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2017年4月30日 (日)

永禄十年、織田信長天下布武の朱印を用いる(柴咲コウ)

永禄五年(1563年)に井伊直親が朝比奈泰朝に討たれて・・・前年に生れた虎松が残される。

虎松が後に徳川四天王の一人、井伊直政として歴史に名を残すために・・・井伊家というものが歴史的に研究される対象となるわけである。

研究者たちは・・・残された史実(発給文書や墓誌)や個人的な日記、口伝の覚書などを元に・・・井伊家の実像にせまるわけだが・・・それらはある程度・・・その時代に都合よくまとめられたものにすぎない。

そもそも・・・「過去」という膨大な情報の再構築は不可能なものなのである。

悪魔とされるサタンは・・・神の敵であるが・・・敵である以上・・・サタンもまた古き神なのである。

井伊家の語る歴史において・・・小野家が敵役となるのは・・・自分たちが正当であることを主張しているにすぎない。

歴史は勝者によってつくられることが大前提なのである。

そこで生れた井伊次郎家を継ぐ女城主・直虎の伝承から・・・この大河ドラマは作られている。

当然・・・本当の本家である井伊太郎家があったはずだが・・・それは歴史の闇に葬られているわけである。

比較的新しい井伊分家である中野家と・・・分家の分家であるが血縁によって力を保持する奥山家によってかろうじて支えられる井伊次郎家の娘・次郎法師と・・・次郎法師の父・直盛の養子である井伊直親の忘れ形見・虎松との微妙な関係は・・・脚本家の妄想力をかきたてるわけである。

平安時代と呼ばれる承和七年(840年)に完成した「日本後紀」によれば延暦十八年(799年)に三河国に崑崙人らしき異人が漂着し綿の種子を日本に持ち込んだとされる。

この記述によって・・・三河国の人々は我こそが「元祖綿作り」を主張するわけである。

しかし・・・日本国の綿の生産力は乏しく・・・その後、五百年以上は半島や大陸からの輸入に頼る高級品であったという。

戦国時代になって・・・国内の綿花の栽培が本格的に開始されたというが・・・本格的な増産は豊臣政権の確立後であろうと推測される。

つまり・・・近畿地方がその生産拠点であっただろう。

そういうことは元祖的に・・・東海地方の人々にとって・・・あまり触れたくないことであると妄想できるのだった。

ついでに為政者にとって・・・農地の拡大は常に課題だった。奈良時代と呼ばれる養老七年(723年)には三世一身の法が発布されている。

墾田の奨励のために開墾者から三世代まで墾田私有を認めるというわけである。

孫の代までじゃモチベーションがあがらないというものもあり・・・やがて・・・日本中に私有地が拡大していくのだった。

三年間の年貢免除で・・・開拓農民が本当に喜んだのかどうかは定かではない。

そもそも・・・この時代にはまだ士農工商という身分制度はないのである。

で、『おんな城主  直虎・第16回』(NHK総合20170423PM8~)脚本・森下佳子、演出・藤並英樹を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。画伯お加減いかがでしょうか・・・。時系列的には・・・永禄十一年(1568年)三月、今川義元の母・寿桂尼が死去して・・・八月に今川家臣の関口氏経が井伊直虎に書状で徳政令を促している。さらに十一月に井伊次郎と氏経が連名で徳政令に署名したということになっていますが・・・十二月には武田信玄が駿河侵攻を開始する。その直前の・・・遠江国は・・・戦とは無縁の牧歌的な世界だった・・・という趣向なのでございますねえ。松平家康による吉田城攻略が永禄八年(1565年)で織田信長による稲葉山城攻略が永禄十年(1567年)なので・・・茶屋の噂話によれば・・・ドラマの中ではその間の時空間が進行しているようでございます。荒れ地を開拓したら私有地とするとか・・・綿花栽培による産業振興とか・・・いろいろな時代が混交しているような気がしないでもないですが・・・局所的にはあってもおかしくない話なので・・・絵空事としては成立しておりますよね。人身売買を肯定的にとらえるとか毒も効かせていて脚本家の矜持も感じますな。そのうち・・・「米がなければ饅頭を食えばいいではないか」と主人公が言い出すのではないかと胸がときめく今日この頃でございます。週一更新にしてから・・・どんどん・・・更新が遅れて行くのも・・・人間性の証明と言えましょう。うわあ・・・ついに日曜日だ・・・です。

Naotora016 弘治三年(1557年)、第百五代後奈良天皇が崩御。永禄二年(1559年)、本願寺顕如が朝廷に献金し、綸旨によって門跡となる。永禄三年(1560年)、毛利元就が従四位下陸奥守に叙任される。元就の献金で第百六代正親町天皇は即位の礼を挙げた。永禄七年(1564年)、松平家康が三河国吉田城攻略戦を開始。永禄八年(1565年)、家康家臣・酒井忠次が吉田城主となる。永禄十年(1567年)五月、家康の嫡男・信康と織田信長の娘・徳姫の婚姻が成立する。信康の母親である築山殿を井伊直平の娘が産んだという説にたてば井伊家と織田家は親戚関係になったわけである。しかし、これには言うまでもなく諸説あるのだった。徳川信康も次郎法師直虎も・・・井伊直平の曾孫であるという説があるだけである。永禄十一年(1568年)三月、今川義元の母・寿桂尼が死去。九月、信長は将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し上洛戦を開始。十月、信長は正親町天皇の保護を大義に掲げ京を制圧する。義昭は室町幕府第十五代将軍となった。

三河国と遠江国の国境を越えて・・・林崎甚助と関口外記は井伊谷を目指していた。

三河国による今川方の相次ぐ敗戦で・・・国境では落武者狩りが横行している。

親類縁者を頼って戦火を逃れてくる農民にまぎれて城を失った領主一族も落ちのびてくるのだが・・・殺気だった武装農民たちは・・・これを見逃さず・・・密かに襲撃して・・・男は殺し、財を奪い、女子供は売り飛ばすのである。

家康に嫁いだ瀬名姫の父・・・関口親永が今川氏真によって処刑されると関口一族は駿河に残るもの・・・北条領に逃れるもの・・・武田信玄に密かに内通するものなど・・・様々に分かれて行く。

関口外記は瀬名姫付であったために・・・好むと好まざるとに関わらず家康の家臣となっていた。

駿河の領地は氏真が没収し、三河の関口領はすでに家康の裁量下に置かれている。

関口一族は領土を失ってしまったのである。

諸国を塚原卜伝と回遊した林崎甚助は今川氏真に剣術指南をしたこともあり・・・関口外記とは旧知の間柄である。

家康の密命を受けた関口外記が井伊谷に使者に向うことになり・・・徳川信康屋敷に滞在中の甚助が警護役を請けたのだった。

もちろん・・・目的は井伊谷衆の調略である。

一向は・・・外記の郎党と甚助の門弟を合わせて十人だった。

これだけの人数を揃えても・・・武装農民に襲撃されれば安穏とはしていられないのである

神社仏閣に一夜の宿を求めれば毒を盛られる可能性もある戦乱の世である。

しかし・・・長く諸国を武者修行する甚助には各地に顔が利くために・・・比較的安全に通行が出来るのだった。

遠江国の野武士が作った山賊の関を越えたところで百人ほどの一揆勢が一行を囲む。

「待て待て・・・我は林崎甚助じゃ・・・これは・・・我が門弟たち・・・うかつに手を出せば怪我をするぞ」

その声に応ずるものがあった。

「これは・・・林崎先生だったずらか」

「お・・・」

「村で先生に教えを受けたものずら・・・」

甚助は・・・農民たちにも・・・剣の手ほどきをすることがある。

「さようであったか」

「先生たちに手を出すわけにはいかねえずら・・・」

「それはありがたいな」

「いんや・・・先生とお弟子様たちに手を出せば・・・こっちに死人が出るに決まってるずらよ」

「まあ・・・なるべく殺生はせぬように手加減はするがのう」

甚助は微笑んだ。

「どうぞ・・・お通りくだせえ・・・なんなら・・・村でお休みなさってもかまわねえずら」

「いや・・・先を急ぐので・・・このまま行かせてもらうぞ・・・達者でな」

緊張していた関口外記はようやく肩の力を抜いた。

「さすがは・・・林崎殿・・・」

「なになに・・・たまたまのことでござるよ」

こうして・・・一行は無事に井伊谷に到着した。

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2017年4月21日 (金)

永禄九年、北条相模守氏康隠居となる(柴咲コウ)

ドラマはあくまでフィクションである。

大河ドラマの背景には・・・史実という原作があるわけだが・・・正史はもとより伝承もすべてフィクションと考えることができる。

事実とはことなる・・・後世の「つくりごと」にすぎない。

しかし・・・「つくりごと」の存在の共有は・・・「文化」というものを促すわけである。

自称公共放送の国会における答弁を覗っていると・・・「国」は今も「文化」によって「国」という「つくりごと」を維持することを心がけていることがよくわかる。

「地方の活性化」による「国家」の発展や・・・共通の「歴史認識」による「国民」の育成は・・・あらゆる格差が内乱に繋がることを抑制するための安全装置だからである。

武力の行使を認めないという隷属的なコンプライアンスを維持するために・・・「暴力」が絶対的に悪であるこの国では・・・いつしか・・・歴史的な人物が・・・多くの場合・・・大量殺人の首謀者であることに頭を悩ますようになっている。

そのために・・・大河ドラマの主人公も・・・戦国時代に生きているにもかかわらず「戦はきらいだ」と主張しなければならないらしい。

実在したのかどうかもわからない・・・井伊次郎法師直虎の都合がいいのは・・・誰も殺していないかもしれない人物だということに尽きるのだろう。

系図的には直虎の伯父である井伊直親が暗殺されたと思われる永禄五年から・・・今川義元の母である寿桂尼が死去する永禄十一年まで・・・井伊一族と今川家の関係はいろいろと謎に包まれている。

そもそも・・・この時期には・・・井伊次郎は二人いたのかもしれないのである。

一人はおそらく・・・今川義元の側室となった井伊直平の娘が産んだ関口氏系の次郎。

そして直平の孫・直盛の娘である次郎法師である。

遠江国の守護である今川氏真が派遣した関口次郎と・・・井伊家の相続者として出家のまま地頭を称した次郎法師と。

相続争いというものは普遍的な出来事である。

家督継承のために今川義元も兄弟で殺し合ったし・・・織田信長も同様である。

井伊谷城でも・・・それは起きていたに違いない。

分家の分家でありながら・・・地縁・血縁で勢力を拡大する奥山家と・・・本家の家老家であり、今川の目付でもある小野家・・・それぞれが・・・総領となる井伊直政の争奪戦を繰り広げているわけである。

だが・・・そんな茶碗の中の戦争は・・・やがてくる大戦の前に・・・飲み込まれてしまうのである。

で、『おんな城主  直虎・第15回』(NHK総合20170416PM8~)脚本・森下佳子、演出・福井充広を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。地縁・血縁の描き方と中央政府と地方自治体の軋轢・・・そして主従関係の描写・・・これらがかなり入り混じっているので・・・ある意味・・・わかりにくい感じになっているのかなあ・・・と考えています。通説では・・・荘園制度が終焉するのは太閤検地によるものということになりますので・・・それまでは・・・領主と領民の間にはかなりゆるやかな支配関係があると考えるのが普通でございますよね。基本的に農民たちも武装勢力の一つの単位であって・・・その証拠に三河国では一向一揆の鎮圧に家康が一年をかけているわけです。あくまでドラマですので・・・桶狭間の敗戦によって・・・村人が減少したために・・・農業に専念している感じなのだとも解釈できないこともないのですが・・・その割には村人の男たちは・・・かなり戦力になる感じの年頃です。脚本家とお茶の間の間の幻想の兵農分離が暗黙の了解をしているというところでしょうか。下剋上によってもっとも身分格差の少ないのが戦国時代と考えるキッドにとって少し歯がゆい気もいたします。黒沢明監督の「七人の侍」によって描かれてしまった妄想の「腹の減った侍を雇う百姓」の存在が・・・大きく影響しているに違いない。農閑期に戦をする・・・つまり・・・地域住民の全員が武力を持っているのが普通であり・・・兵農分離により職業的軍人が育成され・・・士農工商の土台が作られていく過渡期・・・せっかく・・・コップの中の戦争を描くなら・・・そういう視点も欲しかった気がする今日この頃でございます。

Naotora015 伝承・・・遠江国小野に光月坊主という悪僧あり、龍譚寺の和尚は法力によって光月を懲らしめ、光月は神となって村人のために尽くせり・・・。伝承・・・遠江国都田(川名)に大淵ありて龍宮に通じると伝わる。大淵より龍宮小僧が現れ村人の困窮を救うとされる。永禄九年(1566年)、上野国厩橋城の上杉家直臣・北条高広が北条方に臣従する。北条氏康は隠居し、氏政が家督を継承する。永禄十年(1567年)、今川氏真の妹を正室とする武田義信は自刃。北条氏政は上総国三船山で里見氏と対戦し大敗を喫する。織田信長は美濃国の斎藤龍興を攻め、稲葉山城は落城。龍興は伊勢国に敗走する。信長は稲葉山城を岐阜城に改名。天下布武を宣言する。正親町天皇は信長を「古今無双の名将」と褒めたとされる。越前国の朝倉義景は加賀国一向一揆勢との合戦に勝利し、足利義秋を一乗谷の安養寺に迎える。永禄十一年(1568年)三月、今川義元の母・寿桂尼が死去。今川家を支えた最後の支柱が折れ・・・西の徳川、北の武田は虎視耽々と駿河国・遠江国の今川領土に狙いを定めていた・・・。

井伊谷城に小野但馬守が登城する。

城と言っても米蔵や武具蔵と領主館があるに過ぎない。

防衛拠点としては裏手の龍譚寺の方が優れている。

領主館も古びている。

合議のために国衆たちが集まる広間で・・・直虎は但馬守と面会した。

「今川から何か申してまいったか・・・」

「虎松様の後見人の件でございます」

「後見人が女の私では承知できないということか」

「いえ・・・直平様の姫が嫁がれた瀬名家に男子がおられまする」

「瀬名様の他にか・・・」

「瀬名次郎様でございます」

「とんと聞かぬな」

「瀬名次郎様に井伊次郎を名乗らせ・・・虎松様元服までのつなぎとせよという・・・氏真様の思し召し」

「妾がよいというても・・・亡き直親殿の後家が・・・へそをまげよう」

「・・・しかし・・・瀬名次郎様には関口氏経様という後見人も決まっておりまする」

「瀬名家も関口家も・・・氏真様に怨みはないのかのう」

「・・・」

「氏真様はすこし・・・気がふれておいでなのではないか」

「しかし・・・何と申しても遠江国の守護であらせられまする」

「但馬守よ・・・汝れの好みの・・・唐風ならば・・・いや・・・義元公が御存命ならば・・・それも好き道かもしれぬが・・・」

「律や法度は・・・まつりごとの要でございますぞ」

「いつまで・・・法度を定めた今川の世が続くかのう・・・」

「なんと・・・」

「龍譚寺の忍び坊主たちの集めし話によれば・・・武田家は今川家と手切れをする気配がある」

「え・・・まさか・・・そのようなことが」

「武田家では・・・総領息子の義信殿が腹を切らされたという噂じゃ」

「・・・」

「なにしろ・・・義信殿の正室は・・・今川の姫君・・・」

「それが・・・手切れの前触れと・・・言われるのか」

「武田と徳川の間者が・・・国境を越えて往来しておる・・・」

「遠江国は信濃国と三河国の通り道でございますれば・・・」

「もし・・・武田と徳川が密約をかわしておったらなんとする」

「しかし・・・武田と今川・・・そして北条には三国の同盟がございまする」

「北条家は義元公の例にならって生前贈与をしたようだが・・・跡目を継いだ氏政公は大敗したそうじゃ・・・」

「・・・お耳が早い」

「代変わりに負け戦となれば・・・北条も・・・今川にかまってはいられまい」

「・・・そこで武田が手のひらを返すと・・・」

「もしも・・・三国の契りが破れるようなことあれば・・・井伊の家も身のふりかたを考えねばならぬ・・・」

「今川を裏切ると仰せなのですか・・・聞き捨てできませぬぞ」

「考えてもみよ・・・徳川が攻めてくるとなれば・・・井伊谷は矢面ぞ・・・」

次郎法師と小野但馬守は・・・暗い目でみつめあった。

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2017年4月12日 (水)

永禄九年、足利義昭越前国に入る(柴咲コウ)

将軍候補となった足利義昭は・・・三好三人衆に追われて亡命を続ける。

その間にも・・・各国の諸将に・・・上洛を促している。

交戦中だった尾張国の織田信長と美濃国の斎藤龍興に対して永禄九年(1566年)四月、停戦を命じ・・・両者は応じて和議を結ぶ。

しかし・・・八月に信長が上洛のための兵をあげると・・・龍興はこれを攻撃・・・停戦合意はやぶられる。

信長が仕掛けたのか・・・龍興が仕掛けたのか・・・。

まあ・・・停戦合意の順守は・・・口約束では守られないわけである。

永禄八年(1565年)五月の永禄の変によって第13代将軍であった足利義輝が暗殺されてから・・・事実上、将軍は空位なのである。

そのために朝廷は直接・・・各地の武将に指示を下していることになる。

足利幕府体制は・・・風前の灯状態なのであった。

政治システムはつまるところ・・・自由と平等の相克である。

律令体制とは平等に軸があり・・・つまり私有財産を認めないのが前提である。

一方、荘園制度は自由に傾斜して・・・各地に実力者が発生する。

国人領主とはいわば・・・独立した市町村の長なのだ。

その中で・・・実力で他を圧して戦国大名が誕生するわけである。

今川義元は・・・相続争いに勝利して・・・駿河国、遠江国、三河国を制し・・・独自の法治国家を築いた。

だが・・・将軍が暗殺されてしまう御時勢である。

戦争を仕掛けて敗戦し・・・討死という最悪の結果を招いた今川家はたちまち没落の坂を転がり落ちる。

本国である駿河国はなんとか・・・治められても・・・三河国はすでに徳川家康が制覇し・・・遠江国への支配力は弱まって行く。

今川氏真は・・・疑心暗鬼に囚われ・・・次々に家臣を誅殺していった。

井伊谷の女性村長は・・・その中で・・・なんとか・・・井伊谷村を守ろうとするわけである。

これは・・・そういうお話・・・。

で、『おんな城主  直虎・第14回』(NHK総合20170409PM8~)脚本・森下佳子、演出・福井充広を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。中野直之は血気盛んな青年団風でございますよね。対する奥山六左衛門朝忠は小心者の助役風でございます・・・。やはり・・・城主というより・・・直虎は村役場の長的な感じがいたします。もはや・・・乱世が沸騰している永禄年間でございますので全国的な「システム」は崩壊しているわけですが・・・まだ本格的な兵農分離はなされておらず・・・守護と地頭の支配関係も地域的には成立しているわけです。この辺りは・・・識者の間でも意見が分かれるところですし・・・一般的な武士と農民に対する漠然としたイメージにどこまで斬り込むのかも匙加減が難しいところですよねえ。楽市が信長の独創でないように・・・兵農分離も・・・支配者的には目指したいところの一つであったはず。しかし・・・実際は村は一種の独立勢力ですし・・・国人領主はそれをまとめる首長のようなもの。しかし・・・その支配権は大小ありますし流動的でもございます。井伊谷城主と言う立場は・・・かってはかなりの広範囲に支配を及ぼし・・・多くの分家に支えられた本家としての権威があったのでしょうが・・・桶狭間の敗戦により・・・今川家の支配が緩み・・・同時に井伊家の支配も弱まったと考えられます。今川家は中央集権を目指し・・・井伊家は地方自治を目指しているというニュアンスもありますが・・・そういう政治的な話と・・・かっての許嫁に対する過剰な乙女心の物語が今の処・・・かなりミスマッチでございますよねえ・・・。まあ・・・小野但馬守の・・・片思いの人に尽くせば尽くすほど・・・嫌われ疎まれ憎まれていく感じが・・・描きたいのだ・・・と言われればなるほどベル薔薇と思う他ない今日この頃でございます。

Naotora014 大宝ニ年(702年)、文武天皇は大宝律令を諸国に頒布。貞永元年(1232年)、北条泰時は御成敗式目を制定。貞和二年(1346年)、足利尊氏は刈田狼藉の検断権を守護の職権へ加える。大永六年(1526年)、今川氏親は今川仮名目録を制定する。氏親は守護使不入地に対して検地を行う。天文二十二年(1552年)、今川義元は今川仮名目録追加を制定。義元は室町幕府による守護使不入地を否定する。永禄八年(1565年)、井伊直虎は龍潭寺に寺領を寄進する。武田信玄は今川氏真の妹を正室とする義信を廃嫡。永禄九年(1566年)、氏真は井伊谷と都田川の国人領主(地頭)に対して徳政令を出す。直虎は曾祖父・井伊直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進。永禄十年(1567年)、義信は自刃。永禄十一年(1568年)三月、氏真の祖母・寿桂尼が死去。十一月、次郎法師と関口氏経が蜂前神社に徳政令を施行する。

川名の郷と曳馬の城は都田川で結ばれている。このラインは古に皇子に従った井伊介の東側の縄張りと言ってもいいだろう。

永正十年(1513年)に尾張守護の斯波義達は旧領である遠江国に出陣し、遠江守護を兼任する駿河守護の今川氏親に挑む。

遠江国の国人領主だった大河内貞綱や井伊直平らは斯波義達に従うが・・・曳馬城を巡る攻防戦で今川衆の朝比奈泰以や飯尾賢連に敗れ・・・永正十二年(1515年)に大河内貞綱は自害・・・井伊直平の縄張りは後退した・・・。

井伊直平はこの後・・・今川家の相続争いとなる花倉の乱では・・・自害に追い込まれる玄広恵探に従い・・・桶狭間の合戦では孫の井伊直盛が今川義元に従って討死する。

ある意味・・・負け馬に賭け続けた武将・・・それが井伊直平である。

最後は・・・今川氏真の指図で謀反人の討伐に向う途中で陣没した・・・曾祖父を・・・次郎法師直虎は悼むのだった。

現世に悲嘆した直平は・・・後生に望みを託して・・・龍譚寺を建立した。

直虎は龍譚寺の尼として・・・経を読み・・・曾祖父の隠居地であった川名の菩提寺に梵鐘を献じた。

「親父殿も・・・可愛いひ孫に経をあげられて喜んでおられることよ」

直平の庶子(妾の子)だった龍潭寺二世住職の南渓和尚は微笑んだ。

「和尚様・・・」と直虎は問う。「井伊谷の荘は・・・どうなってしまうのでしょうか」

南渓和尚は返答に窮する。

龍譚寺の本堂には二人きりであるが・・・近頃は・・・忍びの気配を常に感じる。

うかつなことは口に出せないのである。

「今は・・・井伊に従うものどもも・・・息を潜めて待つしかない」と南渓和尚は無難な言葉を選ぶ。「虎松(後の井伊直政)の元服を待つ他はないのでござるよ」

二人が去ると本尊の陰から昊天が現れる。

昊天は寺領の見回りのために・・・龍譚寺を一人で出た。

途中の道端に一人の乞食坊主が蹲っている。

「井伊谷に・・・とくにかわったことはない・・・」

「ありがとう存じます」と乞食坊主は伏せながら・・・囁く。「甲斐と駿河の手切れ・・・迫っておる」

「御仏の・・・お導きか・・・」

「まもなく・・・三河の殿も・・・」

「心得た」

昊天は会釈して・・・歩み出す。

乞食坊主もまた・・・反対側へと去って行くのだった。

乞食坊主は・・・伊賀の忍び・・・服部半蔵である。

そして・・・昊天は・・・井伊谷に古くから・・・草として潜む服部一族の末裔だった。

昊天は忍びとして・・・長き眠りから・・・目覚めようとしていた。

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2017年4月 3日 (月)

永禄九年、今川氏真徳政令を発す(柴咲コウ)

永禄七年(1564年)九月、曳馬城主・飯尾連竜を攻めた今川勢は苦戦し、今川氏真配下の井伊谷衆の実質的な旗頭である中野直由や井伊直盛未亡人・祐椿尼の兄である新野左馬助親矩が討ち死にしたとされる。

さらに氏真の傅役である三浦正俊までが討ち死にし・・・結局、氏真は連竜と和睦した。

だが・・・連竜は永禄八年(1566年)十二月に氏真に駿府で成敗されるのだった。

和睦しておいて暗殺・・・これが今川家の常套手段であるのは明らかで・・・・こんなことばかりやっていたから・・・あんなことになるのだ・・・と思う人は多いだろう。

一方・・・主人公が「国」と言う・・・井伊谷という遠江国の浜名湖以北の一帯の勢力図はもはや混乱の極みとなっている。

永禄三年に井伊直盛、永禄五年に井伊直親、永禄六年に井伊直平、永禄七年に中野(井伊)直由と毎年のように当主が死んでいるのである。

つまり・・・ほとんど・・・当主不在と言っていいだろう。

虎松こと井伊直政が歴史の表舞台に登場するまで・・・井伊谷に「国」などなかったというのが実態である。

もちろん・・・永禄年間の遠江のあれやこれやは謎に包まれているので時空を越えたいろいろなことが起きうるわけである。

下剋上の波は全国津々浦々に広がっているのだ。その証拠に今川家の人質であり・・・今川義元の家臣だった松平家康が桶狭間の合戦から五年後には三河一国の支配者となっているのである。

そして、尾張国の織田信長と松平家康が同盟している以上・・・遠江国は家康の餌食に他ならない。

民が安寧に暮らせる「世」はほとんど絵空事なのである。

それでも・・・ちまちまと・・・井伊谷城周辺をなんとか治めようとする次郎法師は・・・けなげだと言う他ないのだなあ。そして・・・なんとか力になろうとして・・・最後は侵略者によって成敗されてしまう小野家当主は哀れなのだなあ。

で、『おんな城主   直虎・第13回』(NHK総合20170403PM8~)脚本・森下佳子、演出・渡辺一貴を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。戦国時代の経済というものを生産者(農民)、流通者(商人)、経営者(支配者)の関係性で語るというのはなんとなく「お勉強」の匂いがして好みが分かれそうなところでございますねえ。室町幕府体制が崩壊しつつある戦国末期ということでは・・・今川体制という地域経済的な室町幕府体制の根本維持かつ縮小化が失敗してしまうというのが・・・東海地方で起こったことのような気がいたします。一方で武士の作る政治というものは・・・合議制を基本としながら・・・結局最後は「腕力勝負」なところがございます。戦になれば勝負は時の運なので・・・勝ったり負けたりして・・・結果として無法地帯を生むことになるわけです。その中で切磋琢磨してある程度、統合されていった武士集団を・・・信長が「恐怖」で支配し、秀吉が「富」で支配し・・・そして家康が「安全・安心」で支配したというのが・・・自由で不安定な戦国時代の終焉のあらましでございます。このドラマの主人公は・・・不倫相手を幼馴染に殺されたことを恨み続ける情念の人の側面と・・・焼け跡からのし上がった経済やくざの指南役という側面を持っているような気がします。どう考えても混ぜると危険な気配がしますが・・・この脚本家は結構、凄腕なので・・・嫌な感じを漂わせつつ・・・それなりに名作に仕上げてきますよね・・・きっと。

Naotora013永禄七年(1564年)二月、 奥平貞勝・定能父子が松平家康に臣従する。永禄八年(1565年)五月、三好義継が二条御所を急襲し室町幕府第十三代将軍・足利義輝を殺害。足利義栄が第十四代将軍候補となる。織田信長は滝川一益に伊勢国攻めを命じる。松平家康は酒井忠次に命じ三河国吉田城の小原鎮実を攻めさせ開城させる。十二月、今川氏真は駿府で飯尾連竜を襲撃し成敗。永禄九年(1566年)、信長は美濃国の稲葉良通・氏家直元・安藤守就を臣従させる。家康は三河一国をほぼ制圧し正親町天皇より従五位下三河守に叙任され徳川姓を称する。四月、氏真は飯尾一族が籠城する曳馬城を開城させる。十二月、松平家康は三河一国をほぼ制圧し正親町天皇より従五位下三河守に叙任され徳川姓を称する。この頃、氏真は遠江国・駿河国の各地に徳政令を発布する。井伊谷の地頭となった次郎法師は遠江国引佐郡瀬戸村の商人・新田四郎右衛門(瀬戸方久)に借金の代償として瀬戸村の支配を委託(譲渡)することで徳政令の施行を実質的に回避する。

小牧山の山城で織田信長は尾張守を名乗っていた。

三河国より京の都に近い尾張国は支配関係が複雑である。尾張国を信長が完全に掌握しているとは言えず・・・朝廷に申し出れば叙任される可能性は高いものの・・・信長は時期尚早と判断していた。

桶狭間の勝利から六年・・・信長はひたすらに・・・武力の増強を求めている。

尾張守などでは・・・終わらぬ・・・。

信長の野望と・・・後の人が揶揄する志が・・・信長自身の心に芽生えている。

「今川義元を殺した男」として「悪名」を手にいれた信長は・・・じわじわと支配の輪を広げてついに伊勢国の一部と美濃国の一部に勢力を拡大していた。

小牧山城の奥庭は「御庭」と称されている。

二重の柵に囲まれ・・・東西に門があり・・・東門が外門、西門が内門である。

本丸から信長は渡り廊下で続く西門を通り・・・引見館に入る。

部外者は東門から入り・・・役人に導かれ「御庭」に参上するのだった。

「空蝉法師が参っております」

丹羽長秀が引見館の奥の間で休んでいた信長に告げる。

「であるか・・・」

信長は頷いた。

柴田勝家の足軽から右筆に抜擢された太田牛一を呼び・・・引見の縁に出る。

「御庭」には粗末な身形の法師が蹲っている。

空蝉法師は・・・信長の忍びの頭の一人である。

信長の頭脳は閃く。

「駿河はどうか・・・」

「氏真公は・・・盛んにお布令を出されております」

「安堵状の類か・・・」

「徳政令なども・・・さらに富士大宮の六斎市を・・・富士山本宮浅間大社の宮司・・・富士信忠に命じ楽市といたしました・・・」

「楽市・・・」

信長は楽市と言う言葉を脳内で弄った。

「近江の守護である六角定頼が観音寺城下に楽市令を布いたと・・・聞き覚えがある」

「商いをするものたちの・・・利をかすめ取る狙いでございましょう・・・」

「そのような甘きことにはならぬものよ・・・」

織田家は信長の父・信秀の代から・・・商人の飼い方を研鑽していた。

信長は利を重んじる商人たちの中から・・・行商人に身を落していた木下藤吉郎を抜擢した男である。

しかし・・・信長は「楽市」という言葉の響きを楽しむ。

「面白い・・・長秀よ・・・」

「は・・・」

「早速・・・清州の城で試してみよ・・・清州の座を解け」

信長が本拠地を小牧山に移したために・・・清州城下はさびれつつあった。

市場を解放してみるのも一興であった。

失敗しても損はないのである。

「御意」

「上手くいけば・・・他でも広めよ」

「御意」

「空蝉よ・・・遠江国はどうじゃ・・」

「氏真公と家康公の綱引きが続いておりまするが・・・」

「形勢はいかがじゃ」

「家康の伊賀者たちがよき働きぶり・・・」

「服部半蔵か・・・」

「氏真公は・・・先代に比べると・・・踊りますな・・・」

「傾いた家を建て直すのは・・・難いものよ・・・」

「まさしく・・・」

「遠江国にも・・・はたのものがおるだろう・・・」

「義元公は・・・太原雪斎の死後・・・忍びを軽んじたのでございます」

「であるな」

はたのものは・・・聖徳太子以来の・・・天皇の忍びの通称である。

聖徳太子が秦氏の諜者を使ったことによる。

秦氏は・・・表向きは機織りを生業としながら・・・裏では忍びとして全国に広がっている。

伊賀の服部氏はもちろん・・・織田家も・・・はたのものの流れを汲んでいた。

そこには独特の情報ネットワークがある。

太原雪斎はそのことを充分に心得ていたが・・・義元は表舞台に重心が傾きすぎてしまったのである。

忍びの力を軽視し・・・敗れ去ったのだ。

「氏真公が・・・小競り合いに夢中になっている間に・・・家康公は・・・秋葉の宮にまで手を広げておりまする」

「秋葉の宮・・・」

「遠江の修験のものたちのたまりでございます」

「であるか」

修験のものもまた・・・古来からの忍びの集団である。

信長は家康が・・・遠江国のしのびたちを再編しようとしていることを感じた。

はたのものたちも・・・全国に散り・・・すでに土着して糸が切れたものも多い。

しのびたちは・・・あるものは斥候の術を・・あるものは攻城の術を売り物にして領主に雇われるのが生業だった。

人を欺き・・・騙すのが習性のものたちを飼いならすためには・・・いくつかの忍びの群れを併用する必要があった。

だれが嘘をつき・・・だれがまことを申しているかは・・・情報を分析して判断する必要があったのだ。

家康は伊賀者を軸に・・・はたのものや・・・修験のものたちを巧みに取り込み始めているのだった。

信長はそれを読んでいるのである。

もちろん・・・家康にその術を伝授したのは・・・織田尾張守信長本人だった・・・。

「遠江国の井伊谷では・・・領主の娘が地頭を称しました」

「女・・・」

「おんな城主でございます」

「うつけたことよ・・・」

信長は微笑んだ。

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