2017年7月 3日 (月)

永禄十年、おんな城主気賀へ(柴咲コウ)

遠江国を巡って争う今川家と徳川家・・・その渦中に翻弄される国人衆井伊家である。

この記事は大河ドラマのレビューの前フリなのであるが・・・すでに第何話とかのデータにさえ触れずに更新をつづけているわけである。

だって・・・大河ドラマというよりは小川ドラマなんだもの。

処女であるがゆえに・・・ずっと乙女であり続ける主人公の・・・恋に恋する心が戦国時代に吹き荒れるのである。

もはや・・・言葉を失う展開である。

おりしも・・・都議選で・・・与党は歴史的惨敗で野党に転落したわけである。

更年期障害で我を失った国会議員が揺らがせた男女雇用機会均等法の世界を理知的な女主人公がピチピチのレディースを率いて救済したわけである。

しかし・・・おっさんたちを駆逐した若者たちもいつかはおっさんになるんだなあ。

気賀の堀川城にはおそろしい運命が待ち受けているわけだが・・・。

そうなってしまうには理由があることを・・・描いてくれるといいと思うよ。(仮記事です)

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永禄十年、織田信長は美濃国で勝利し北条氏政は上総国で敗北す(柴咲コウ)

遠江国を巡って争う今川家と徳川家・・・その背後には北条家と織田家がある。

永禄十年、東へと勢力伸張をはかった北条氏政は上総国で大敗を喫し、北に進出した織田信長は美濃国を支配下におさめる。

風が吹いているのである。

今川家にとってはものすごい逆風である。

三河国を失った今川家は対徳川の防衛ラインを構築する必要に迫られる。

その前衛の主軸となるのが大沢基胤を城主とする浜名湖岸の堀江城である。

堀江城の大沢家は鎌倉以来の有力国衆である。

この時期、堀江城の支城として急遽、築城されたと言われるのが気賀の堀川城である。

「おんな城主直虎」では主人公と野武士のラブロマンスをからめて気賀を舞台としたフィクションがくりひろげられているのだが・・・まあ・・・お笑いの一種である。

堀川城の守将の一人、新田友作と瀬戸方久の同一人物説もからめて・・・物語はあやしく進展していくのだった。(仮記事です)

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2017年7月 2日 (日)

永禄十年、織田五徳と徳川信康婚姻す(柴咲コウ)

遠江国を巡って今川家と徳川家が鬩ぎ合う永禄十年。

駿河進出を狙う武田家と遠江を狙う徳川家の利害が一致する。

織田と徳川は同盟関係にあるがその絆を高めるための婚姻である。

信長はすでに武田家の後継者候補との婚姻を実現させている。

これによって永禄十年には織田・武田・徳川が同盟関係となったのである。

駿河と遠江二か国の領主である今川氏真は美濃尾張伊勢三河信濃甲斐の六か国の同盟と対峙していることになる。

今川家には相模伊豆武蔵を領する北条家が同盟者としてあるが・・・北条家の関心は関東の経営にあり・・・求心力を失いつつある今川家にどれほどの援助を与えるか不透明である。

氏真は必死だっただろう。

そのために遠江国の国人衆の締め付けを行い・・・結果として国人衆の謀反を招き寄せる。

駿府への忠誠心を強要するあまりに国力そのものを減衰させていくわけである。

国人衆同士の政略結婚をいくらすすめても・・・一族郎党すべてが裏切ればはいそれまでよなのである。(仮記事です)

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2017年6月12日 (月)

永禄九年、近藤康用が井伊谷領に侵入す(柴咲コウ)

遠江国の名の由来は浜名湖にある。

近江国の琵琶湖に対応するわけである。

東海道は浜名湖の南側、それに対して姫街道は北側である。

明応七年(1498年)の大地震により淡水湖だった浜名湖は汽水湖となった。

つまり・・・東海道は分断されたのである。

そのために・・・姫街道側が発展することになる。

永禄九年・・・三河国はほぼ松平家康の支配下に入ったが・・・遠江国、信濃国と接する奥三河の国衆はまだ今川支配体制に属していたものもあった。

三河国宇利城の近藤康用もその一人である。

ある意味では・・・井伊谷より最前線であり・・・今川家に謀反する疑いで言えば井伊家より濃厚なのである。

そんな近藤康用が・・・井伊家の目付(監視役)であるというのはおかしな話であるが・・・要するに疑心暗鬼の戦国時代においては相互監視体制が日常化していたのだと考えることもできる。

戦国時代を全国的な縄張り争いと考えれば・・・三河国、遠江国、信濃国に接する土地は当然・・・安穏と過ごせる土地ではなかったのである。

同時に今川家の子分として近藤家は同じ子分の井伊家と縄張り争いもするわけである。

近藤康用の子、秀用は徳川家康に出仕し紆余曲折の後に井伊谷藩主にまで出世する。

井伊谷に関して言えば・・・近藤家は井伊家に対して縄張り争いで勝利する家柄なのだった。

最も井伊谷藩は一万五千石だが井伊直政の近江国佐和山藩は十八万石である。(仮記事です)

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永禄九年、井伊直虎杣人を雇用する(柴咲コウ)

林業の従事者はかっては杣工(そまのたくみ)と称せられたという。

工は匠であり・・・要するに専門的な技術者である。

職人的な知識や技術をもって成立する山の民である。

木造建築を基本とするわが国の権力者にとって・・・材木を生み出す杣人たちは重要な集団なのである。

平地の人里に棲む人々にとって山奥に棲む杣人たちは異人の一種でもあり・・・ある意味では鬼人であった。

ルールを異にする集団は反目するのが常であるが・・・領域がことなるために摩擦も少ないのである。

平地の人々からみれば山の人々はアウトロー(法外)である。

時には山賊との区別は曖昧になる。

しかし・・・山人にも社会的な集団もあれば掟もあるのだった。

当然・・・信仰もある。

山の神に対する信仰心は農民が鎮守の森を信仰するように篤いのである。

日本には神と仏が聖徳太子の頃から入り混じるのであるが・・・山の神もまた仏教と混交していく。

修験者の修験するものが・・・神の道なのか・・・仏の教えなのか・・・それは定かではないのである。

杣人が盗賊の集団であると・・・匂わせるこのドラマでは・・・商人と武家が別格であるかのようにも匂わせる。

士農工商というまだ確立されていない制度が・・・反映してしまっているのである。

まあ・・・ゆとりというものは・・・そういう歴史音痴を許容する集団とも言えるのだった。

織田信長も豊臣秀吉も・・・そして徳川家康も・・・類まれな経済人であり・・・大商人だったという発想が欠けているのだ。(仮記事です)

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永禄九年、井伊直虎誘拐事件(柳楽優弥)

さて・・・もう・・・これは大河ドラマではないと断言したいところだが・・・大河ドラマの枠でやっている以上・・・正真正銘の大河ドラマなのである。

なんていうか・・よい子の戦国時代なんだよな。

あるいはゆとりの戦国時代っていうか。

ホモサピエンスの生き方には二通りあって・・・社会的に独立して個のヒトとして生きるか・・・社会的に共存する人間として生きるかの選択肢がある。

もちろん・・・自由や平等という理想と同じでその境界線は非常に曖昧だ。

いかに個人として生きようとしても・・・その欲望の中には生殖行為が含まれているので家族というしがらみは生じやすい。

子を捨て親を殺すのは河原者の務めであるが・・・この世の掟はコンプライアンス(追従)を求めるわけである。

このドラマの根底には・・・そういう妥協の産物と・・・作者の譲れない何かが火花を散らしているような気がするが・・・それがやや乙女チックに傾斜するので・・・辟易するわけである。

社会は人間集団の維持を第一義とする。

そのために様々な制度が考案されるのである。

階級、法律、刑罰・・・様々なルールが個人を縛りつけて行く。

朝廷には朝廷の・・・公家には公家の・・・武家には武家の・・・そして盗賊には盗賊のおきてがあるのだった。

武田信玄の父親・信虎は興にまかせて妊婦の腹を切り裂き・・・人道上の罪で国外追放となった。

しかし・・・見方によっては・・・子が父を処分した下剋上である。

それをどちらで見せて行くかは・・・もはや好みの問題だろう。

罪を憎んで人を憎まずという・・・次郎法師の心情が・・・すけこましにおぼれやすい乙女の視点で描かれるという不気味さを受け入れれば・・・まあ・・・楽しめないこともないのかな。

この年の暮れ・・・永禄九年(1567年)十二月・・・松平家康は従五位三河守となり徳川氏に改姓する。

徳川家康がまもなく誕生するわけである。

その頃・・・やがて家康の家臣となる井伊直政の養母であり再従姉(またいとこ)である井伊直虎が気賀を根城とする盗賊団に拉致監禁されたかどうかはもちろん定かではない。(仮記事です・・・もうお気づきでしょうが・・・本記事になることはないと考えます)

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2017年6月 4日 (日)

永禄八年、ヒャラ~リヒャラリコヒャラリラリ~(髙橋ひかる)

井伊家の伝承によれば永禄八年(1565年)に井伊直虎が家督を継承したことになっている。

この年は遠江国の国人領主たちが親今川氏と反今川氏に分かれて抗争した遠州忩劇の未だ渦中にある。

つまり・・・遠江国は内乱状態なのである。

そもそも・・・井伊直虎が家督を継いだのは反今川の旗手である曳馬城主・飯尾連竜を攻めた井伊家の当主である中野直由が討死してしまったからなのである。

飯尾連竜はこの年の暮れに今川氏真によって謀殺されるが・・・曳馬城に籠城した飯尾家臣団の抵抗は永禄九年も続いている。

つまり・・・井伊家はその戦の真っ最中にあるわけで・・・こんなにうすらぼんやりとした日々を送っていたわけがないのだ。

いや・・・そうであってほしいという願いもむなしく・・・井伊谷に周辺は・・・まるで江戸時代の小藩のようにのんびりと産業振興に夢中になっているのだった。

いや・・・それどころか・・・死んだ許嫁が亡命先で現地の女と子を為していたことで・・・主人公の心が乱れに乱れるという・・・なんのこっちゃ展開である。

いや・・・もういやああああああ。

しかし・・・高瀬姫を演じる高橋ひかるが・・・とても好みなのですべてを水に流すキッドなのでした。(仮記事です)

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2017年5月14日 (日)

永禄八年、武田信玄が嫡男義信を幽閉す(柴咲コウ)

うわあ・・・まだ永禄八年(1565年)なのかよ・・・。

永禄四年(1561年)生れとされる虎松(井伊直政)が数えで五歳だからそうなんだけどね。

数え年というのは生れた年を一歳と数える年齢のことである。

十二月三十一日に生れると翌日には数えで二歳になります。

満年齢だと一歳にもならないので・・・感覚に狂いが生じるひとつの要素です。

数え年だと誕生日に年をとるのではなくて・・・みんな正月に年をとるわけです。

さて・・・松平家康の家臣・酒井忠次が今川氏真の家臣・小原鎮実の守る三河国吉田城を開城させた年である。

だから、まだ徳川家康にはなっていないのだった。

武田信玄が嫡男・義信を幽閉するのは十月のこととされている。義信の傅役である飯富虎昌らが信玄暗殺を計画していたというのがその理由ということになる。

義信の正室となっている嶺松院の母は今川義元の正室で武田信玄の姉である定恵院である。

つまり従兄妹同士の婚姻となる。これによって武田義信と今川氏真は従兄弟であり義兄弟にもなっているのだった。

その義信が幽閉されるというのは・・・今川家を揺るがす大事件なのである。

一方・・・この年・・・織田信長の姪である龍勝院と信玄の四男である勝頼が婚姻したとされている。

今川家にとって・・・それもまた大事件であっただろう。

義信の幽閉とともに嶺松院は離縁されたという説もあるが定かではない。

とにかく・・・まだ・・・永禄八年だったんだな・・・。

で、『おんな城主  直虎・第18回』(NHK総合20170501PM8~)脚本・森下佳子、演出・藤並英樹を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。ついに次回が始ってしまう感じである。読者の皆様には申しわけないと思うのだが・・・画伯の描き下ろしもないし・・・記事作成者のモチベーションが・・・さて、数え年ついでに以前の記事にも書いた歴史ドラマ的な記述の問題点をもう一度。年号と西暦の関係についてである。西暦と年号の月日は必ずしも一致しない。たとえば三河国上ノ郷城主の鵜殿長照が討死したのは永禄五年二月四日(1562年3月8日)のことであるが・・・虎松こと井伊直政の父・井伊直親が討死するのは永禄五年十二月十四日(1563年1月8日)のことなのである。これを略すと長照は永禄五年(1562年)に死没し、直親は永禄五年(1563年)に死没したことになる。おわかりだろうか・・・正確な記述なのだが・・・人によっては書き間違いと誤解する可能性があるのではないかと・・・思うのだった。そもそも・・・当時は全国一律のカレンダーがあるわけではなく・・・地方それぞれに暦があったと言われる。同じ一月一日でも・・・それが確実に同じ日だったかどうかは・・・いろいろと断言しづらいことになる。当時の教養人が日記を書いていてその日付が歴史の一部になるわけだが・・・テレビの全国放送があるわけではないのである・・・各地の出来事は手紙や噂で伝わってくるわけである。それが本当はいつの出来事なのか・・・正確性には疑いが生じる。このように・・・戦国時代のあれやこれやは・・・もやもやの中に包まれているわけだが・・・あんまり・・・もやもやされてもなあ・・・と思うのだった。

Naotora018天文十年(1541年)、甲斐武田家の第十八代当主・武田信虎は嫡男・晴信(武田信玄)によって駿河に追放される。 天文十九年、信玄の姉で今川義元の正室の定恵院が死去。 天文二十一年(1552年)に定恵院の娘である嶺松院が信玄の嫡男・武田義信の正室となる。永禄三年(1560年)、桶狭間の合戦で義元が討死。永禄八年(1565年)、信玄の家臣であり、義信の傅役だった飯富虎昌に信玄暗殺の密議をした謀反の疑いがかけられる。十月、虎昌は自害。義信は謀反に加担した疑いで甲府東光寺に幽閉される。この時、嶺松院は義信と離縁したと言われる。十一月、信玄の四男・諏訪勝頼と織田信長の姪・龍勝院の婚姻が成立されたとされる。織田家と今川家は交戦中であり、同盟国である武田家が織田家と婚姻関係を結ぶことは今川家にとって裏切り行為であったと言える。勝頼と龍勝院の婚姻は史実であるがその時期については伝承の域を出ない。少なくとも武田今川同盟の象徴である武田義信と嶺松院の婚姻関係の解除や義信自身の幽閉は・・・今川家に衝撃をもたらしたと推測できるのだった。

秋葉山は信濃国、遠江国の国境を結ぶ霊山である。

古くから火伏せの神が宿ると言われる。

秋葉大権現はその体現者である天狗であった。

その実態は山の民であり、修験者である古き忍びの一族である。

山の神聖な空気の中・・・神通力を求める修験の者たちは過酷な行の果てに万人に一人の低確率でもたらされる奇跡を信じているのだった。

戦国時代に名を残す忍者たちの何人かは・・・そうした修行を行ったものであったとされる。

猿のように樹間を飛ぶ猿飛の術を会得したとされる佐助、念力によって霧を呼ぶことの出来た才蔵などはそうした神通力を会得したものたちである。

しかし・・・多くのものは狩人として・・・あるいは杣人として・・・山間で暮らす山の民にすぎない。

過酷な山の暮らしが強靭な肉体を作り上げ・・・時に兵士として有用だったのである。

だが・・・山の民は・・・官の支配を嫌い・・・独立自尊の気概が強かった。

秋葉山の修験のものは散在する山の民たちのネットワークの要であり・・・潤滑油の役割を果たしている。

松下一族はそうした修験のものの家系であった。

秋葉の山の主を自称する松下蓮昌もその一人である。

蓮昌は・・・山の民や天龍川周辺の農民の子を預かり・・・見所ありとみれば忍びとして育成するのである。

十歳にもみたない常慶坊もその一人であった。

しかし・・・常慶坊は早熟で天才の片鱗を見せている。

蓮昌は・・・常慶坊の覚えの早さに驚愕するのだった。

一を聞いて十を知る・・・常慶坊は・・・そういう才能を持っていたのである。

知能だけでなく体力も抜群であった。

常慶坊は・・・すでに大人顔負けの体術を会得している。

蓮昌はひそかに・・・常慶坊を「もののけ」として惧れている。

秋葉山の社に・・・常慶坊が姿を見せたのは紅葉の季節だった。

「蓮昌さま・・・ただいま・・・もどりましてございます」

「よう・・・もどった・・・甲斐の様子はどうだった」

「府中は静かなものでございました」

「武田のお家の動きはいかがか」

「あれは・・・信玄公の色香の迷い・・・正室より・・・側室に気が動いたのでございます」

「色香の迷い・・・」

「嫡男殿は・・・寺にて大人しく謹慎しております」

「さようか・・・」

「信玄公は・・・諏訪勝頼に特別目をかけておいでです」

「では・・・今回の騒動は・・・色ごとか・・・」

「いいえ・・・信玄公は・・・数年のうちに・・・駿河に攻めよせましょう」

「なんと・・・そのわけは・・・」

「それが戦国の世というものではございませんか」

子供に諭されて・・・蓮昌は鼻白んだ。

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2017年5月 7日 (日)

永禄十一年、足利義栄に室町幕府第十四代将軍宣下(柴咲コウ)

このドラマでは遠江国は常春の国のようにも感じられる。

いや・・・冬もあって春がきて・・・田植えをしたり・・・夏っぽかったりもするのだが・・・じゃあ・・・それが永禄何年の春なのか・・・夏なのか・・・よくわからないわけである。

永禄四年の早春に生まれた虎松こと井伊直政は永禄十一年には数えで八歳になっている。

虎松を演じる寺田心の実年齢はまもなく満九歳になり・・・概ね・・・そういう年頃なのだろう。

虎松の父・井伊直親は井伊直盛の娘・次郎法師にとって五親等の叔父であり・・・虎松は六親等の再従弟(またいとこ)ということになる。

井伊一族としては本家の娘と・・・分家の叔父を娶わせて総領とするつもりが紆余曲折あったわけである。

虎松の父親は・・・一応、総領家の養子となっているので・・・虎松は後継者として申し分ない資格を有している。

しかし・・・その後ろ盾となるのが・・・誰であるべきなのかは錯綜するわけである。

実際の処がどうだったのかは・・・謎に包まれている。

そのあたりのことを・・・のほほんと描いていくわけである。

もう・・・そういうドラマなんだと思って受け入れるしかないよねえ・・・。

で、『おんな城主  直虎・第17回』(NHK総合20170430PM8~)脚本・森下佳子、演出・藤並英樹を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。歴史に集合と離散はつきものです。大陸でも列島でも大集団・・・帝国が成立しては滅び・・・内戦状態になって・・・やがて統一されて・・・また分裂する。いわゆる・・・歴史はくりかえすというやつで・・・くりかえされることは本質でもあるといえるし・・・悲喜劇の温床でもございますねえ。権力で言えば集中と分散・・・。現代という情報社会では・・・情報の浸透と拡散というところでしょうか。情報の流行やトレンド・・・教養とリテラシー・・・そういうものも無縁ではない気がいたします。知識も経験もない人々が・・・知識や経験を嘲笑したり・・・勝者に敗者が追従する・・・実力と人間的魅力とは必ずしも一致しない。そういう様々な知恵の宝庫である歴史なんてどうでもいいというスタンスの大河ドラマも過去にありましたが・・・今回のは歴史は歴史として尊重するけれど・・・歴史だけがすべてじゃないでしょうというニュアンスが漂ってきますねえ。どちらかといえば・・・せせこましい・・・人間関係のもつれのリフレイン。まあ・・・そういうロマンもあってもいいと思う今日この頃です。

Naotora017天文十二年(1543年)、 種子島時堯がポルトガル人より鉄炮2挺を購入する。 1挺が根来寺杉坊・津田算長に譲られ、 根来僧による鉄砲隊が組織される。もう一挺は室町幕府第十二代将軍・足利義晴に献上されたとされる。種子島氏は鍛冶職人・八板金兵衛らに命じ火縄銃の開発に着手する。天文十四年(1545年)、種子島氏は国産火縄銃を完成する。天文十八年(1549年)、織田信長は近江国国友村に火縄銃五百挺を発注する。天文二十三年(1554年)、伊集院忠朗は島津貴久による岩剣城攻めで鉄砲隊を実戦に投入して戦功をあげる。この頃、紀伊雑賀衆も鉄砲隊を形成開始したと推測される。永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いに際して信長軍は今川義元軍強襲において鉄砲隊による先制を行ったという説がある。永禄四年(1561年)二月、虎松こと井伊直政誕生。永禄五年十二月(1563年)、井伊直親暗殺。永禄八年(1556年)、虎松の後見人である中野直由(井伊氏)と新野親矩(今川家臣)が戦死。次郎法師が女地頭となったという説がある。永禄十一年(1568年)二月、足利義栄に室町幕府第十四代将軍宣下。三月、寿桂尼死去。

「すると・・・外記殿は・・・瀬名様とともに岡崎におられるのか・・・」

「織田家と徳川家の縁組が整い・・・ようやく・・・信康殿も岡崎の城に入られ申してござる」

「徳川・・・」

「松平の殿は・・・徳川を名乗られ・・・朝廷より三河守を賜れました」

「瀬名様の夫が・・・徳川三河守に・・・」

龍譚寺の月船庵は・・・井伊次郎法師直虎の陰の密会所である。

井伊谷の地頭としての井伊谷城とは別に・・・名目上の支配者である今川家に憚りのある要人はここに案内されることになっている。

龍譚寺には・・・治外法権の認可が与えられているのである。

事実上の徳川家康の密使である関口外記は・・・井伊谷の隠し目付の目にとまり・・・忍びの僧たちによって・・・月船庵に導かれたのだった。

「瀬名様はお元気か・・・」

「今川家の没落ぶりに・・・少し気落ちしておられましたが・・・嫡子・信康殿が・・・徳川家の世継ぎと決まりましてからは・・・生母として・・・御正室として・・・処遇され・・・今は落ち着いておられます」

「瀬名様も・・・苦労多きことよ・・・」

家康の独立の責を負い・・・瀬名の実母と養父は・・・自害して果てたのである。

「関口親永様は・・・わが義理の伯父でござった」

「さようか」

「関口家も・・・所領を失い・・・ほとんど離散したようなもの・・・」

「氏真公も惨いことをなさる」

「今川のお家も・・・しまいでござろう」

「さようかのう・・・」

次郎法師は言葉を濁す。

「盛者必衰でござる・・・勢い衰えれば豺狼の餌食となるばかり」

「おそろしきこと・・・」

「もはや・・・今川につくか・・・徳川につくかではござらぬ・・・」

「・・・」

「北の武田につくか・・・西の徳川につくかでございます」

「武田・・・」

「甲斐・・・信濃を制した信玄公は・・・父親を追放し・・・嫡男を幽閉した・・・油断ならぬお方・・・」

「やはり・・・今川と武田は手切れになるのかのう」

「武田家は・・・海を求めて・・・北へと向い・・・上杉家に行く手を塞がれました・・・南に・・・獲物があるとなれば・・・手を出さずにはおられますまい」

「で・・・あろうかのう」

次郎法師は言葉をはぐらかす・・・。

「瀬名様と次郎法師様の父御は・・・従兄妹同士・・・縁あさからぬことでございます」

「元康・・・いや・・・家康公にお味方せよ・・・と申されるか」

「それが井伊家のおためと心得る・・・」

関口外記は・・・顔を伏せた。

次郎法師は・・・無言でその姿を見つめている。

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2017年4月30日 (日)

永禄十年、織田信長天下布武の朱印を用いる(柴咲コウ)

永禄五年(1563年)に井伊直親が朝比奈泰朝に討たれて・・・前年に生れた虎松が残される。

虎松が後に徳川四天王の一人、井伊直政として歴史に名を残すために・・・井伊家というものが歴史的に研究される対象となるわけである。

研究者たちは・・・残された史実(発給文書や墓誌)や個人的な日記、口伝の覚書などを元に・・・井伊家の実像にせまるわけだが・・・それらはある程度・・・その時代に都合よくまとめられたものにすぎない。

そもそも・・・「過去」という膨大な情報の再構築は不可能なものなのである。

悪魔とされるサタンは・・・神の敵であるが・・・敵である以上・・・サタンもまた古き神なのである。

井伊家の語る歴史において・・・小野家が敵役となるのは・・・自分たちが正当であることを主張しているにすぎない。

歴史は勝者によってつくられることが大前提なのである。

そこで生れた井伊次郎家を継ぐ女城主・直虎の伝承から・・・この大河ドラマは作られている。

当然・・・本当の本家である井伊太郎家があったはずだが・・・それは歴史の闇に葬られているわけである。

比較的新しい井伊分家である中野家と・・・分家の分家であるが血縁によって力を保持する奥山家によってかろうじて支えられる井伊次郎家の娘・次郎法師と・・・次郎法師の父・直盛の養子である井伊直親の忘れ形見・虎松との微妙な関係は・・・脚本家の妄想力をかきたてるわけである。

平安時代と呼ばれる承和七年(840年)に完成した「日本後紀」によれば延暦十八年(799年)に三河国に崑崙人らしき異人が漂着し綿の種子を日本に持ち込んだとされる。

この記述によって・・・三河国の人々は我こそが「元祖綿作り」を主張するわけである。

しかし・・・日本国の綿の生産力は乏しく・・・その後、五百年以上は半島や大陸からの輸入に頼る高級品であったという。

戦国時代になって・・・国内の綿花の栽培が本格的に開始されたというが・・・本格的な増産は豊臣政権の確立後であろうと推測される。

つまり・・・近畿地方がその生産拠点であっただろう。

そういうことは元祖的に・・・東海地方の人々にとって・・・あまり触れたくないことであると妄想できるのだった。

ついでに為政者にとって・・・農地の拡大は常に課題だった。奈良時代と呼ばれる養老七年(723年)には三世一身の法が発布されている。

墾田の奨励のために開墾者から三世代まで墾田私有を認めるというわけである。

孫の代までじゃモチベーションがあがらないというものもあり・・・やがて・・・日本中に私有地が拡大していくのだった。

三年間の年貢免除で・・・開拓農民が本当に喜んだのかどうかは定かではない。

そもそも・・・この時代にはまだ士農工商という身分制度はないのである。

で、『おんな城主  直虎・第16回』(NHK総合20170423PM8~)脚本・森下佳子、演出・藤並英樹を見た。例によってシナリオに沿ったレビューはikasama4様を推奨します。画伯お加減いかがでしょうか・・・。時系列的には・・・永禄十一年(1568年)三月、今川義元の母・寿桂尼が死去して・・・八月に今川家臣の関口氏経が井伊直虎に書状で徳政令を促している。さらに十一月に井伊次郎と氏経が連名で徳政令に署名したということになっていますが・・・十二月には武田信玄が駿河侵攻を開始する。その直前の・・・遠江国は・・・戦とは無縁の牧歌的な世界だった・・・という趣向なのでございますねえ。松平家康による吉田城攻略が永禄八年(1565年)で織田信長による稲葉山城攻略が永禄十年(1567年)なので・・・茶屋の噂話によれば・・・ドラマの中ではその間の時空間が進行しているようでございます。荒れ地を開拓したら私有地とするとか・・・綿花栽培による産業振興とか・・・いろいろな時代が混交しているような気がしないでもないですが・・・局所的にはあってもおかしくない話なので・・・絵空事としては成立しておりますよね。人身売買を肯定的にとらえるとか毒も効かせていて脚本家の矜持も感じますな。そのうち・・・「米がなければ饅頭を食えばいいではないか」と主人公が言い出すのではないかと胸がときめく今日この頃でございます。週一更新にしてから・・・どんどん・・・更新が遅れて行くのも・・・人間性の証明と言えましょう。うわあ・・・ついに日曜日だ・・・です。

Naotora016 弘治三年(1557年)、第百五代後奈良天皇が崩御。永禄二年(1559年)、本願寺顕如が朝廷に献金し、綸旨によって門跡となる。永禄三年(1560年)、毛利元就が従四位下陸奥守に叙任される。元就の献金で第百六代正親町天皇は即位の礼を挙げた。永禄七年(1564年)、松平家康が三河国吉田城攻略戦を開始。永禄八年(1565年)、家康家臣・酒井忠次が吉田城主となる。永禄十年(1567年)五月、家康の嫡男・信康と織田信長の娘・徳姫の婚姻が成立する。信康の母親である築山殿を井伊直平の娘が産んだという説にたてば井伊家と織田家は親戚関係になったわけである。しかし、これには言うまでもなく諸説あるのだった。徳川信康も次郎法師直虎も・・・井伊直平の曾孫であるという説があるだけである。永禄十一年(1568年)三月、今川義元の母・寿桂尼が死去。九月、信長は将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し上洛戦を開始。十月、信長は正親町天皇の保護を大義に掲げ京を制圧する。義昭は室町幕府第十五代将軍となった。

三河国と遠江国の国境を越えて・・・林崎甚助と関口外記は井伊谷を目指していた。

三河国による今川方の相次ぐ敗戦で・・・国境では落武者狩りが横行している。

親類縁者を頼って戦火を逃れてくる農民にまぎれて城を失った領主一族も落ちのびてくるのだが・・・殺気だった武装農民たちは・・・これを見逃さず・・・密かに襲撃して・・・男は殺し、財を奪い、女子供は売り飛ばすのである。

家康に嫁いだ瀬名姫の父・・・関口親永が今川氏真によって処刑されると関口一族は駿河に残るもの・・・北条領に逃れるもの・・・武田信玄に密かに内通するものなど・・・様々に分かれて行く。

関口外記は瀬名姫付であったために・・・好むと好まざるとに関わらず家康の家臣となっていた。

駿河の領地は氏真が没収し、三河の関口領はすでに家康の裁量下に置かれている。

関口一族は領土を失ってしまったのである。

諸国を塚原卜伝と回遊した林崎甚助は今川氏真に剣術指南をしたこともあり・・・関口外記とは旧知の間柄である。

家康の密命を受けた関口外記が井伊谷に使者に向うことになり・・・徳川信康屋敷に滞在中の甚助が警護役を請けたのだった。

もちろん・・・目的は井伊谷衆の調略である。

一向は・・・外記の郎党と甚助の門弟を合わせて十人だった。

これだけの人数を揃えても・・・武装農民に襲撃されれば安穏とはしていられないのである

神社仏閣に一夜の宿を求めれば毒を盛られる可能性もある戦乱の世である。

しかし・・・長く諸国を武者修行する甚助には各地に顔が利くために・・・比較的安全に通行が出来るのだった。

遠江国の野武士が作った山賊の関を越えたところで百人ほどの一揆勢が一行を囲む。

「待て待て・・・我は林崎甚助じゃ・・・これは・・・我が門弟たち・・・うかつに手を出せば怪我をするぞ」

その声に応ずるものがあった。

「これは・・・林崎先生だったずらか」

「お・・・」

「村で先生に教えを受けたものずら・・・」

甚助は・・・農民たちにも・・・剣の手ほどきをすることがある。

「さようであったか」

「先生たちに手を出すわけにはいかねえずら・・・」

「それはありがたいな」

「いんや・・・先生とお弟子様たちに手を出せば・・・こっちに死人が出るに決まってるずらよ」

「まあ・・・なるべく殺生はせぬように手加減はするがのう」

甚助は微笑んだ。

「どうぞ・・・お通りくだせえ・・・なんなら・・・村でお休みなさってもかまわねえずら」

「いや・・・先を急ぐので・・・このまま行かせてもらうぞ・・・達者でな」

緊張していた関口外記はようやく肩の力を抜いた。

「さすがは・・・林崎殿・・・」

「なになに・・・たまたまのことでござるよ」

こうして・・・一行は無事に井伊谷に到着した。

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