ヒュルリヒュルリララ絶望しています(木村拓哉)ききわけのない夫です(上戸彩)
一年前が2014年なら、五年前は2010年である。
五年間の記憶がないと一口に言うが・・・ではあなたは五年前の記憶をすぐに思い出せるだろうか。
2010年の5月7日・・・朝食は何を食べましたか?
ヒロインが五年間の記憶を喪失する「もう一度君に、プロポーズ」でも同じような妄想を展開したが、ここで再度、そのことを妄想してみたい。
もちろん・・・世の中には異常な記憶力の持ち主がいてスラスラと朝食のメニューを述べる場合もある。
しかし、多くの人間は困惑するものと妄想する。
日記を書いている人は記録を参照することができるだろう。
そこに朝食のことが書いてあれば・・・そういえば・・・そんなものを食べたかもしれない・・・と思うかもしれない。
ちなみにキッドはその時、ラジオの特別番組を手伝ってヘロヘロになっていたことが・・・ブログの記述から思い出される。
五年間の記憶を失っているとすれば・・・それが昨日のようなことなのである。
はたして・・・あなたは五年前の出来事を昨日のように思い出すことができるだろうか。
それができる人は素晴らしい記憶力の持ち主だと言えるだろう。
このドラマの主人公が単に五年間の記憶を失っただけではないことが・・・ドラマが進展するにつれ・・・ようやくお茶の間にも伝わってきたのではないかと思う序盤の終了である。
主人公は性格が変わった・・・周囲の人はそう思う。
確かに「上昇志向の塊のような鼻持ちならないサラリーマン」ではなくなってしまったのかもしれない。
しかし・・・失われた記憶をとりもどそうと・・・曖昧な記憶と格闘する姿勢は・・・上昇志向の名残を感じさせたりもする。
そもそも・・・人間はどこでもいい子ではいられないのである。
少なくとも夜にステーキを食べれば牛の怨みは買うものだ。
そして・・・敗者にとって勝者は常に賞賛の対象というわけではないのである。
踏みつけられて痛くないのはそういう趣味の人間だけなのだ。
しかし、記憶がなければ誰を踏んだのかもわからない。
誰が敵で誰が味方なのか・・・全くわからない戦場に・・・放り出された人間の感じる不安。
五年間の記憶がないというのは・・・誰も信じられないということだ。
この主人公はそういうものを背負っているわけである。
日本中のほとんどの人が知っている・・・東日本大震災の記憶は・・・それが2011年に発生したために・・・主人公にはないのである。
あれから・・・もう・・・四年か・・・と言われて何の事だかわからない・・・。
恐ろしいことである。恐ろしいことではないか。
ちなみに2010年の春ドラマで木村拓哉は「月の恋人~Moon Lovers」に主演していた。
で、『アイムホーム・第4回』(テレビ朝日20150507PM9~)原作・石坂啓、脚本・林宏司、演出・田村直己を見た。記憶の喪失を伴う高次脳機能障害となっている主人公・家路久(木村拓哉)に対する妻の恵(上戸彩)の言動が・・・障害者に対する配慮を欠いていると指摘する人がいるかもしれない。記憶に障害のある人に・・・「また忘れちゃったの?」と批判的な意見を述べるのは芳しくないというわけである。特に職業的な介護の訓練を受け、認知症に対するマニュアルを学んだ人はそのように感じるかもしれない。しかし、日々、認知症者に家族として接する場合・・・そんなマニュアルのような対応なんてクソくらえなのである。なにしろ・・・人間はどこでもいい子でいられないからだ。世界で一番愛している母親に「このくそばばあ・・・どこまでぼければ気が済むんだ」といってしまうのが人間なのである。とにかく・・・このドラマでは障害を負った夫に対する妻の愛情あふれる態度が遺憾なく伝わってくる。それが・・・分からない人は・・・ある意味、別のジャンルの障害者ということになるのだった。そういうことを含めて脚本家は素晴らしい仕事をしていると言える。
家路久は失われた過去を追いかけて・・・事故に遭遇する直前に・・・単身赴任していたという葵インペリアル証券の茨城支社を訪問し・・・記録に残る当時の行きつけの店をめぐる。
勤務時間後に茨城・東京日帰りコースは無茶だが・・・思いこんだらとことんの人に何か言っても無駄なのだ。
通っていた飲食店などを巡っても記憶に触れるものはなく・・・従業員や常連客にも久のことを思い出すものはいない。
落胆した久が最後に訪れたスナック「ひとり相撲」で・・・。
「あら・・・ひーさんじゃないの・・・久しぶりね」
スナックのママ(雛形あきこ)に言われて・・・久は複雑な気持ちになる。
ママのことは思い出せないのだ。
しかし・・・酒を飲むうちに・・・営業のやり手さんモードのスイッチが入った久はカウンターに入っておつまみを作りはじめ・・・調子に乗った常連客のように振る舞いだすのだった。
冬のつばめよ
吹雪に打たれりゃ寒かろに
ヒュルリ ヒュルリララ
ついておいでと啼いてます
場末のスナックのママ熱唱である。
久の記憶にはないが・・・ママは久にキスを迫り「飲みすぎですよ・・・続きはシラフの時に」と軽くいなされた屈辱の過去というか甘い思い出があるのだった。
まあ・・・お茶の間的には寸止めだが・・・原作の心ない久なら一夜を共にしているはずである。
久と場末のスナックのママの熱い一夜は充分に妄想可能だ。
手料理好きの久は「レンコンのはさみあげ」だの「だしまきたまご」などを客たちにお出ししたあげく・・・「グ~!」を連発する。
エド・はるみによる2008年の流行語大賞受賞語である。
つまり・・・久にとって七年前はつい最近なのだ。
自分は思い出せないが自分を知っていた人に遇った興奮と酔いで・・・酩酊した久は・・・記憶から欠落しているはずの・・・単身赴任中のアパートへの家路を辿る。
久は・・・すっかり、事故に遭う直前の単身赴任時代の自分になりきってしまったのだった。
アパートの部屋の鍵は合わなかったが・・・ドアは施錠されていなかった。
「ただいま・・・と言っても・・・誰もいない・・・単身赴任中ですから~・・・おかえりなさいって誰も言わないじゃない・・・・残念!」
2004年度の波田陽区による流行語大賞ノミネート語である。
古い・・・古いぞ・・・久・・・。
酔いにまかせて・・・久は積まれていた布団にくるまって眠りに落ちるのだった。
しかし・・・別室では・・・現在の住人が熟睡中だったのである。
そして・・・この住人は・・・久の封印された過去の関係者なのだ。
翌朝、久の単身赴任時代のアパートの現在の住人・徳山正夫(平泉成)は見知らぬ闖入者に驚く。
久も驚くが・・・例によって・・・自分の現在の状態を思い出し・・・自分の失態をわびるのだった。
徳山は久の言葉を信じる人の良さを見せる。
「この部屋の前の住人が事故にあったという噂は聞いています・・・それにしても・・・記憶喪失とは・・・大変ですな・・・仕事のことなんかも・・・思い出せないのですか」
「はい・・・しかし・・・以前の私は・・・嫌な奴だと評判だったみたいです」
「なるほど・・・仕事ができて・・・敵が多かったということですな」
「・・・」
「わかります・・・実は私はこれでも以前は会社を経営していました・・・」
「え・・・社長さんなんですか」
「ま・・・会社をつぶしてしまい・・・経営者失格です・・・しかし・・・あなたがただものではないことはわかります」
「そんな・・・私なんて」
「いや・・・見ず知らずの人間の家で・・・朝ごはん作ったり・・・普通の人間にはできませんよ」
「すみません・・・勝手に自分の分まで作ってしまって・・・」
「いや・・・目玉焼きに味噌汁なんて・・・久しぶりに食べました・・・ところで・・・ご家族の方は・・・心配なさってるんじゃ・・・」
他人に言われて漸く、妻子のことを思い出す久だった。
スマホには妻からのメールが複数入っていた。
「ごめん・・・またやってしまった」
「いいのよ・・・いつものことだから・・・先に寝ちゃったし・・・気にしないで」
明るい口調で語る妻だが・・・久には感情のない機械のような声に聞こえるのだ。
「ごめん・・・会社にはこのまま出社するから・・・」
徳山は目を細めた。
「帰りを待ってくれる家族がいるっていうのは・・・いいことですな」
「・・・」
「私の女房なんて鬼のような女でね・・・会社をつぶした私を捨てて出ていきました」
久は仮面をつけたような妻の顔を思い出す。
表情のない冷たい妻・・・本当に妻は自分の帰りを待っているのか・・・久は信じることができない。
「それにしても・・・会社がつぶれるなんて・・・大変でしたね」
「いや・・・今は趣味に使う時間もできて・・・楽しいものですわ」
久は部屋を飾る水彩画に気がついた。
「この絵は・・・徳山さんが」
「まあ・・・絵は素人ですけどね・・・そうそう趣味といえば・・・あなたはベランダでハーブを育てていたんですな」
「ハーブ・・・」
「引っ越して来た時・・・そのままだったんで・・・私が引き継いだんです・・・ほら」
ベランダに並ぶハーブ植物のプランター。
「さすがに一度はもう死んでしまおうか・・・と思ったこともあります」
「そんな・・・生きてるだけで丸儲けって言うじゃないですか」
明石家さんまが娘にいまると名付けたのは1989年のことだった。
母である大竹しのぶは「いまをいきる」と言う意味だと命名の理由のニュアンスを変える。
しかし、おまるという言葉がある以上、娘にいまるなんて命名するのはアホかパーのすることであるという考え方もある。
IMALUが2010年にリリースしたセカンド・シングルのタイトルは「そんな名前 欲しくないよ」だった。
親が非常識でも子は生きていかねばならないのだ。
「落ち込んでいた時には・・・アレで随分・・・慰められた・・・前の住人・・・つまりあなたは心の優しい人だろうと思ってましたが・・・今のあなたを見ていると私の直感は間違いではなかったと思いますよ」
昔の自分を好意的に評価してくれる徳山の言葉に・・・久は安らぎを感じるのだった。
一方、一人息子の良雄(高橋來)と朝食を共にする恵はお茶の間に不機嫌そうな表情を隠さない。
「お母さん・・・昨日、遅くまで起きてたよね」
「・・・料理教室で習ったパン作りの練習をしていたのよ」
バスケットには黒く焦げたパンが積み上げられていた。
「お母さん・・・どうしてお父さんに文句を言わないの」
「仕方ないでしょう・・・お父さんは事故で・・・いろいろと大変なんですもの」
「・・・」
「帰ってきたら・・・あのパンを全部食べてもらいます」
「うえってなっちゃうね」
母と子は微笑みあうのだった。
美しい妻と可愛い息子は・・・久にとって不気味な仮面妻と仮面男子なのである。
前回・・・恵は前妻の香(水野美紀)の通う料理教室に参加したのだが・・・そこで何があったのかは今回は伏されるのである。
あるいは・・・何もなかったのかもしれない。
恵にとって大切なのは・・・少し頭の呆けた夫と・・・幼い息子と自分。
三人が幸せに暮らすことなのかもしれないのだから。
もちろん・・・本当にそうなのかはまだ秘密である。
妻が夫を愛しているかどうか。
どんな家庭でもいつの時代でも夫にとってはそれが最大の謎なのである。
・・・そうなのかっ。
・・・違うとでもっ。
徳山の運転する車で駅へ送られた久は別れ際に名刺を渡す。
「お世話になりました」
「こちらこそ・・・」
一人になった徳山は久の名刺を見る。
そこに記された社名に顔色を変える徳山だった。
恵と良雄は幼稚園に向かう。
「次の日曜日は・・・模擬面接だし・・・その次の日曜は最終模擬面接・・・忙しくなるわよ」
「その日はサッカー大会だよ」
「そうか・・・でも・・・サッカー大会はあきらめないと・・・」
「お受験優先だから」
「そうよ・・・お父さんも言ってたでしょう」
「・・・」
良雄には・・・お受験と少年サッカーの優先度についてわだかまりがあるのだった。
もちろん・・・本当はお受験よりサッカーがしたいのである。
しかし・・・恵はそれに気がつかない・・・あるいは気がついていないフリをするのだった。
たとえ・・・今は忘れていたとしても・・・それは正気だった頃の夫の方針だったからである。
恵は久の方針を尊重しているである。
なぜ・・・恵がそうするのか・・・それもまた秘密なのである。
葵インペリアル証券の受付嬢たちは囁く。
「ほら・・・エリートがきたわよ」
第一営業部のエース・黒木(新井浩文)だった。
「できる男って感じよね」
「狙ってるの」
「そうね・・・でも・・・結婚したら大変そうよね」
「まあ・・・楽して幸せにはなれないもの」
「私はのんびり暮らしたいわ」
「じゃ・・・あっちは」
遅刻ギリギリで駆けこんでくる久。
「いや・・・アレはちょっと・・・」
「問題外よねえ」
「大体、奥さんと子供いるわよ」
「そうなんだ」
第十三営業部の小机部長(西田敏行)と轟課長(光石研)は風邪で休暇をとっていた。
「二人揃ってお休みなんだ・・・」と久。
「何言ってるんですか・・・サタデー・フォーカスで失態を演じて社長に叱責されたショックで・・・休んでいるですよ」と派遣社員・小鳥遊(たかなし)優愛(吉本実憂)が毒を吐く。
「え」
「元はといえば・・・家路さんが・・・家族サービスを優先させたからです」
四月(わたぬき)信次(鈴木浩介)はニヤニヤするのだった。
家族サービス愛好家だからである。
久に徳山から着信がある。
「徳山さん・・・無事に出社できました」
「私の会社を倒産させた・・・葵インペリアル証券・・・本当にあんたがそこの社員だったとは・・・」
「え」
「いや・・・失礼した・・・あんたには無関係なのに・・・つい電話してしまった」
「徳山さん・・・」
「つまらないことで・・・電話してすまない」
驚いた久は資料室に向かうのだった。
久の監視役である小鳥遊は追跡開始である。
徳山の経営していた徳山通販は業界の大手企業だった。
第一営業部が主導した徳山通販によるコバルト通販の買収劇が事の発端である。
買収は成功し、「徳山コバルト通販」が誕生。
しかし・・・直後に・・・コバルト通販の顧客名簿流出事件が発生する。
急速に業績が悪化し・・・資金調達で無理をしたことも災いして「徳山コバルト通販」はあっけなく倒産したのであった。
買収成功後の倒産劇であったために・・・葵インペリアル証券は無傷だった。
久は・・・専務取締役を務めていた徳山社長の妻・葉子(市毛良枝)の顔を見た。
部屋に飾られた水彩画の女性だった。
徳山夫妻の家庭を壊したのが・・・自分の会社だった。
申し訳ない気分になった久は思わず担当者の黒木を訪ねるのだった。
「買収前に・・・相手の会社のことは・・・調査するよな」
「コバルトに問題があったと知っていて強引に買収をしたと言うのですか」
「いや・・・そういうこともあるかなと思って」
「私の知る限りにおいて・・・そういう事実はありません」
「そうか・・・その後・・・徳山さんとは」
「それきりですよ・・・仕事は終わったわけですから」
「それじゃ・・・あまりにも冷たいんじゃ」
「一緒に泣けばよかったとでも・・・」
「・・・」
「私の知っている家路さんなら・・・過去なんて振り返っても仕方ないとおっしゃるでしょう」
「・・・」
「随分・・・人情家になったんですね・・・」
黒木は皮肉な目で久を一瞥した。
久には返す言葉が見つからなかった。
久には振り返る過去がないのである。
家路は再び資料室に戻った。
「また・・・調べ物ですか」と小鳥遊が声をかける。
「この・・・徳山葉子さんの・・・消息を知りたいのだが・・・」
「そんなことを調べてどうするのです・・・」
「個人的に・・・ただ知りたいのです」
「ただでさえ・・・仕事が遅くて残業続きなのに・・・業務中にプライペートな用件ですか」
「・・・」
「ソーシャル・ネットで検索してみましょう」
「個人名で?」
「五年間で・・・個人情報の価値は微妙に変動しているんですよ」
「そうなの・・・」
「知らせたいことは・・・知らせる・・・知らせることに価値があれば・・・ですけどね」
「すべては・・・経済的効果か・・・」
「素晴らしいインターネットの世界では誰でも入手できる情報です・・・この人ですね」
葉子夫人は・・・とある企業に就職していた。
久は夫人が勤める企業の所在地を入手した。
「君は探偵の才能があるんじゃないか」
「あるいは・・・スパイの才能かもしれませんよ」
小鳥遊は嘯いて微笑んだ。
久はサッカークラブの良雄を迎えに行く。
「やはりサッカー大会には参加できませんか」
「え」
コーチの本城(田中圭)に問われて久は戸惑う。
「お母さんが・・・お受験の日程上・・・無理だとおっしゃっていました」
「ああ・・・最終面接のレッスンと重なっているのでした」
「まあ・・・どちらを選ぶかは・・・プライベートな問題でしょうけど・・・」
「・・・」
「良雄くん・・・時々、気になることを言うんですよね」
「気になること・・・?」
「自分には才能がないから・・・って」
「才能がない・・・」
「誰かにそう言われたのかもしれません・・・しかし、子供同士のことだと・・・あまり深入りできないですから」
「才能がないなんて・・・言われたら・・・子供にはショックでしょうね」
「まあ・・・才能があるかないかなんて・・・誰にもわからないと言ったんですけどね。まあ・・・コーチとして」
「そうなんですか」
「そうですよ・・・成長の速度には個性がありますから」
「大器晩成型の方が才能埋もれやすい時代ですよね」
「短期で結果を求める風潮がありますからね・・・まあ・・・私だって代表選手にはなれなかったサッカー少年の一人なんですけど・・・」
「・・・」
「ただいま・・・」
「お帰りなさい・・・」
仮面の妻の仮面が気のせいか・・・いつもより冷たく見える気がする久。
「昨日はすまなかった・・・」
「いいんですよ・・・」
「お母さんはずっとパンを作っていたんだ」
「パン・・・ああ・・・料理教室で」
久は黒こげのパンを見る。
「無理に食べなくてもいいですよ」
「せっかく、君が焼いたんだ・・・」
パンを口にした久は吐き気を感じた。
「まず・・・」
「え」
「まずまず・・・美味しいよ」
「まずうまって・・・下手上手みたいなこと」
「良雄・・・いいこと言った」
「結局・・・不味いんですね」
「いや・・・ヘタウマっていうのは結局、上手いってことだから・・・まずうまっていうのは・・・結局、美味いってことでしょう」
「もういいわ」
良雄は心配そうな顔で両親を見つめるが・・・久にはそれがわからない。
「まだ・・・奥さんとお子さんの顔が仮面に見えるんですか」
「・・・はい」
「そのことをご家族には・・・」
「言えませんよ・・・」
「ずっとですか」
「ずっとです・・・一日中・・・表情はおろか・・・目を開いているのか閉じているのかさえ・・・判別できません」
「それは・・・もはや・・・超能力のようなものですね」
「・・・」
「私は脳外科が専門なので・・・異常心理については・・・断言はできませんが・・・特定の個人だけに認知に問題が生じるということは・・・その人間に特別な思い入れがあるといえるかもしれません」
「特別な・・・」
「そうです・・・だって・・・そうでしょう・・・他の人間の顔は識別できるのに・・・ご家族の顔が識別できないというのは・・・無意識に・・・そのような選択をしているということです・・・心理的な障壁を作っているんですな」
「どんな思い入れなんでしょうか」
「わかりません・・・私は・・・あなたではないので・・・」
「・・・」
主治医の筑波(及川光博)が言葉を濁しているような気がする久だった。
「とにかく・・・あなたは奥さんや子供の顔を見ると無意識に仮面に置き換えてしまう。そういうシステムが構築されているんです」
「なぜ・・・そんなことを・・・」
「わかりません・・・なんらかの感情的なしこりが原因かもしれません」
「しこりって」
「愛か・・・憎しみか・・・あるいは・・・恐怖か」
「私は・・・家族を恐れているのですか」
「さあ・・・とにかく・・・これだけは申し上げておきます。あなたの奥さんはうらやましいくらいに美しい人ですし・・・お子さんは可愛い盛りです」
「・・・」
「それを感じられないあなたに・・・私は同情しますよ・・・医師としては失格かもしれませんけれど」
仕事を早退した久は南茨木の徳山家に侵入し、部屋を掃除する。
「また・・・君か」
「すみません・・・また鍵があいていたので・・・」
「盗まれるようなものがないからね」
「倒産の件・・・知らないこととはいうものの・・・御無礼いたしました」
「いいんだよ・・・社長として決断したのは・・・私だ・・・私の不覚だったのだ・・・あんたの会社の責任じゃない」
「あの・・・鍵をかけないのは・・・奥様を待っているからじゃないんですか・・・」
「・・・」
「あの絵の女性・・・奥様ですよね・・・」
「・・・」
「布団も二組・・・用意して・・・いつ奥様が帰られてもいいようにと」
「何を言っているんだ・・・私はアレがいなくなって・・・清々しとるんだ・・・なにしろ・・・アレはきつい女だったからなあ・・・」
久は徳山の虚勢を敏感に感じ取り・・・心を痛める。
終電で帰った久を恵が待っている。
「すまない・・・」
「模擬面接のことでお話があったのです」
恵は父親用の参考書を積み重ねる。
「え・・・これ・・・全部読むの・・・」
「大事なところには付箋をつけてありますから・・・」
「あの受験のことだけど・・・あまり・・・無理しなくてもいいんじゃないかな」
「なんですって・・・あなたが言い出したことじゃないですか。だから・・・私も趣味の習い事は控えて・・・良雄の受験に備えることにしたんです。あなたの看病やリハビリで大変な時も良雄の受験教室だけはなんとか続けてきましたし・・・今さら」
久はふと・・・恵の顔に怒りが浮かんだような気がした。
「あ・・・今・・・怒ってる」
「なんですって」
「いや・・・ごめん・・・そりゃ・・・怒ってるよね」
「・・・もう・・・いいです」
久は・・・恵の怒りをもっと感じてみたかった。
夫婦の寝室を出ると・・・良雄が立っていた。
「良雄・・・お前・・・本当は」
「もういいよ・・・僕・・・お受験、頑張るから・・・だから・・・ケンカしないで」
「・・・」
久は・・・良雄の仮面が歪んだように感じた。
久は登り棒を登る。
見上げると棒はどこまでも高く伸び・・・先端は虚空に消えている。
どれだけ、高い場所まで来てしまったのか・・・と久は考える。
こわくて、下を見ることはできない。
とにかく・・・上を見て登り続けるしかないのだ。
左手に力をこめて・・・右手を伸ばす。
右手に力をこめて身体を引き上げる。
必死に両足で棒をしめつける。
こんな話・・・どこかで聞いたと久は考える。
蜘蛛の糸か・・・すると・・・あの空の果てにはお釈迦様が・・・。
見上げた久の目に映ったのは・・・久を覗きこむ巨大な仮面だった。
うわっ・・・と思わず手を離した久は落下の恐怖で目を覚ました。
ベッドで妻は熟睡しているようだった。
久は気がついていないが・・・恵は徹夜をして睡眠不足だったのである。
お茶の間の夫たちは夫の身を案じる妻の健気さにうっとりとするのだった。
仮面だっていいじゃないか・・・とため息をつくのである。
模擬面接に親子三人で挑む家路家。
「お勉強なんだからちゃんとやってよ」
「嘘をつくのがお勉強なの」
「・・・」
久は良雄の反抗期を感じるのだった。
「主人は子供の教育にも熱心で主人なのです」と恵。
「御校の教育理念に感銘を受けました」と久。
「良雄さん・・・お父さんはどんな方ですか」と模擬面接官。
「お父さんは夜中にどこかへでかけて・・・朝まで帰ってこないことがあります」と良雄。
「・・・お父さん?」
「・・・・・・・・・・夜釣りです」としどろもどろになる久。
模擬面接官は久の態度が消極的すぎるとダメだしをする。
「ご両親の熱意が大切なのです・・・」
「・・・」
家路家の反省会。
「良雄にサッカーの才能がないって言ったのは・・・あなたですよ」
「え・・・僕が・・・」
「良雄がサッカー選手になりたいと言い出して・・・あなたは・・・サッカー選手になれるのはチームで一番上手な子で・・・それも東京で一番強いチームにいる子だっておっしゃって・・・良雄はそうじゃないから・・・才能がない・・・だからサッカー選手にはなれないと・・・お父さんは家の事情で・・・行きたい学校にもいけず・・・社会にでてからも大変だった・・・良雄にはそういう苦しみを味わいさせたくないから・・・お受験をして・・・進学に道筋をつけたいと・・・私はあなたの気持ちもわかったのでお受験させることにしたのです」
「・・・・」
「言い聞かせたら良雄もわかってくれたのです・・・もう一度がんばりましょう」
仕方なく同意する久だった。
久は思い悩む。
久の家は貧しかった。
統計的には親の学歴が子供の学歴に反映することは明らかなことである。
しかし・・・久はそれを人並み外れた努力で克服してきたのである。
そのことで・・・久は親を怨んでいたのだろうか。
だったら・・・恵まれた家庭で育った恵みを羨んでいたのかもしれない。
そして・・・自分より恵まれている息子を憎んで・・・。
久は暗い気持ちになるのだった。
暗い過去の自分から逃れるように久は徳山葉子に面会するのだった。
「こんなことを他人の私が言うのは僭越だと思いますが・・・ご主人はあなたの帰りを待っていらっしゃる・・・どうか・・・帰ってあげてもらえませんか」
「あなたが・・・それを言うの・・・私を主人の元へ・・・帰りたくても帰れなくさせたあなたが・・・」
「え」
久は意表を突かれた上に・・・徳山夫人からコップの水による顔面洗礼を受ける。
新たなる情報を得て黒木を訪ねる久。
「あの件・・・僕がからんでいたのか・・・」
「そうですよ・・・表面上は私の仕事ですが・・・最初に話を持ち込んだのは家路さんです。夫人の徳山専務はかなり渋っていたのですが・・・最後は家路さん自身が直接、徳山専務を口説き落としました。その巧みな話術はとても勉強になりました。ひょっとしたら色仕掛けも使ったんじゃないかと疑いましたよ。お茶の間的には明らかにされませんが・・・色事師と社長夫人・・・一部には愛好者がいると思います」
「僕はまさか・・・トラブルのことも予測していた・・・」
「いや・・・そこまではどうでしょうか・・・ただ・・・家路さんは本社に戻るために・・・必死になっていましたからね・・・」
「僕が・・・」
「困りましたね・・・家路さん・・・自分が何をしたのか・・・それぐらいは覚えておいてくださいよ・・・ねえ・・・やり手の記憶喪失さん・・・」
「・・・」
黒木はあえてそのことに触れなかったのが・・・無駄を避けるためか・・・それとも家路に対する配慮なのかは謎である。
もちろん・・・総合的な判断であることは間違いない。
人間の心はうかつには割り切れない。
しかし、久は過去の自分に絶望した。
「ひどい話だろう」
「あなたから・・・お仕事の話を聞いたのは初めてです」
「・・・」
「だから・・・本当のところがどうだったのかは・・・わかりません」
「・・・」
「でも・・・あなたはいつも・・・お仕事を一生懸命なさっていた」
「・・・」
「それだけはわかります」
恵は泣きベソをかく久を励ますように・・・久の手に自分の手を重ねた。
久は恵の温もりを感じたように思う。
おそるおそる見上げる久。
しかし・・・そこにあるのは仮面の顔だった。
「ちょっと・・・出てくる」
急に立ち上がった久に戸惑う恵みの顔をお茶の間は見た。
「それで・・・当直のドクターが病欠したのでピンチヒッターをしている私を訪ねてきたわけですね」
「私は絶望しています」
「そうですか・・・さっき・・・急患があって・・・交通事故で脳挫傷で・・・手の施しようがなかった・・・亡くなりましたよ・・・あるいは私はその人を救命できませんでした。あなたは生死の境界線を彷徨って結局、助かった。それをミラクルと言うのか・・・ラッキーと言うのか・・・よくわかりませんが・・・あなたは絶望とおっしゃるのですね。とにかく・・・命は奇跡のようなものです。そういう命がめぐり会って・・・また新たな命が生まれる。それもまた奇跡でしょう。自分を愛してくれる人に巡り合うのだって奇跡ですよ。私なんかこの二十年・・・そういうミラクルにまったく縁がありません・・・どうしてでしょうかねえ・・・まあ・・・私のことはさておき・・あなたには手を握ってくれる人がいらっしゃる。顔が仮面であることくらい目をつぶってくださいよ。あなたに絶望されたら・・・私なんか大絶望じゃありませんかっ」
激昂する主治医だった。
久は目が覚めるような気がした。
結局、久は自己憐憫の虜になっていたのだった。
翌日、久は徳山夫人に再びアタックするのだった。
「どうか・・・ご主人のところへ・・・戻ってください」
「だから・・・それはできないって・・・」
路上での土下座を敢行する久。
「ちょっとやめてちょうだい・・・土下座をすればなんとかなるっていう最近の風潮、ウンザリなのよ」
「徳山さんは・・・奥さんの似顔絵を何枚も何枚も描いていました・・・奥さんが恋しくて恋しくてこのままじゃ・・・淋しくて死んじゃうかもしれません・・・」
「・・・あなた・・・何を言ってるのよ・・・」
憐れな男を前にして・・・仕方なく久に同行する徳山夫人だった。
ききわけのない女です
仕事に疲れ・・・息も絶え絶えに徳山は帰宅する。
そこには徳山ご夫妻のためのディナーを調理をする久と徳山夫人が待っていた。
「葉子・・・」
「あなた・・・」
「さあ・・・できましたよ・・・トマトのパスタとタンシチューです・・・ハーブは自家製です」
「美味しそうだなあ・・・」
「この部屋には不似合いだわ・・・」
「徳山さんは・・・言いました・・・君には待っている家族があってうらやましいと・・・。僕は・・・徳山さんがうらやましい・・・。愛する人の顔を描けるなんて素晴らしいです。僕は事故以来・・・どうしても妻の顔が思い出せないのです・・・妻を見ても人間に・・・見えないのです・・・でも・・・それは贅沢な悩みなのかもしれません・・・逢いたくて逢いたくてたまらないのに・・・お互いに意地を張って逢えない二人より・・・僕の方がずっと幸せですものね・・・」
「あなた・・・私・・・」
「何も言うな・・・会社をつぶしたのは私だ・・・私の一生の不覚・・・痛恨の決断ミスだった。さあ・・・せっかくのごちそう・・・いただこうじゃないか」
「・・・はい・・・あら・・・おいしいわ」
「だろう・・・社長だったら・・・社員食堂のシェフに雇いたいところだよ」
「あらあら・・・」
久は仲睦まじい二人を残し家路についた。
受験ゼミナールの室長面接に臨む家路家の三人。
「主人は休日に子供の面倒を見てくれます」と恵。
「お父さんはよく遊んでくれます。お風呂にも一緒に入って遊んでくれます。サッカーの相手もしてくれます。運動会の棒登りもお父さんが毎日練習につきあってくれたので上手にやり遂げることができました」と良雄。
「お父さんの教育方針はどのようなものでしょうか」と模擬面接官。
「わ・・・私の教育方針は・・・子供の個性をそ・・・尊重して・・・あ・・・すみません、今日は子供のサッカーの試合があるので・・・これで」
「えええええええ」
試合場へタクシーを飛ばす久。
「すまない・・・人生・・・何があるかわからない・・・だから・・・今は良雄のやりたいことをやらせてあげたい」
「しょうがないなあ」と恵。
「やった~」と良雄。
「あ・・・ユニフォーム・・・どうしよう」
「予備のユニフォームがあるはずです・・・シューズは途中のスポーツショップで買いましょう」
「ありがとう・・・」
久は恵の手をとった。
その時、久は恵の仮面がはにかんだような気がした。
仮面の良雄は「目黒区青空ちびっこサッカー大会」の試合会場に飛びだしていった。
久は恵と手をつないで良雄を見送った。
恵の手は手袋のような感触だった。
しかし・・・久は手袋の中に人間の手があることを感じることができた。
久は・・・自分が壁の前に立っていることをようやく認めることができたのだ。
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アンナ「どじっ子ダーリン全開でツボ所大連発なのぴょ~ん。あたふたあたふたをドキドキワクワクで堪能するのぴょ~ん。原作では周囲が優しく優しく久を包み込むのに・・・久はスルーしたり気がつかなかったり・・・自分で自分を打ちのめすばかり・・・ドラマの久は悩みつつ・・・周囲の優しさに反応して・・・周囲に優しさを返していく。どちらも・・・人間ならではですびょん。原作見ても分からない人は・・・ドラマで練習ぴょんぴょんぴょん・・・良雄みたいな上手な嘘のつき方をマスターすればいいのぴょ~ん」
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