生まれてこなければよかったと生まれてくれてありがとうの間にすべてのお笑い人生があります
あけましておめでとうございます。
五月だぜ。
まあ、時は素早く立ち去るものだ。
キッドの放送作家としての師匠が旅立ったりして激動の2025年もどんどんすぎていく。
本格的なトランプーチン時代に世間は右往左往しているわけだがその間にも名もなき兵士たちは民間人も含めてどんどん死んでいく。
実存主義者としてそのすべてを受け入れることはもちろん可能だが責任までは負えないのだった。
「スターウォーズ」が公開されたのが1977年だからその翌年くらいに弟子入りしたので半世紀近い歳月が流れている。
まあ師匠が旅立ってもおかしくない。
まあ先立った兄弟子もいるし謀殺された弟弟子もいて早いか遅いかは時間の問題である。
始まれば終わる。すべての番組と同じだ。
そういう意味ではココログもキッドもがんばっているなあ。
最近は毎日マイクラで穴をほっている日々である。
亡父の趣味である盆栽に付き合うと手が汚れたり日焼けでかゆかゆになったりするがマイクラではどんなに穴を掘っても目が疲れるぐらいで快適である。
終わりなき世界、果てしない物語とはいいものだ。
しかし作品というものは完結しないとならない。
マイクラだって作品としては完結しているのだが、プレーヤーが終われないシステムなのである。
で、スターウォーズは2019年のエピソード9で完結している。
しかし、突然、エピソード4~6が地上波で放送されたりして関連作品がまた新たに作られていることを周知されてしまうのである。
みんな好きなんだなあ。
さて公開当時、キッドが大好きだったのはエピソード5であった。
スターウォーズの肝である善と悪の交錯が急展開のアクションにつぐアクションで目にもとまらぬスピードで進行していくのである。
そこには敵対する親子の相克があり、伝統文化継承の師弟関係があり、どんでん返しの秘密を抱えた三角関係がある。
ベートーベンの交響曲でいえば五番のいわゆるひとつの「運命」なのだった。
キッドはひそかにスターウォーズ1~9とベートーベンの交響曲第一~第九は密接に関係していると思っている。
スターウォーズエピソード5「帝国の逆襲」は実に劇的に「運命」を物語っているのである。
それに対してエピソード6「ジュダイの帰還」のまったりさ加減はまさに「田園」なのである。
ひとつの物語を構成するためには分割という手法が基本中の基本となる。
二分割ならフリとオチ、三分割なら序破急、四分割なら起承転結である。
そういう意味でスターウォーズは三部作の積み重ねでさらに大きな三部作を作るという序破急序破急序破急の序破急という壮大な構成になっている。
そしてエピソード5は前に四つの物語、後ろに四つの物語を従えるセントラルドグマなのである。
面白くないわけがないのだった。
スターウォーズはエピソード4から公開されていくわけだが、それは「新たなる希望」であった。
つまり「古い希望」が以前にあったのだった。
だから最初の序破急は「絶望」の物語であった。
それはそれで沁みるんだけどねえ。
ダース・ベイダーが誕生するエピソード3はベートーベンの交響曲では本人が最高傑作という「英雄」である。
英雄には悲劇がつきまとい、そういう意味ではシリーズ最高傑作なのかもしれない。
ベートーベンの第七は名もなき交響曲だがそこには第九の「合唱」に続く歓喜の気配がある。
「のだめカンタービレ」の「ベト七」がのだめや千秋を変態的な歓喜の世界にいざなう魔法のカギであることはまちがいない。
人生は希望であり絶望だ。
天使であるミトコンドリアが復活の活力を与えるとしてもいつしか細胞は死滅する。
人生のフィナーレが「歓喜の歌」でおわったのかどうか、師匠とは別人格のキッドが知る由もないが、そうであったらいいのになあと祈るヨーダ。
(仮記事です)
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