大坂城よ・・・私は帰ってきた!(長澤まさみ)
元ネタは「お気に召すまま/シェイクスピア」の「この世は舞台、人はみな役者」である。
・・・明らかに違うだろう・・・ジオン残党のあの人だろう。
まあ・・・パロディーの原点なんてどうでもいいさ。
続々と入城する牢人たち・・・。
真田幸村を迎え入れた大野修理大夫治長は母が大蔵卿局で淀殿の乳母である。
つまり、淀殿とは乳兄妹・・・ほぼ同時期の生れである。
治長も秀吉の馬廻衆だが天正十七年(1569年)には丹後大野一万石の大名となっている。
この頃、真田幸村こと信繫は秀吉の人質となっている。
その後、秀吉の馬廻衆となった信繫は知行二万石の大名扱いであり、文禄三年(1594年)には大野治長とともに伏見城の普請をしており・・・顔見知りだったわけである。
大野治長は関ヶ原の合戦では東軍に属しており・・・片桐且元とともに・・・家康家臣として秀頼の家老を勤めていたのである。
大坂城には治長の弟の治房と道犬斎治胤がいる。
末弟の治純は徳川家の人質を経て家康の旗本となっている。
牢人の受付をしていた木村重成の母は宮内卿局で秀頼の乳母である。
つまり、重成と秀頼は乳兄弟なのである。
淀殿の乳兄弟が大野三兄弟で、秀頼の乳兄弟が木村重成ということである。
重成が受け付けた後藤又兵衛基次や毛利勝永の他に名簿には数人の名が見えた。
京極備前は京極高次の従兄弟とされる謎の武将である。
仙石豊前守秀範は仙石秀久の次男で西軍に与したために父から勘当されて牢人となった。
仙石家と真田家は信濃支配をめぐりこの後、いろいろともつれる仲である。
大谷大学助吉治は幸村の正室の弟である。つまり、大谷吉継の子である。
長岡与五郎興秋は細川忠興の次男だが徳川家の人質となるのを嫌い出奔した過去を持つ。
長宗我部土佐守盛親は西軍に属し、領国を没収されている。
幸村、基次、勝永、盛親に明石全登を加えて牢人五人衆である。
年末にかけて長丁場の大坂の陣・・・。
名前だけでなく・・・本人が登場するのか・・・興味深い。
で、『真田丸・第41回(NHK総合20161016M8~) 脚本・三谷幸喜、演出・木村隆文を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。今回は何代目なのか不明な伊賀忍者・服部半蔵の描き下ろしイラスト大公開でお得でございます。秘術・押し通るデターッ!・・・でございましたね。八方塞の場合、正面突破はお約束でございますな。夕方のガンダムアニメでもやってましたぞ。北に川、西に海、東に広田という大坂城。攻め口となることが予想される南側に突出する真田丸もまた・・・一種の正面突破でございますよねえ。攻守が混然となる戦場の妙と申せましょう。「私の好きだった真田家の次男坊はどこへ行ったの」というきりの言葉を受けて・・・監視役に酒を飲ませ、一族郎党で雁金踊り。脱出して集結してまた脱出。変装して大坂城入り。父の手柄は息子の手柄。やんちゃな源次郎復活でございましたねえ。人生の最後で輝く人の物語・・・その終盤戦が始ったのですな。これは楽しいですねえ。一方・・・まだまだ長い人生の残っている兄の信之一家。歴史資料的な曖昧さをついて・・・正室の子と側室の子の葛藤を見事に物語に仕立ててきました・・・本当にのりにのっておりますねえ。大坂の陣で敗走する真田の若き兄弟の麗しいシーンが目に浮かびまする。さあ・・・真田丸はいつお目見えするのか・・・期待で胸が高鳴ります!
慶長十九年(1614年)十月二日、徳川家康は旗本・大野治純に大坂城の探索を命じる。
四日、徳川義直(家康九男)が尾張名古屋城に進発。
五日、京都所司代・板倉勝重が駿府に米の買い占めなど大坂城の合戦準備状況を急報。真田幸村ら牢人衆が大坂城に入城。七日、奥州仙台の伊達政宗に家康よりの出馬命令が届く。八日、藤堂高虎が大和へ進発。十日、政宗が出陣。大坂城には秀頼配下の三万人の他、牢人衆が六万人、子女などを合わせると十万を越える人数が集結していた。大野治長は西の博労ヶ淵、北の福島、東の今福など大坂城の周囲に砦の構築を開始する。牢人衆は周囲の砦作りには反対したが南方に出城を作ることが急務と上申する。江戸に出府中だった紀伊和歌山城主・浅野長晟、土佐高知城主・山内忠義らが駿府に出仕。家康は出馬を命令。十一日、大御所・家康が駿府を出陣。十二日、掛川城の家康の元に一万騎が集結。大野道犬斎が堺を奇襲。堺奉行芝山正親は岸和田城に脱出。十四日、片桐且元の家臣・多羅尾半左衛門らが堺に救援に赴くが包囲殲滅される。十六日、義直、名古屋城を出陣。十七日、家康が名古屋着。京に大坂方の山賊が侵入、板倉勝重が撃退。京に越前の松平忠直(家康の孫)と加賀の前田利光が着陣。二十日、家康が近江柏原に着陣。江戸より伊達勢一万、上杉景勝五千が先手として出陣。二十三日、徳川秀忠が江戸を出陣。二十四日、家康が京都二条城に着陣。本田正純が秀忠に「出遅れていること」を注進。
大坂城は熱気を帯びていた。
信繫は城内の真田屋敷が十四年前と同じようにその場にあることに驚いた。
大野治長の好意で・・・住んでいた家臣は別の屋敷に移されたらしい。
「懐かしゅうござろう」
「難波のことが・・・つい昨日のように思い浮かびまする」
「太閤殿下の馬廻衆として・・・左衛門佐殿には・・・申しわけなき歳月でござった」
「すべては・・・定めでござろう」
「片桐様を討とうとしたこと・・・今思えば・・・愚策でござった」
「駿府の大御所は・・・何れにしろ・・・秀頼様の存在を・・・お許しあるまい」
「千姫様・・・あっても・・・であろうか」
「無論のこと・・・お家のために・・・わが妻、わが子の命を惜しまないお方ゆえ」
「・・・」
「ついに・・・戦のなき世をお作りになられた・・・その仕上げをせずにはいられまい」
「豊臣家は・・・どうなるのであろう」
「まずは・・・戦に勝てぬまでも・・・負けぬことです」
「・・・」
「そして・・・大御所の寿命の尽きるのを待つしかありませぬ」
「大御所様の・・・」
「さすれば・・・将軍は・・・秀頼様の舅・・・お上様は・・・御台所の姉君となります」
「つまり・・・豊臣家の生きる道が残されるということか」
「戦はやってみなければ・・・わかりませぬゆえ・・・」
真田信繫は・・・京の方角から・・・東へと目を転じた。
秀忠の雑兵にまぎれた真田幸村は・・・東海道を西へ向かう秀忠から距離を置いていた。
江戸を発つと一日で藤沢に着いた秀忠は・・・強行軍で三日後には掛川を通過していた。
総勢六万人の大軍勢を置き去りにして秀忠は近臣数十騎と突出していた。
秀忠の周囲は・・・江戸城お庭番の忍びが結界を張っている。
大軍勢に紛れ込んでいなければ・・・さすがの真田忍びの頭も・・・網にかかってしまうのである。
江戸と京都の間には一里ごとに早飛脚が置かれている。
大御所と将軍の間には忙しく通信が行きかう。
将軍は・・・「開戦をお急ぎなさるな」と懇願し・・・大御所は「遅し」と応じるのである。
吉田の宿で・・・幸村を大坂から「繋ぎ」に来た霧隠才蔵が待っていた。
「信繫様は・・・はや大坂城に入りました」
「大御所は」
「二条城で・・・軍勢を待っております・・・北国から三万、東海道から三万が・・・すでに伏見に先着しておりました」
「将軍は・・・いささかあわてておるの」
「十一月朔日には岡崎を発ち・・・岐阜にむかっておりまする」
「殺って殺れぬわけではないが・・・将軍を殺しても詮無いからのう」
「信繫様から・・・京に将軍到着の後は・・・幸村様には京に残ってもらいたいとのこと」
「才蔵・・・」
「は」
「信繫に・・・幸村を名乗るように伝えよ」
「お頭・・・」
「儂は・・・隠居する」
「・・・」
「負け戦になった時には・・・殿(しんがり)が必要だわい」
「それでは・・・京の真田屋敷に・・・」
「信繫には・・・城中の忍びに用心を怠るなと伝えよ」
「幸村様も・・・お達者で・・・」
「儂は今日から真田源心坊じゃ」
才蔵は秋の野を駆け去った。
旅の僧侶となった真田忍びの元頭はふらりと立ち上がる。
元の真田幸村は・・・急速な身体の衰えを感じていた。
(術も落ちたわ・・・)
浜に真田水軍衆の小舟が待っているはずだった。
しかし・・・周囲には殺気が満ちている。
(お・・・これは・・・)
血の匂いが潮にまぎれて漂う。
次の瞬間・・・三人の忍びが殺到し・・・旅の僧侶の首が舞う。
将軍配下の柳生忍びたちは死体を放置して立ち去った。
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