学習障害者、発達障害者、そして健常者のいない世界(榮倉奈々)
ドラマのレビューを続けるためにオンエアされるすべてのドラマを見ることにちょっと疲れたのでしばらくお休みしていたのだが気が付けば長期休眠に突入していたのだった。
レビューをしないととにかく自分の好みにあわないドラマを無理に視聴する必要がないので個人的には非常に快適な日々でした。
もちろんこの世につまらないドラマなどはなく面白くないのは単に視聴者が不勉強だからである。
とはいえ…あまりに未熟で拙速で不出来な作品というのがないわけではない。
だがものすごく豊潤で深みがあり素晴らしい作品もあるのだった。
で、『僕らは奇跡でできている・第1~7話』(フジテレビ20181009~)脚本・橋部敦子 、演出・河野圭太(他)を見た。大杉漣のいなくなった世界の僕シリーズが展開された僕らの物語なのである。人間が人間であるためには人間としての調教が必要なのであるがそれを否とする野生の反逆が根底にあります。
キッドが生まれた頃には発達障害というカテゴリーはなく、ただエジソンはダメな子供だったが天才で偉人だったという物語のみがあった。
今は発達障害というカテゴリーがあり、学習障害というカテゴリーがあり、知覚障害というカテゴリーがある。
ダメな子にはそれぞれのカテゴリーに応じて、適切な対処が可能であるように思われている。
だが世界的なトップリーダーが50億円脱税することを見て見ぬふりをする社会である。
あらゆる病気が専門家の診断をあおげばなんとかなるような気もするがあまねくコンビニエンスストアが進出する国家でも専門医のいないド田舎は存在するのである。
発達障害なんて知らないという一部地域が存在することは十分に想像できるわけである。
このドラマのすごいところは明らかに発達障害とか学習障害とかいうカテゴリーを発声しないアクロバットさにある。
主人公の相河一輝(高橋一生)はあきらかに発達障害的な匂いを醸し出すいわゆる空気を読まない都市文化大学の動物行動学の講師である。
周囲の人々・・・学生や同僚たちは一輝の言動に戸惑う。
しかし・・・発達障害はもちろんコミュニケーション障害などという怪しいカテゴリーが存在しない世界では「彼は○○だから」という一言で片づけられないのである。
これは機知外に刃物という言葉の存在不能となった世界に準じる軽妙洒脱な設定といえるだろう。
一方で発達障害が軽度な健常者であるふつうの人々の周辺に水本歯科クリニックの水本育実(榮倉奈々)が配置される。
彼女はドラマ「僕と彼女と彼女の生きる道」(2004年フジテレビ)の小柳義朗(大杉漣)のポジションである。エリートとして勤労一筋の仕事人間だった義朗は仕事よりも家庭を優先し始めた息子の徹朗(草彅剛)の言動に激しく戸惑うのだった。
歯科医と患者として一輝に出会った育実は50億円脱税することが頂点の経営者として「すごい人間」になることが人としてまちがっているかもしれないと動揺するのだった。
おいおい・・・それはどうかな。
一方、虫歯が縁で知り合った小学生・宮本虹一(川口和空)と意気投合する一輝。
女児ではなく男児の設定なのは連れまわしたり家に連れ帰ったりするので別の問題が発生しないための対処である。
虹一もまた「教科書を読むと頭が痛くなる」が「絵を描くことは大好き」というダメな子なのである。
誤解を招くぞ。
虹一の母親・涼子(松本若菜)は「やればできる」と言われる虹一を「ふつうの子供」にしようと必死なのである。
なにしろ・・・発達障害といカテゴリーが存在しないので教師も母親も「ダメな子」としか認識できないのである。
明らかに非常識な言動をする一輝から虹一を引き離し、ふつうになるための学習塾を強要する母親。
仮病を使って登校拒否し家出をした虹一は一輝の家に逃亡する。
小学聖男色日記ではないので一輝の家には家政婦の山田さん(戸田恵子)が配置されているのだった。
やがて観察眼に優れた一輝は虹一の視覚に障害があることを推測する。
視覚過敏による特殊な読字障害による学習障害によって発達障害的な感じになっているという虹一の設定である。
発達障害の一言で片づけない脚本家の執念を感じる展開なのであった。
ダメな子供ではなくダメな母親だったと傷心する涼子はさておき・・・動物行動学者の一輝にけだものとしてあつかわれた育美はいつしか頬をほんのりそめるのであった。
幸福を追求するときが幸福なのか…幸福なんて知らないのが幸福なのか。
人はよくわからないで生きている。
関連するキッドのブログ→『東京タラレバ娘 』
あくまで一時帰宅です(=^・^=)
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