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2017年4月12日 (水)

永禄九年、足利義昭越前国に入る(柴咲コウ)

将軍候補となった足利義昭は・・・三好三人衆に追われて亡命を続ける。

その間にも・・・各国の諸将に・・・上洛を促している。

交戦中だった尾張国の織田信長と美濃国の斎藤龍興に対して永禄九年(1566年)四月、停戦を命じ・・・両者は応じて和議を結ぶ。

しかし・・・八月に信長が上洛のための兵をあげると・・・龍興はこれを攻撃・・・停戦合意はやぶられる。

信長が仕掛けたのか・・・龍興が仕掛けたのか・・・。

まあ・・・停戦合意の順守は・・・口約束では守られないわけである。

永禄八年(1565年)五月の永禄の変によって第13代将軍であった足利義輝が暗殺されてから・・・事実上、将軍は空位なのである。

そのために朝廷は直接・・・各地の武将に指示を下していることになる。

足利幕府体制は・・・風前の灯状態なのであった。

政治システムはつまるところ・・・自由と平等の相克である。

律令体制とは平等に軸があり・・・つまり私有財産を認めないのが前提である。

一方、荘園制度は自由に傾斜して・・・各地に実力者が発生する。

国人領主とはいわば・・・独立した市町村の長なのだ。

その中で・・・実力で他を圧して戦国大名が誕生するわけである。

今川義元は・・・相続争いに勝利して・・・駿河国、遠江国、三河国を制し・・・独自の法治国家を築いた。

だが・・・将軍が暗殺されてしまう御時勢である。

戦争を仕掛けて敗戦し・・・討死という最悪の結果を招いた今川家はたちまち没落の坂を転がり落ちる。

本国である駿河国はなんとか・・・治められても・・・三河国はすでに徳川家康が制覇し・・・遠江国への支配力は弱まって行く。

今川氏真は・・・疑心暗鬼に囚われ・・・次々に家臣を誅殺していった。

井伊谷の女性村長は・・・その中で・・・なんとか・・・井伊谷村を守ろうとするわけである。

これは・・・そういうお話・・・。

で、『おんな城主  直虎・第14回』(NHK総合20170409PM8~)脚本・森下佳子、演出・福井充広を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。中野直之は血気盛んな青年団風でございますよね。対する奥山六左衛門朝忠は小心者の助役風でございます・・・。やはり・・・城主というより・・・直虎は村役場の長的な感じがいたします。もはや・・・乱世が沸騰している永禄年間でございますので全国的な「システム」は崩壊しているわけですが・・・まだ本格的な兵農分離はなされておらず・・・守護と地頭の支配関係も地域的には成立しているわけです。この辺りは・・・識者の間でも意見が分かれるところですし・・・一般的な武士と農民に対する漠然としたイメージにどこまで斬り込むのかも匙加減が難しいところですよねえ。楽市が信長の独創でないように・・・兵農分離も・・・支配者的には目指したいところの一つであったはず。しかし・・・実際は村は一種の独立勢力ですし・・・国人領主はそれをまとめる首長のようなもの。しかし・・・その支配権は大小ありますし流動的でもございます。井伊谷城主と言う立場は・・・かってはかなりの広範囲に支配を及ぼし・・・多くの分家に支えられた本家としての権威があったのでしょうが・・・桶狭間の敗戦により・・・今川家の支配が緩み・・・同時に井伊家の支配も弱まったと考えられます。今川家は中央集権を目指し・・・井伊家は地方自治を目指しているというニュアンスもありますが・・・そういう政治的な話と・・・かっての許嫁に対する過剰な乙女心の物語が今の処・・・かなりミスマッチでございますよねえ・・・。まあ・・・小野但馬守の・・・片思いの人に尽くせば尽くすほど・・・嫌われ疎まれ憎まれていく感じが・・・描きたいのだ・・・と言われればなるほどベル薔薇と思う他ない今日この頃でございます。

Naotora014 大宝ニ年(702年)、文武天皇は大宝律令を諸国に頒布。貞永元年(1232年)、北条泰時は御成敗式目を制定。貞和二年(1346年)、足利尊氏は刈田狼藉の検断権を守護の職権へ加える。大永六年(1526年)、今川氏親は今川仮名目録を制定する。氏親は守護使不入地に対して検地を行う。天文二十二年(1552年)、今川義元は今川仮名目録追加を制定。義元は室町幕府による守護使不入地を否定する。永禄八年(1565年)、井伊直虎は龍潭寺に寺領を寄進する。武田信玄は今川氏真の妹を正室とする義信を廃嫡。永禄九年(1566年)、氏真は井伊谷と都田川の国人領主(地頭)に対して徳政令を出す。直虎は曾祖父・井伊直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進。永禄十年(1567年)、義信は自刃。永禄十一年(1568年)三月、氏真の祖母・寿桂尼が死去。十一月、次郎法師と関口氏経が蜂前神社に徳政令を施行する。

川名の郷と曳馬の城は都田川で結ばれている。このラインは古に皇子に従った井伊介の東側の縄張りと言ってもいいだろう。

永正十年(1513年)に尾張守護の斯波義達は旧領である遠江国に出陣し、遠江守護を兼任する駿河守護の今川氏親に挑む。

遠江国の国人領主だった大河内貞綱や井伊直平らは斯波義達に従うが・・・曳馬城を巡る攻防戦で今川衆の朝比奈泰以や飯尾賢連に敗れ・・・永正十二年(1515年)に大河内貞綱は自害・・・井伊直平の縄張りは後退した・・・。

井伊直平はこの後・・・今川家の相続争いとなる花倉の乱では・・・自害に追い込まれる玄広恵探に従い・・・桶狭間の合戦では孫の井伊直盛が今川義元に従って討死する。

ある意味・・・負け馬に賭け続けた武将・・・それが井伊直平である。

最後は・・・今川氏真の指図で謀反人の討伐に向う途中で陣没した・・・曾祖父を・・・次郎法師直虎は悼むのだった。

現世に悲嘆した直平は・・・後生に望みを託して・・・龍譚寺を建立した。

直虎は龍譚寺の尼として・・・経を読み・・・曾祖父の隠居地であった川名の菩提寺に梵鐘を献じた。

「親父殿も・・・可愛いひ孫に経をあげられて喜んでおられることよ」

直平の庶子(妾の子)だった龍潭寺二世住職の南渓和尚は微笑んだ。

「和尚様・・・」と直虎は問う。「井伊谷の荘は・・・どうなってしまうのでしょうか」

南渓和尚は返答に窮する。

龍譚寺の本堂には二人きりであるが・・・近頃は・・・忍びの気配を常に感じる。

うかつなことは口に出せないのである。

「今は・・・井伊に従うものどもも・・・息を潜めて待つしかない」と南渓和尚は無難な言葉を選ぶ。「虎松(後の井伊直政)の元服を待つ他はないのでござるよ」

二人が去ると本尊の陰から昊天が現れる。

昊天は寺領の見回りのために・・・龍譚寺を一人で出た。

途中の道端に一人の乞食坊主が蹲っている。

「井伊谷に・・・とくにかわったことはない・・・」

「ありがとう存じます」と乞食坊主は伏せながら・・・囁く。「甲斐と駿河の手切れ・・・迫っておる」

「御仏の・・・お導きか・・・」

「まもなく・・・三河の殿も・・・」

「心得た」

昊天は会釈して・・・歩み出す。

乞食坊主もまた・・・反対側へと去って行くのだった。

乞食坊主は・・・伊賀の忍び・・・服部半蔵である。

そして・・・昊天は・・・井伊谷に古くから・・・草として潜む服部一族の末裔だった。

昊天は忍びとして・・・長き眠りから・・・目覚めようとしていた。

関連するキッドのブログ→第13話のレビュー

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