永禄九年、近藤康用が井伊谷領に侵入す(柴咲コウ)
遠江国の名の由来は浜名湖にある。
近江国の琵琶湖に対応するわけである。
東海道は浜名湖の南側、それに対して姫街道は北側である。
明応七年(1498年)の大地震により淡水湖だった浜名湖は汽水湖となった。
つまり・・・東海道は分断されたのである。
そのために・・・姫街道側が発展することになる。
永禄九年・・・三河国はほぼ松平家康の支配下に入ったが・・・遠江国、信濃国と接する奥三河の国衆はまだ今川支配体制に属していたものもあった。
三河国宇利城の近藤康用もその一人である。
ある意味では・・・井伊谷より最前線であり・・・今川家に謀反する疑いで言えば井伊家より濃厚なのである。
そんな近藤康用が・・・井伊家の目付(監視役)であるというのはおかしな話であるが・・・要するに疑心暗鬼の戦国時代においては相互監視体制が日常化していたのだと考えることもできる。
戦国時代を全国的な縄張り争いと考えれば・・・三河国、遠江国、信濃国に接する土地は当然・・・安穏と過ごせる土地ではなかったのである。
同時に今川家の子分として近藤家は同じ子分の井伊家と縄張り争いもするわけである。
近藤康用の子、秀用は徳川家康に出仕し紆余曲折の後に井伊谷藩主にまで出世する。
井伊谷に関して言えば・・・近藤家は井伊家に対して縄張り争いで勝利する家柄なのだった。
最も井伊谷藩は一万五千石だが井伊直政の近江国佐和山藩は十八万石である。(仮記事です)
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