あすはたがくさのかばねやてらすらんいしがきばるのきょうのつきかげ・・・と吉弘統幸(岡田准一)
石垣原は決戦場である。
南下する東軍の黒田勢と北上する西軍の大友勢が火花を散らした地に月光がさす。
劇的な舞台に「死」を予感した大友家臣の吉弘統幸は「明日は誰が死に野ざらしとなって月の光に照らされることか・・・」と詠んだわけだ。
戦国武将はロマンチストである。
敵は百戦錬磨で・・・秀吉の軍師と称された黒田官兵衛。
それに比して、主君である大友義統は影の薄い殿様である。
だが・・・大友家臣として天正六年(1578年)の耳川の戦いで父・鎮信が討ち死にしたように・・・自分も大友家に殉じるだろう・・・そういう感慨がある。
そういう忠臣に心打たれるものは多く・・・吉弘統幸は神として祀られることになる。
世間的には名もなき武将をとりあげるのはいいのだが・・・もう少し、取り上げ方があると思うよね。
伏線という言葉をもう少し噛みしめてもらいたいよね。
で、『軍師官兵衛・第49回』(NHK総合20141207PM8~)脚本・前川洋一、演出・本木一博を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。今回は二十六行・・・倍増です。しかし・・・基本、苦言です。まあ・・・誰もが思いますよねえ。大友家と黒田家の交流にもう少し時間を割いていてもよかったと・・・。新参者は地元の人との交流を大切にしないとねえ。宇都宮殲滅だけではアレですよねえ。だからこそ・・・大友家臣としては名家の吉弘氏の面倒を見るわけですから。当然、大友宗麟の娘を嫁にしている母里太兵衛と義理の兄弟になる大友義統の関係も描くべきですよね。どう考えてもこれで首がつながるわけですし・・・。関ヶ原方面でも・・・小早川秀秋の家老の平岡頼勝が黒田長政の従兄弟であることは結構、重要なポイントですよねえ。平岡頼勝の妻の母である妙寿尼(酒井若菜)がせっかく登場しているのに・・・。モー子の出番が・・・。まあ・・・光(中谷美紀)のもう一人の妹が登場しないので・・・如水と井上九郎右衛門が義兄弟であることが・・・最後まで描かれない大河ドラマに何を言っても無駄ですが・・・。井上九郎右衛門の描き下ろしイラスト大公開に万歳でございます。
慶長五年(1600年)八月、池田輝政、福島正則ら東軍諸将は美濃国に侵入。清州会議でおなじみ三法師こと織田秀信の岐阜城を攻める。二十歳となった秀信は奮戦するが多勢に無勢で降伏開城・・・高野山送りである。五年後に死去したと言われる。九月一日、家康が江戸城を出陣。八日、大友義統(西軍)は豊後国に上陸。石垣原の南の立石に本陣を構え、旧家臣を集合させる。十日、石垣原の北方にある杵築城(細川忠興領・松井康之城代)の攻城を大友勢が開始。黒田如水は中津城より、杵築城支援のために井上九郎右衛門らを派兵する。十三日、黒田・細川連合軍は石垣原で大友勢と戦闘となる。井上九郎右衛門らは大友家臣の吉弘統幸など多数を討ち取る。十四日、大友義統は黒田如水に降伏。常陸国にて幽閉され十年後に死去する。この頃、家康は東軍の終結場所となる美濃・近江国境の赤坂に到着。南方の大垣城(西軍)と対峙。西方の佐和山城(石田三成居城)を狙う。釣られた三成は佐和山防衛のために関ヶ原に布陣を開始する。同時に東軍も移動を開始。十五日、天下分け目の関ヶ原の戦いに突入するのだった。
長政からの報せで美濃国が東軍の手に落ちたことを如水はすでに知っていた。
北九州一体は兵力が上洛し、空白地帯となっている。東西どちらの軍勢も城には最低限の守備兵があるばかりだった。三成の放った九州の西軍旗頭である大友義統を撃破した今、二万に膨らんだ黒田如水軍は無敵状態となっている。
「しかし、島津がおりますぞ」と栗山善助が慎重に言う。
「一度は破った相手だ・・・造作もない。まずは豊前豊後、そして筑前筑後、さらに肥前を抑え、肥後の清正を従えれば島津も抑えられる」
「従わぬものは討ち果たすまで」と母里太兵衛は抑えていた勇猛さを示す。
「義統様の処遇はいかがしましょう」と井上九郎右衛門が指示を仰ぐ。
「とりあえず、中津におしこめておくがよかろう」
如水が家臣や領地の百姓たちの女を孕ませて生まれた子供たちは黒田忍びとして育てられ、濃淡はあるものの黒田の血を受けて不死身の軍団を形成している。
半数は長政が率いているが・・・半数は如水の九州軍団の中核をなしていた。
黒田如風、黒田如火、黒田如地・・・如水の影に率いられた黒田忍び軍は西、西南、南の三群に分れ、前進を続けている。
その行く手を阻むものはなかった。
九州北部はすでに黒田の領土と化している。
逆らう弱小勢力は殲滅し、中津城には続々と首級が運び込まれていた。
一方、家康が江戸を発ち、赤坂に到着する間、石田三成は右往左往している。
宇喜多秀家の赤坂奇襲策を退けたかと思えば、大坂の豊臣秀頼や毛利輝元に出陣要請をし、越前加賀で前田勢と対峙中の大谷吉継を近江に呼び寄せ、妻子の籠もる佐和山城の防備を案じて大垣城を抜け出すという落ちつきのなさである。
「主将がこれでは戦にならん・・・」と島津義弘は前途を悲観した。
近江には敵味方の忍びが充満している。
しかし、数の上では東軍が西軍を圧倒していた。
なぜなら・・・家康はすべての忍びを統括していたが・・・石田三成には犬神衆しかいない。味方といえる真田忍軍でさえ・・・独立して活動しているのである。
徳川忍びの近江の斥候を担当するのは甲賀衆を率いる山中大和守である。
一族の山中山城守は西軍方として大坂城にあったが・・・山城守もまた家康の犬であった。
家康自身は服部半蔵影の軍団に守られ、別働隊の秀忠軍には東軍についた真田忍軍がついている。
三成の犬神衆は山中甲賀衆ほどの勢力であったが・・・それが東は陸奥、北は加賀、南は九州と各地に散っている。
それに対して・・・大和守の忍びは三成の監視に専従しているのである。
三成の行動は逐一、家康に届いている。
報告を聞く度に・・・笑いのとまらない家康だった。
「太閤もまこと愚かなものに後事を託したものだでや・・・」
家康にとって赤子の手をひねるような決戦は目前に迫っていた。
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