月光院老いとなるまで憂き旅に(武井咲)
月光院は歌集「車玉集」を残している。
「かくばかり老となるまで憂き度に生けらん身とは思わざりしを」(このように老いてまで憂いばかりの人生になるとは思わなかった)という壮絶な歌を読む。
牢人の娘に生れて・・・将軍の生母になるという・・・この上なしの玉の輿に乗った女人としては・・・今なら炎上確実のつぶやきと言える。
しかし・・・将軍の側室となって四年目に未亡人となり・・・将軍の生母となって四年目に子に先立たれる。
夫と子を失ってから・・・三十数年の余命を生きた女の言葉としては・・・それなりに納得できるものがあるだろう。
ドラマでは・・・さらに・・・赤穂義士・磯貝十郎左衛門(福士誠治)の内縁の妻だったという玉の輿前の衝撃の虚構が付加されているわけである。
ここまで来ると・・・世にも奇妙な物語の系列と言っていいだろう。
将軍生母となった月光院はお付の御年寄・江島による「絵島生島事件」の脇役でもある。
そして「絵島生島事件」の後は・・・あまり物語られることはない。
しかし・・・次の将軍の後ろ盾として・・・その末期まで存在し続けるわけである。
ここまで来たら・・・そこまで見たい気分なのである。
まあ・・・そうなると・・・大河ドラマになっちゃうわけだが・・・。
で、、『忠臣蔵の恋〜四十八人目の忠臣〜・最終回(全20話)』(NHK総合201702181810~)原作・諸田玲子、脚本・吉田紀子、演出・伊勢田雅也を見た。きよ(武井咲)の人生の半ばであるが大団円に突入である。五代将軍・綱吉によって将軍世嗣と定められた甲府宰相・徳川綱豊(平山浩行)の側室・お喜世の方となったきよ。宝永六年(1709年)一月に綱吉が逝去して五月に綱豊は六代将軍徳川家宣となる。そして七月に左京局となったきよは家宣の四男・世良田鍋松を出産する。ドラマでは順序が脚色されるが・・・宝永七年(1710年)八月に大典侍(おおすけ)の方ことお須免(野々すみ花)の産んだ三男・大五郎が早世し・・・きよが産んだ子が唯一の将軍世嗣となってしまう。
「そなたの望みを叶えてやろう・・・」
このドラマではきよの願いは・・・亡き磯貝十郎左衛門(福士誠治)が願った「赤穂浅野家の再興」であった。
その願いは・・・内匠頭の実弟である浅野大学が赦免され五百石の旗本に列したことによってついに果たされる。
浅野内匠頭の正室・瑤泉院(田中麗奈)はきよの伯母である仙桂尼(三田佳子)を伴って・・・大奥に参上する。
「奥方さま・・・」
「左京局様・・・惧れ多いことでございます・・・そのように呼びかけられては・・・恥いるばかりでございます・・・どうか瑤泉院とお呼びくださりませ」
「・・・」
「左京局様のお力により・・・ついに悲願成就いたしましたこと・・・御礼申し上げまする」
「私などは・・・何もいたしておりまぬ・・・」
「いいえ・・・左京局様は・・・男たちの誰もが成し遂げられぬことをいたしました」ときよの母親・勝田さえ(大家由祐子)の姉である仙桂尼は言上した。
「・・・」
「公方様のお子をお産みになられた・・・それは女にしかできないことでございしょう」
仙桂尼は微笑んだ。
姉妹の父親は松平伊勢守康員(石見浜田藩主)の家臣・和田治左衛門と言われている。
夫のある身でありながら・・・加賀前田藩士の勝田玄哲(著邑)と駆け落ちした妹の不始末にどれだけ困惑したことか・・・という思いを秘めた仙桂尼なのである。
しかし・・・その妹の娘が大業を成し遂げたのである。
思わず笑ってしまうのだった。
そして・・・身内によるお祝いは続く。
父親で浅草唯念寺の住職となった勝田玄哲(平田満)と・・・念願が叶い士分に列した勝田善左衛門(大東駿介)と妻のつま(宮崎香蓮)、そして堀部安兵衛の従兄弟で、勝田家の縁戚でもある佐藤條右衛門(皆川猿時)が参上するのだった。
ドラマでは明らかにされないが・・・きよが将軍世嗣の側室となった時点で・・・つまり・・・五代将軍・綱吉の存命中に・・・勝田家は武蔵国と相模国に領地を持つ旗本寄合席にとりたてられている。
勝田善左衛門もしくはその兄弟は・・・勝田安芸守と呼ばれる三千石の大身となっているのである。
つまり・・・石高では・・・浅野大学の六倍の身上なのだった。
なにしろ・・・将軍世嗣の懐妊中の側室なのである。
建前としては矢島治太夫の養女であるきよだが・・・本当の実家にもそれなりの身分が必要とされるわけである。
何事もバランスである。
三千石の旗本ともなれば・・・それなりに家臣を持たなければならない。
おそらく・・・浅野家の旧臣も抱えたわけだろう。
妹の玉の輿によって・・・兄も大出世なのである。
とにかく・・・ドラマではその辺りの生々しいところはスルーなのである。
「おめでとうございます」と言上するしかない勝田一族だった。
将軍となった家宣は側用人となった間部詮房(福士誠治2役)と朱子学者の新井白石(滝藤賢一)の両輪によって・・・幕政改革を開始するのだった。
「生類憐れみの令」の廃止は手始めに過ぎない。
新井白石は朝廷との関係を良好にするために新しい宮家を創設し、酒税を減税し、幕府直轄領に増税し、朝鮮通信使の待遇を簡素化し、貨幣を改鋳し・・・と内政・外交ともに次々に新政策を打ち出したが・・・すべてが成功したわけではなかった。
そして・・・きよのつかの間の平穏な日々は・・・家宣の健康状態の悪化により・・・終焉を迎える。
後継者問題に悩む家宣は・・・次期将軍に・・・徳川御三家の一家・尾張徳川家の藩主・徳川吉通を推すことを考える。
しかし・・・白石はこれに反対する。
「血統がすべてです・・・将軍に実子があれば・・・これが後継するのが最上」と家宣を説得する。
御三家が招集され・・吉通も水戸徳川家の綱條、そして紀伊徳川家の吉宗も家宣の嫡子の将軍継承に賛同する。
正徳二年(1712年)十月・・・家宣は病床に・・・左京局を読んだ。
「公方様・・・お顔の色が艶やかでございますね」
「左京・・・そなたは嘘が下手だな」
「・・・」
「我が子の行く末をしかと頼んだぞ」
「公方様・・・私は・・・公方様に会う前に・・・一度死を覚悟した身でございます。そんな私に公方様は・・・お子を授けてくださり・・・母になる喜びを与えてくださいました・・・私にとって公方様は・・・光明そのものでございます。どうか・・・末永く・・・私を照らしてくださいませ」
「左京・・・明日も・・・余はそなたを呼ぼう・・・ゆるりと物語などしようではないか・・・そなたが最初に我が寝屋に参った夜のように・・・」
しかし・・・次の夜・・・左京局が召されることはなかった。
十四日・・・家宣は逝去した。享年五十一だった。
家宣の正室・近衛煕子(川原亜矢子)は大奥の女たちに告げる。
「公方様がお隠れ遊ばされた・・・まことにお優しいお方であらしゃった・・・」
近衛煕子は落飾して天英院となった。
須免(野々すみ花)は蓮浄院となった。
古牟(内藤理沙)は法心院となった。
そして左京局は月光院となった。
正徳三年(1713年)三月、鍋松は数え五歳で元服し・・・四月に将軍宣下を受けて第七代将軍・徳川家継となった。
月光院は・・・将軍生母となったのである。
江島は月光院付の御年寄として・・・大奥女中の一つの頂点にたった。
上には天英院付の上臈御年寄がいるが・・・そこには公家の空気が濃厚である。
武家の女としては江島が大奥のトップになったといっても過言ではない。
しかし・・・権力闘争の渦巻く幕府なのである。
大奥にもその余波は及ぶ。
前将軍正室の天英院と将軍生母の月光院との間には両者が好むとも好まざるとも関係なく軋轢が生じるのだった。
正徳四年(1714年)、江島生島事件により江島は大奥を追放される。
享保元年(1716年)、家継が逝去し・・・第八代将軍を吉宗が継承する。
天英院と月光院は手を携えて吉宗を推奨したという。
しかし・・・それはまだ先の話。
大奥の片隅で琴を爪弾く月光院の元へ・・・幼い将軍が現れる。
「母上」
駆け寄る愛児を抱きしめる・・・きよだった。
きよの人生はまだ半ばなのである。
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