左京局と呼ばれて(武井咲)
浅草唯念寺の住職勝田玄哲の娘・きよは・・・桜田御殿に出仕して喜世となり・・・徳川綱豊(後の家宣)の寵愛を受けてお喜世の方となり・・・家宣の子・世良田鍋松を産んで左京局(さきょうのつぼね)となった。
大出世である。
きよが赤穂浅野家の侍女だったという史実はないが・・・きよの兄である勝田善左衛門の妻は赤穂浅野家の侍女であったと言われる。
ここから・・・磯貝十郎左衛門の内縁の妻であったきよが・・・月光院となるという奇想天外な虚構が紡がれているわけである。
その物語も終盤を迎えている。
きよが月光院となるまで・・・後一歩である。
で、『忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣〜・第19回』(NHK総合201702181810~)原作・諸田玲子、脚本・吉田紀子、演出・清水一彦を見た。赤穂義士・磯貝十郎左衛門(福士誠治)の内縁の妻・きよ(武井咲)は「赤穂浅野家再興の志」を胸に儒学者・細井広沢(吉田栄作)らの画策により、甲府宰相・徳川綱豊(平山浩行)に送り込まれる。五代将軍・綱吉によって将軍世嗣と定められた綱豊は徳川家宣となって江戸城西の丸に入る。十郎左衛門への恋心から・・・虚無に囚われていたきよだったが・・・将軍家の血筋を絶やさぬことを宿命とする家宣の心に触れて・・・身も心も家宣に捧げる覚悟が定まるのだった・・・。
ある意味・・・乙女心が蹂躙される話なのであるが・・・そういう時代なのである。
家宣の祖父にあたる家光を産んだ崇源院(お江)は徳川秀忠と婚姻する前は豊臣秀勝の妻であり、その前には佐治一成の妻であった。
徳川家康の母である伝通院(於大の方)を産んだ華陽院(源応尼)は水野忠政、松平清康、星野秋国、菅沼定望、川口盛祐に嫁いでは後家となっている。
それが女の務めだったのである。
ドラマ的には十郎左衛門に処女を捧げた体であるが・・・側室となるのに不足はないのだった。
家宣の正室である近衛熙子(川原亜矢子)は後水尾天皇の孫で霊元天皇の姪、そして東山天皇の従姉という雲の上の存在で・・・ある意味、きよはどこの馬の骨だかわからない存在である。
しかし・・・お子を孕めば・・・お部屋様なのである。
宝永五年(1709年)十二月・・・家宣の側室の一人、大典侍(おおすけ)の方ことお須免(野々すみ花)は徳川大五郎を出産する。
いずれも早世した熙子の産んだ夢月院、右近局(内藤理沙)の生んだ家千代に続く家宣の三男である。
そして・・・お喜世の方にも懐妊の兆しがある。
「お腹にお子を授かりました」
「・・・でかした」
家宣に褒められ微笑むお喜世であった。
宝永六年(1709年)一月・・・お喜世の方は江戸城西の丸奥御殿に部屋を与えられ左京局となった。
左京局付の中臈江島(清水美沙)は「お部屋様としての心得」を左京の局に説くのだった。
「けしていまわしきものをごらんになってはいけませぬ」
思わず・・・江島の顔を見る左京局・・・。
「妾の顔がいまわしゅうございますか」
「江島様・・・けしてそのようなことはありませぬ」
「江島とお呼びください・・・あなた様は・・・将軍世嗣のご側室という身分になられたのでございます」
「江島様・・・」
「江島でございます」
戸惑う左京局である。
大五郎の誕生・・・左京局懐妊で賑わう西の丸奥御殿。
そして・・・一月十日・・・。
江島は・・・御年寄の唐澤(福井裕子)に呼び出される。
奥座敷には正室・熙子、大典侍の方、正室付御年寄の岩倉(福井裕子)が顔を揃えていた。
「先ほど・・・本丸より報せがあった・・・公方様がお隠れになった・・・」
五代将軍徳川綱吉は麻疹により薨去した。享年63だった。
江戸城は徳川綱吉の葬儀に向けて動き出した。
徳川家宣の側用人となった間部詮房(福士誠治2役)と旗本で朱子学者の新井白石(滝藤賢一)は綱吉の政治の象徴といえる「生類憐れみの令」を一月二十日に廃止した。
新時代の幕が開いたのである。
「生類憐れみの令」が悪法であったとは言えないという研究もあるが・・・人命よりも畜生の命を大切にする法令が良法でないことは明らかだった。
「生類憐れみの令」の廃止に庶民は快哉を叫んだ。
五月一日・・・徳川家宣に将軍宣下があり・・・家宣は名実ともに・・・江戸城本丸の主となったのだった。
七月三日・・・左京局は家宣の四男・世良田鍋松を出産する。
ここでドラマは虚構空間に突入する。
三男・大五郎が早世するのは宝永七年(1710年)八月のことであるが・・・ドラマでは鍋松が生れる前に薨去してしまうのである。
なにしろ・・・虚構なのでなんでもありなのだった。
伊豆大島に遠島にされた赤穂浪士の遺児たちは浅野内匠頭の正室・瑤泉院(田中麗奈)やきよの伯母である仙桂尼(三田佳子)の尽力により、宝永三年(1706年)八月の徳川家綱の二十七回忌法事による特赦として中村正辰の長男・忠三郎も、吉田忠左衛門兼亮(辻萬長)の四男・伝内兼直も江戸に帰着している。綱吉が死去した宝永六年には大赦によって・・・僧となっていたものが還俗を許されたのである。
そして、内匠頭の実弟である浅野大学も赦免され五百石の旗本に列したのである。
つまり・・・鍋松が生れた一ヶ月後には浅野家のお家再興は叶ったのである。
だから・・・仙桂尼が「きよが将軍のお子を産みました」と報告し、瑤泉院が「やったな」と叫び・・・落合与左衛門(山本龍二)が「万歳三唱」をして瀧岡(増子倭文江)が「ほんにほんに」と言ってハッピーエンドなのであるが・・・やはり・・・きよが月光院になるまで描きたいらしい・・・。
なにしろ・・・下世話な世界では・・・月光院よりも「江島事件」の方が受けるからな。
そういうわけで・・・おどろおどろした・・・江戸城西の丸である。
時は遡り・・・宝永六年の梅雨時・・・。
臨月の迫る左京局の食が進まぬことを案ずる江島・・・。
奥医師の一人であるらしい上岡法印(村松卓矢)に相談し・・・燕巣(えんず)を長崎から取り寄せる江島だった。
「燕の巣でございます」
「燕の巣・・・」
「お肌がつやつやになると申します」
「おえっ・・・」
仕方なく・・・三河国とも甲斐国とも言われる江島の里から西瓜をとりよせる江島だった。
その頃・・・大五郎は夏風邪をひいていた。
江島の西瓜を見た大典侍の方付の侍女が・・・大五郎のために分け与えてもらう。
西瓜を食した大五郎は・・・食中毒の症状を示すのだった。
慶長の頃に法印となった野間玄琢の家系であろう奥医師の野間法印(麿赤兒)は顔を顰める。
「薬湯をのませておけば・・・」
熙子は江島を問いつめる。
「そなたは・・・左京の局の子が・・・それほどまでに・・・可愛いのか」
「滅相もない・・・誤解でございます・・・西瓜は左京の局様のために用意したもので」
「左京は・・・食うたのか」
「いえ・・・なにしろ・・・食が・・・」
「大五郎だけが西瓜を食べて・・・このようなことになったのじゃ」
「お許しくださりませ・・・」
「大五郎にもしものことあれば・・・ただではおかぬ」
江島の身を案じて臨月の腹を抱え左京局が現れる。
「江島は・・・お血筋を絶やさぬことを一心に案じているものでございます・・・けしてそのような邪なことはいたしませぬ」
「ええい・・・さがっておれ・・・妾は大五郎のために御祈祷らねばならぬのじゃ・・・」
しかし・・・産気付く左京局。
「左京・・・」
「左京の局様」
「誰かあれ」
産婆(外海多伽子)がかけつける。
ドラマでは看護の甲斐なく・・・大五郎は史実より一年早く・・・世を去るのだった。
「あああああ」
「左京局さま」
「うううううう」
「しっかりなさいませ」
「おおおおお」
「江島がついておりまする」
「えじまああああああ」
「おぎゃあ」
こうして・・・鍋松はこの世に生を受けた。
「この子は・・・大五郎の生まれ変わりのようじゃ」と誰もが思うのだった。
近衛煕子は・・・生れた子を引きとると申しつける。
江島が言上する。
「おそれながら・・・申し上げます・・・左京の局様がお腹を痛めた子・・・どうか日に一度の御目通りを賜りますことをお許しくだされませ」
「苦しゅうない・・・よきにはからえ」と将軍・家宣・・・。
「妾とて・・・」と煕子。「子を孕み産んだ身じゃ・・・左京の心は心得ておる・・・日に一度は鍋松に会いに参るがよい」
十一月・・・西の丸御殿の女たちは本丸大奥へと引っ越す。
鍋松を抱き・・・庭を渡る家宣・・・。
「左京よ・・・大五郎のみならず・・・鍋松は・・・早世した我が子たちの生まれ変わりのように思うてならぬのだ・・・」
「公方様・・・」
「そちには・・・褒美をとらせたい・・・何が望みじゃ・・・」
「・・・」
万感が胸に迫り・・・言葉を失う右京局だった。
月光が江戸城を照らす。
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