気がするのだった。
しかし・・・「現実の世界」で・・・母や祖父が口にする「当たり前の生活」は花子の心を呪縛する。
父親を怠け者にしないためにも・・・花子が父に従うことは「悪」なのである。
だから・・・花子は母と父を喧嘩させないために・・・自らにさらなる学問を禁じるのだった。
ついでに・・・昼の弁当も抜くのだった。
だが・・・それでも学校には行く。それが花子の折衷案的選択だった。
地主の息子が白い米の弁当を食べる時、花子は空に浮かんだ雲を握り飯にして咀嚼するのだった。
「赤毛のアン」の作中人物と・・・花子の周囲はシンクロするわけだが・・・今回はおしゃべりな近所の農婦・木場リン(松本明子)が登場する。
「赤毛のアン」の養母・マリラ・カスバートの仲良しさんであるレイチェル・リンド夫人とシンクロしているわけである。
抜群の存在感でいい味出してます。
アンの同級生で石板で叩かれるギルバート・ブライスは木場朝市になっており、この世界ではレイチェルとギルバートは母子になっているらしい。
この辺りの遊びも「赤毛のアン」シリーズのファンには楽しいところだろう。
ごきげんよう、さようなら。
このナレーションもその遊びの一環であることがやがて明らかになるだろう。
配役メモ・・・安東もも(須田理央)
安東かよ(木村心結)?・・・CQ、CQ、CQ・・・特にシャブリ様~。
村岡美里(三木理紗子)
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